昭和天皇は太平洋戦争に反対だった…
それでも国家意思として開戦を決めた「御前会議」で話し合われたこと軍事的な常識は「勝てるはずがない戦争はすべきではない」
PRESIDENT Online
栗原 俊雄毎日新聞記者
なぜ日本は太平洋戦争に踏み切ったのか。
毎日新聞の栗原俊雄記者は「昭和天皇は開戦を決めた御前会議で、和歌を詠むだけで、戦争回避を求める発言はしなかった。
和歌の意図は戦争回避だったと考えられるが、作家の五味川純平も指摘しているようにそれだけでは不十分だったのではないか」という――。
※本稿は、栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)の一部を再編集したものです。
「自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない」という近衛文麿の決意
1941年9月5日、近衛首相は天皇に拝謁し、大本営政府連絡会議がまとめた「帝国国策遂行要領」(「要領」)を内奏した。
要点は、
(1)日本は自存自衛を全うするため、対米英蘭との戦争を辞さない決意のもと、おおむね10月下旬をめどに戦争準備を完整させる
(2)(1)に並行して米英との外交で要求貫徹に努める。交渉における最少限度の要求は別紙の通り
(3)(2)の外交により10月上旬ごろになっても要求貫徹のめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭開戦を決意する
というものだ。
日本側が求める「最少限度の要求」のうち、主なものは、
(A)米英は日本の「支那事変処理」に容喙ようかいしたり、妨害したりしないこと
(B)米英は極東において、日本の国防を脅かすような行為をしないこと
(C)米英は日本が必要な物資を獲得するのに協力すること
である。さらに、譲歩できる限度も想定した。
①日本は進駐した仏印(フランス領インドシナ、現ベトナム)を基地として、中国以外の近隣地域に武力進出はしない
②公正な極東平和が確立した後、仏印から撤兵をする
③フィリピンの中立を保障する
というものであった。
「要求」は、ハル4原則
(1)他国領土保全と主権尊重
(2)内政不干渉
(3)通商上の機会均等
(4)太平洋の現状維持]と真っ向から対立するものである。
その要求をのませる対価として、
「中国以外の近隣地域に武力進出はしない」などの前記の「譲歩」①~③は、あまりにも見劣りした。
筆者のみるところ、10円で100円を買おうとするようなものだ。
ともあれ、「要領」は自存自衛のために対米英蘭戦争を辞さない決意をし、10月下旬をめどに戦争準備を終える、そして10月上旬までに対米交渉で上記の要求を貫徹できるめどがつかない場合は、直ちに対米英蘭戦争を決意する、という内容である。
このときすでに、日本は非常に重要な物資である石油が入ってこなくなりつつあった。
対米交渉妥結が延びれば延びるほど日本の戦力、国力は削られる。だから交渉に期限を設けることも必要ではあっただろう。
開戦の気配を感じ取った昭和天皇
ただ外交は相手の意思や都合もある。
敗戦後の日米関係ならともかく、この段階での日米関係はどちらかが相手の要求をすべてのむ、という関係ではない。互いの譲歩が必要なのだ。
交渉期限を設定してしまうと、互いの譲歩の余地が少なくなってしまう。
しかも「開戦決意」までたった1カ月しかない。
『平和への努力 近衛文麿手記』を見ると、天皇は以下のように述べた。
「これを見ると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。この点について明日の会議で統帥部(陸軍参謀本部海軍軍司令部)の両総長に質問したい」
このあたり、戦争回避を願う天皇の視点は鋭い。
危機感が増したのだろう。
近衛は、
「一と二の順番は軽重を表すものではなく、政府としてはあくまでも外交交渉を行う。どうしても交渉がまとまらなければ、戦争の準備にとりかかる」、という趣旨の返事をした。
その上で、翌日の御前会議の前に杉山元陸軍参謀総長と、永野修身海軍軍令部総長を呼んで聞くことを勧めた。
御前会議には文官もいて、軍事の詳細を話し合うのは、はばかられたためだろう。
天皇は「すぐに呼べ。首相も陪席せよ」と命じた。
「どのくらいの期間で片付ける確信があるのか」
天皇は両総長に、要領の順番について近衛にしたのと同じ質問をし、両総長は近衛と同じように答えた。
天皇はさらに杉山に聞いた。
