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総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月

2022-09-27 17:35:55 | 日記
「総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした」 “友人代表”菅前総理が追悼の辞 安倍元総理国葬

9/27(火) 15:00配信

菅前総理

 安倍晋三元総理の国葬が27日午後、東京・日本武道館で執り行われ、菅義偉前総理が友人代表で追悼の辞を読み上げた。 

菅前総理「追悼の辞」 涙ぐむ場面も  歴代最長の安倍内閣で総務大臣、長らく官房長官を務めた菅前総理から語られたのは、無念さや安倍元総理に対する尊敬の念、また感謝を述べる際には涙ぐむ場面もあった。

 *****  

友人代表弔辞  7月の8日でした。

  信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。

あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。 

 その一心で現地に向かい、そして、あなたならではのあたたかなほほえみに、最後の一瞬、接することができました。 

 あの運命の日から80日が経ってしまいました。

  あれからも朝は来て、日は暮れていきます。

やかましかったセミはいつの間にか鳴りをひそめ、高い空には秋の雲がたなびくようになりました。 

 季節は、歩みを進めます。

あなたという人がいないのに、時は過ぎる。

無情にも過ぎていくことに、私はいまだに許せないものを覚えます。 

 天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から生命を召し上げてしまったのか。 

 悔しくてなりません。哀しみと怒りを交互に感じながら、今日のこの日を迎えました。

  しかし、安倍総理…とお呼びしますが、ご覧になれますか。

  ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。 
 20代、30代の人たちが、少なくないようです。

明日を担う著者たちが大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。

  総理、あなたは今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。

若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。

  そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。

――これが、あなたの口癖でした。 

 次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて経済も成長するのだと。 

 いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。

報われた思いであります。 

 平成12年、日本政府は北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。 

 私は、当選まだ2回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で大反対の意見をぶちましたところ、これが新聞に載りました。

  すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と電話をかけてくれました。 

 「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。

  信念と迫力に満ちたあの時のあなたの言葉は、その後の私自身の政治活動の糧となりました。 

 そのまっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は直感いたしました。

この人こそはいつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。

 私が生涯誇りとするのは、この確信において、一度として揺らがなかったことであります。

  総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。

そのことを負い目に思って、二度目の自民党総裁選出馬をずいぶんと迷っておられました。 

 最後には2人で銀座の焼鳥屋に行き、私は一生懸命、あなたを口説きました。

それが、使命だと思ったからです。  3時間後には、ようやく首を縦に振ってくれた。

私はこのことを菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも誇らしく思い出すであろうと思います。

  総理が官邸にいるときは、欠かさず一日に一度、気兼ねのない話をしました。

今でもふと1人になると、そうした日々の様子がまざまざとよみがえってまいります。

  TPP交渉に入るのを、私はできれば時間をかけたほうがいいという立場でした。

総理は「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。

  一歩後退すると勢いを失う。

前進してこそ活路が開けると思っていたのでしょう。

総理、あなたの判断はいつも正しかった。 

 安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案をすべて成立させることができました。

 どのひとつを欠いても、我が国の安全は確固たるものにはならない。

あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものです。 

 国難を突破し、強い日本を創る。

そして、真の平和国家日本を希求し、日本をあらゆる分野で世界に貢献できる国にする。

  そんな覚悟と決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは常に笑顔を絶やさなかった。

いつもまわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。 

 総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8カ月。私は本当に幸せでした。

  私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。

何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。

  衆議院第一議員会館、1212号室のあなたの机には、読みかけの本が1冊ありました。

岡義武著『山県有明』です。 

 ここまで読んだ、という最後のページは、端を折ってありました。

そしてそのぺージには、マーカーペンで線を引いたところがありました。

  しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲んで詠んだ歌でありました。

  総理、いまこの歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。 

 かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ  
かたりあひて 尽しゝ

人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ  深い哀しみと、寂しさを覚えます。

総理、本当に、ありがとうございました。 

 どうか安らかに、お休みください。  

令和四年九月二十七日 前内閣総理大臣、友人代表 菅義偉 (ABEMA NEWS)

私たちがアベノミクスで豊かにならなかったわけ超金融緩和の固定化にはこんなにも弊害がある

2022-09-27 16:05:47 | 日記
私たちがアベノミクスで豊かにならなかったわけ超金融緩和の固定化にはこんなにも弊害がある

日本が貧しくなった原因を「デフレ」としたのは、そもそも誤診だった。

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過去30年、グローバリゼーションやICT革命で、日本ではメンバーシップ型雇用が減り、非正規雇用との二極化が進んだ。

働き方や家族形態の変容に社会保障制度が対応できず、消費が低迷し、少子化にもつながった。

10年前、多くの人は「2000年代に貧しくなった元凶はデフレ」と判断し、アベノミクスが採用された。

そうした政策で私たちは豊かになったのか。

時間当たり実質賃金を見ると、1980年代は年率1.8%、1990年代は1.1%上昇したが、2000年代は0.2%下落し、確かに貧しくなった。

そして2010年代は0.3%とわずかに上昇した(上図)。

生産性上昇率は低下した

時間当たり実質賃金の変化率は、
①時間当たり労働生産性上昇率、
②労働分配率の変化率、
③交易条件の変化率、の3つに分解できる。

このうち、実質賃金の引き上げに不可欠な生産性上昇率は、1980年代は年率2.8%だったが、1990年代は1.8%、2000年代は0.8%、10年代は0.3%と低迷した。