以下、前掲の近衛手記から再現してみよう。
天皇「日米戦争となったら、陸軍はどれくらいの期間で片付ける確信があるのか」
杉山「南洋方面だけは3カ月くらいにて片付けるつもりであります」
天皇「お前は支那事変[日中戦争]が勃発した時の陸相だ。
その時、
『事変は1カ月くらいにて片付きます』と申したことを覚えている。しかし4年の長きに渡ってまだ片付かないではないか」
杉山「支那[中国]は奥地が開けており、予定通りの作戦が難しいのです」
天皇「支那の奥地が広いというなら、太平洋はさらに広いではないか。いかなる確信があって3カ月と言うのか」
杉山にとって、3カ月で南方作戦を成功裏に終わらせるのは願望であり、それを実現させる確信はなく、確信の裏付けとなる客観的なデータなどなかったのだろう。
だから「3カ月」と判断する理由を説明できなかった。
永野が言葉を添えた。
永野「今日、日米の関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際に来ております。
手術をしないでこのままにしておけばだんだん衰弱してしまう恐れがあります。
手術をすれば非常に危険があるが助かる望みもないではない。
その場合、思い切って手術をするかどうかという段階であるかと考えられます。
統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思い切って手術をしなければならんと存じます」
「絶対に勝てるか」と大声で問いただした昭和天皇
本当に「手術」するしかないのか。
外交などの「投薬」を尽くしたのか。
戦争だけが「手術」で、他にすべはないのか。
疑問は残る。
もっとも、アメリカ相手の戦争を始めるにあたり、説得力のある説明は永野といえどもできなかっただろう。
戦力で考えたらアメリカに勝てるはずがないし、永野たちも勝てないことは分かっていたからだ。
「一か八か」のような永野の論法を聞いた天皇は、不安をぬぐえなかった。強い言葉でさらに問いかけた(『杉山メモ』)。
御上[天皇]「絶対に勝てるか(大声にて)
天皇が翌日の会議を前にわざわざ2人を呼び出したのは、このことを聞きたかったからではないか。
居並ぶ大本営政府連絡会議のメンバーを前に「絶対勝てます」とは、米英との彼我の国力差を考えれば、軍事のプロとしては言えないだろう。
かといって「勝てません」とも言えない。
そこで本音を言いやすい環境で2人に問うた、ということではないか。
永野「絶対とは申しかねます。しかし勝てる算のあることだけは申し上げられます。
必ず勝つとは申上げかねます。なお日本としては半年や1年の平和を得ても続いて国難が来るのではいけないのであります。
20年、50年の平和を求むべきであると考えます」
御上「ああ分かった(大声にて)」
必ず勝つとまでは言えない。
しかし、勝算はある。半年や1年の平和を得たとしても、国難が続くことがあってはならない。
半世紀先までの平和を考えなければならない。
永野はそう言う。その平和は、戦争をすることで見えてくる。そうも言いたかったのだろう。
御前会議の終盤に起きた“異常な事態”
天皇の「分かった」は、どういう気持ちからの言葉だったのか。
「手術=開戦」に納得したのか。
あるいは、いいかげんな説明にうんざりして話を打ち切りたかったのか。
開戦過程の研究では、この翌日9月6日の御前会議がよく知られている。
非常に重要な会議ではあるが、筆者は上記の、前日に行われた両総長と首相による、天皇への内奏も劣らずに重要であったと考える。
天皇は、両総長が対米戦に前のめりになっていることを改めて知ったはずだ。
そして、確たる勝算がないことも。
そうであれば、文官も含めた各閣僚がいる御前会議の場ではなく、5日のこの時点で戦争回避の意志を強く示すべきであった。
永野は「半年や1年……」と述べたが、もし半年ないし1年日本が熟慮を続けていれば、1945年8月の敗戦とは相当違う未来があっただろう。
6日午前10時、御前会議が始まった。
終盤に異常な事態が起きた。
同会議では発言しないという慣例があるが天皇はそれを破り、明治天皇の和歌を読み上げたのだ。
「四方よもの海、皆同胞みなはらからと思ふ代に、などあだ波の立ち騒ぐらむ」(『杉山メモ』)
「避戦」のための、異例の発言だった。
「手術=開戦」に納得していなかったことが分かる。
しかし、要領は可決された。