アベノミクスには「3本の矢」があったが、1本目と2本目の金融政策・財政政策頼みで、3本目の成長戦略は進まなかったと考える人が多い。

ただ、反成長戦略が取られたわけでもない。なぜ生産性上昇率は低迷を続けたのか。

筆者は、追加財政や金融緩和を完全雇用の下でも続けたことが、生産性上昇率を低下させたと考える。

資源配分を歪め、成長戦略の効果を相殺したとみている。

では、生産性上昇率の低下にもかかわらず、2010年代の時間当たり実質賃金が悪化しなかったのはなぜか。

労働分配率、続いて、交易条件を見ていこう。

1990年代以降、欧米では労働分配率が大きく低下した。

イノベーションで生産性上昇率が上がって経済全体のパイが拡大しても、アイデアや資本の出し手に所得増加が集中し、平均的な労働者の所得はなかなか上昇しないからだ。

日本の労働分配率はどうだったか。

1980年代に年率0.5%下落、1990年代は0.3%上昇し、2000年代は0.2%下落した。

2000年代は、金融グローバリゼーションで、資本市場のプレッシャーから経営者は賃金を引き上げづらかった。

一方、2010年代の労働分配率は年率0.2%とわずかだが上昇した。

アベノミクスの賃上げ策が奏功したのか。

イノベーションが進まず、生産性上昇率が低迷する代わりに、欧米のように一部の人に所得が集中することもなかったためだと考えると、痛しかゆしだ。

2000年代に貧しくなった真因

交易条件はどうか。

1980年代は年率0.5%悪化し、1990年代は0.9%悪化。2000年代にも0.9%悪化して、1970年代の1.1%の悪化に迫った。

だが2010年代は0.2%の悪化と大きく緩和した。

2000年代の悪化は、中国の旺盛な需要によって原油などコモディティー価格の水準が切り上がったためだ(下図)。

資源価格が上昇すると、資源国に所得が移転してしまい、輸出価格に転嫁できなければ、交易条件が悪化して実質所得は抑制される。

2000年代初頭に1バレル=30ドルだった原油価格は、ピークの2008年には140ドル台をつけ、2010年代に入っても100ドル前後で推移していたが、2014年秋に急落し、交易損失は改善された。

ここで筆者が強調したいのは2000年代に貧しくなった真因である。

これまで見たように、
①労働生産性上昇率の低下と、
②労働分配率の比較的大きな低下、
③交易条件の大幅悪化が、実質賃金の減少をもたらしていた。

しかし、経済学者の齊藤誠も指摘するように、原油高でGDPデフレーターが低下したため、デフレで貧しくなったと多くの人が誤解した。

交易条件の悪化は、原油高によるインフレ現象であり、デフレ現象ではない。

しかし、輸入物価の上昇はほかの物価統計と異なりGDPデフレーターを低下させる。GDP統計上、輸入は控除項目であるためだ。

診断を誤り、リフレ政策という誤った処方箋を出してしまったことの帰結が、生産性上昇率の低下であり、それが、2010年代に交易条件の悪化が和らいだことや労働分配率の低下が止まったことによるプラスの効果を相殺したのである。

ちなみに、日本銀行は2014年10月の原油価格急落時に、追加緩和で円安を促し、せっかくの原油安の家計への恩恵を相殺してしまった。

2014年といえば、消費増税が家計の実質所得を抑制した年だ。

現在のコモディティー価格上昇は、コロナ禍で供給の回復が遅れる一方、経済再開で需要回復が先行したことが背景にある。

「カーボンニュートラル2050」を意識した化石燃料関連の更新投資の滞りやウクライナ危機もエネルギー高に拍車をかける。

その結果、交易損失は2022年1~3月期の段階で、2008年7~9月期を超えて悪化した。

円安は家計を圧迫している


ただ今回は、コモディティー高による輸入物価上昇を円安が増幅し、インフレ的現象であることが一目瞭然

人々の関心が再び日銀に向かうとしても、求めるのはリフレ政策ではないだろう。

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円安は、日本の財・サービスを割安にし、輸出拡大を促すため、確かに景気刺激効果を持つ。

家計が損失を被っても、景気刺激という点からはプラス効果が大きい。

日銀のイールドカーブ・コントロール(YCC)政策には、海外金利が上昇しても、日銀が金利上昇を抑え込み、内外金利差を拡大させることで円安を促し、インフレを醸成するメカニズムがある。

2%のインフレ目標の達成を目指す日銀としては、チャンス到来ということかもしれない。 

しかし、インフレが安定的な2%の目標に達しないという理由だけで、景気循環を超えて超金融緩和を固定化することは適切だろうか。

景気刺激効果だけで政策を決めるのは、視野狭窄ではないか。

名目賃金の上昇が限られる中、円安が輸入物価上昇を増幅すれば、家計の実質購買力は抑制され、消費回復の足かせとなる。

輸出企業に恩恵が及ぶとはいえ、企業は儲かってもため込むだけで、賃金を増やさず、人的資本や無形資産、有形資産への投資も活発化させない。何のために経済が存在するのか。

また、超低金利政策の長期化・固定化は、ゼロ金利や超円安なしでは存続できない生産性の低い企業を生き残らせるため、潜在成長率の回復も阻害する。だから実質賃金が上昇しない。

2012年末に日銀の金融政策に社会の関心が集まることで、「政策の窓」が開きリフレ政策が発動された。

2000年代の交易条件の悪化がデフレ問題と誤認されたことも背景にあった。

今回は、資源高による輸入物価上昇を円安が増幅し、家計の実質所得を抑制していることが、正しく認識されるだろう。

円安に関心が集まる今こそ、景気刺激という短期の視点を超えて、超金融緩和を固定化することの長期のメリット、デメリットを再検討する必要がある。

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