つまりこの会議から1カ月余り後の10月上旬ごろを期限とし、それまでに日米交渉で日本の言い分が通らなければ、対米英蘭の戦争を決意することが、天皇の前で国家意思として決まったのだ。
大日本帝国は戦争へと大きな一歩を踏み出し、ここから破滅への坂を速度を上げて転げ落ちていく。
「避戦」の意思は軍部に伝わったが…
戦中派の作家、五味川純平は「四方の海……」の場面について言う(『御前会議』)。
「発言しない建前の天皇が発言したのは異例のことである。つまり、天皇は意思表示せずにはいられなかったと解すべきであろう。
もしそうなら、天皇は詩歌の朗読による表現などとるべきではなかった。
詩歌は感傷的感慨の表現手段でしかない。事はまさに国運が決する瞬間だったのである」
天皇の「避戦」の意思は、軍部に伝わった。
御前会議から帰った東条英機陸相は「聖慮は平和にあらせられるぞ」と述べた。
武藤章軍務局長は「オイ戦争なぞはだめだぞっ。陛下はとてもお許しになりっこない」と言った(佐藤賢了『大東亜戦争回顧録』)。
しかし、わずか3カ月後に戦争は始まる。五味川は嘆息する。
「朕は戦争を欲せず、とひとこと言ったらどうであったか。
(中略)沈黙の慣例は天皇みずからによって破られているのである。
天皇の直接的意思表示が異例のこととして行われたとしても、行われてしまえば、それを輔弼ほひつするのが列席者たちの任務なのである。
詩歌の朗読では、意思はどれほど明瞭に感取されても、手続きは忖度そんたくでしかないから決定力を持たない。
列席者は恐懼きょうくしたが、それだけである」
(前掲『御前会議』)
「輔弼」とは、明治憲法が定める規定で、各国務大臣が天皇の判断や行動が正しくなされるように務める、というものだ。
天皇が「自分は戦争を望まない」と言っていたら、この規定によって避戦へと方向が変わったのではないかと、五味川は見る。
しかし天皇はそこまで明瞭に意思は示さなかった。
だから、天皇が戦争を望んでいないことは分かっても恐懼=恐れ入っただけだった。
自分たちが作ったデータで“催眠術”にかかってしまった
天皇が戦争回避を望んでいることを知った統帥部は、開戦への説得工作を進めた。
栗原俊雄『戦争の教訓 為政者は間違え、代償は庶民が払う』(実業之日本社)
石油や船舶の確保の見通しについて具体的データを示し、対米英戦争は可能、とした。
結果的に見て大甘の見通しであった。
しかし開戦に前のめりの軍官僚たちも、安心材料が欲しかったのだろう。
自分たちが作ったデータが催眠術となり、「何とかなる」と思い込んだのではないか。
もし、彼我の国力差を知ってなおアメリカに勝てると本気で思っていたら、それは医学の問題に関わってくるだろう。
ただ、陸海軍ことに海軍には慎重論も根強かった。
アメリカとの戦争となれば主戦場は太平洋であり、となれば海軍力が勝敗を大きく左右する。
当時は軍艦の保有量などで見ると米英が世界1位と2位で、帝国は3位だった。
イギリスはドイツとの戦争で相当の戦力を割かなければならず、アメリカも大西洋に艦隊を配置しなければならなかったが、それを織り込んでも帝国海軍の物量的劣位は明らかだった。
「勝てるはずがない。戦争はすべきではない」というのが、純軍事的な判断である。
山本五十六が想像した以上の悲惨な結果が待っていた
沢本頼雄海軍次官(当時)の手記によれば、連合艦隊司令長官、つまり現場の最高司令官である山本五十六は1941年9月29日、対米戦を予想して、永野にこう言っている。
「日本が有利なる戦を続け居る限り米国は戦を止めざるべきを以て戦争数年に亘り、資材は蕩尽せられ、艦船兵器は傷つき、補充は大困難を来し、遂に拮抗し得ざるに至るべし。
のみならず戦争の結果として国民生活は非常に窮乏を来し、内地人は兎も角として、朝鮮、満州、台湾は不平を生じ、反乱常なく、収拾困難を来すこと想像に難からず。
かかる成算小なる戦争は為すべきにあらず」
(『戦史叢書 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯〈5〉』)
アメリカは、日本が有利に戦っている限り戦争をやめないだろう。戦争は数年に及ぶ。
日本の資材はなくなり、補給が難しくなる。アメリカに張り合うことは困難になる。
日本内地はともかく、併合した朝鮮や植民地の満州、台湾などの統治も難しくなる。
勝ち目の小さい戦争はすべきでない。
米駐在武官を経験し、相手の国力や国民性をよく知る山本らしい卓見であった。
戦争はおおむね彼の予想の通りに進んだ。
ただ、その被害の大きさは山本の想像以上であったかもしれない。