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北海道稚内市で開かれた追悼式典で献花する参列者

2022-09-06 18:29:07 | 日記
電話交換手の女性9人追悼、稚内

終戦直後、南樺太で集団自決

2022年8月20日 午後3時45分

北海道稚内市で開かれた追悼式典で献花する参列者

20日午前

 太平洋戦争終戦直後に日本統治下の南樺太・真岡(現ロシア極東サハリン州ホルムスク)で、旧ソ連軍の侵攻を受け集団自決した真岡郵便局の日本人女性電話交換手9人を追悼する式典が20日、北海道稚内市で開かれた。

南樺太の元住民や日本郵便の関係者ら約70人が参列。工藤広市長が式辞した後、黙とうし、遺影に献花した。

 9人は17〜24歳で、1945年8月20日に身の危険を感じ、他の郵便局への交信で「これが最後です。さようなら、さようなら」との言葉を残し、郵便局内で服毒自殺した。

南樺太に近い稚内市では、63年に慰霊碑が造られて以降、追悼式典が毎年8月20日に開かれている。



『九人(くにん)の乙女』の物語

2022-09-06 17:54:27 | 日記
『九人(くにん)の乙女』の物語
 
 真岡町(現ホルムスク)は、人口約2万人で樺太西海岸南部に位置し、北海道の各港との定期船も絶えなかった平和な港町でした。

 日本領である南樺太は、ソ連領である北樺太とは北緯50度線をもってきっちりと一線を画されており、昭和16年(1941)太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入することになりましたが、日ソ中立条約(領土不可侵・中立維持を約束した条約)が締結されていたこともあり、国境での紛争はほとんどありませんでした。

 ところが昭和20年(1945)2月に、米・英・ソの首脳によりヤルタ秘密協定が結ばれたこともあり、同年4月ソ連は日本に対して条約を一方的に破棄する旨を通告、対日戦に備えて満州や樺太、朝鮮の国境地区に兵力を集結しました。

 ヤルタ秘密協定は『ドイツが降伏し、ヨーロッパにおける戦争が終結したのち、2~3ヶ月後には南樺太をソ連に返還することを条件に、ソ連が日本に対する戦争に参加する』ということを約束したものでした。

 そして、昭和20年(1945)8月9日の朝、樺太国境警察がソ連軍の不意の攻撃を受け、40年間にわたる国境の静寂が破られたのです。

 ソ連軍による進撃・砲撃は、国境を接する町から次第にその範囲を拡げ戦況は悪化する一方で、樺太兵団は、中央国境を突破するソ連軍を側面から支援する部隊が真岡地区にも上陸するものと判断、この地区の守りを固めようと努力を続けていました。

 当時、真岡郵便局における電話交換業務は、市内・市外ともすべて女性交換職員による手動交換接続方式でしたが、特に戦時下における電話交換業務は国防用また緊急連絡用として重要な使命を担い日夜繁忙を極めていました。

 この非常事態に、老人、子供、女性、病人等を優先して島民の緊急疎開が開始されました。

そして8月16日、上田・真岡郵便局長は上司から「女子職員は全員引き揚げるよう、そのため業務が一時停止しても止むを得ない」との命令を受けました。

 ほっと安心すると同時に、皆その知らせを喜んでくれるだろうと思っていた上田局長でしたが、意外な事に局員からは「全員、疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と告げられました。

 上田局長はソ連軍の進駐後起こるであろう悲惨な状況を話し説得したが応じてもらえなかったといいます。

 きっと彼女らは交換業務の重要性を認識し、その責任感・使命感を健気(けなげ)なほど感じていたからこそ、このような覚悟をしたものなのでしょう。

友人や知人が次々と北海道へ向けて避難を始める中で、多くの女子職員が職場に踏みとどまり交換作業に従事していました。

 そして、迎えた8月20日の朝6時頃、真岡は身にまといつくような濃霧でした。

霧の中にぼんやりと見える埠頭倉庫のトタン屋根は霧にぬれてにぶく光り、疎開する島民を北海道へ輸送する船や北部から難を逃れてきた漁船等がぎっしりと岸壁についていました。

 この霧の中をソ連船団は、真岡港に接近しつつありました。

そして船団は湾の中央に進みそれぞれの部隊を上陸させ、船団が反転、退避するとこれを援護するため、上陸部隊の火器が一斉に火を吹き、たちまちにして真岡市街は戦火に包まれました。

 臨海地区を手中に収めたソ連軍は、続いて山の手に向かって戦線を拡大し、各所に砲撃による火の手が上がり、黒煙がようやく霧の流れた空を覆い、火の粉が風下一帯に降り注ぎました。

 最後の時が迫った恐怖から人々は裏山の芋畑やクマザサの茂る野をはうようにして尾根を越え、ある者は鉄道のレール伝いに逃げまどいました。

 真岡郵便局では早朝5時半過ぎ、真岡の北約8kmの幌泊から、「ソ連の軍艦が方向を変え、真岡に向かった」との連絡を受けた高石ミキ電話主事補が、仮眠中の宿直者全員を交換台に着席させ、関係方面への緊急連絡を行うとともに郵便局長にこの旨、電話で報告を行いました。

 郵便局は場所的にも戦火に巻き込まれる位置にあり、交換室にも弾丸が飛び込むなど、極めて短時間のうちに危機は身近に迫っていました。

 しかし、緊急を告げる電話回線を守り、避難する町民のため、またこれらの状況を各地に連絡するため、最後まで職務を遂行したのです。

 同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。

 「午前6時30分頃、渡辺照さんが、
『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。

生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった。

 ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『高石さんはもう死んでしまいました。

交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。

局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。

さようなら』という渡辺さんの声が聞き取れた。自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。

誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。

 高石さんの知らせで自らも郵便局にかけつける途中、腕に銃弾を受けてソ連兵に連行されてしまった真岡郵便局長は、数日後ソ連軍の将校の許可で局内に立ち入ることができました。

 その時の様子を、同局長は「9人は白っぽい制服にモンペをはいており、服装はみじんも乱れていなかった。また、交換台には生々しい数発の弾痕があった。さらに、睡眠薬の空き箱があったことは見苦しくないようにするため、睡眠薬を飲んだあと、青酸カリを飲んだのであろうが、息絶えるまで送話器に向かって呼びかけていたようだ。」と語っています。

 彼女達は、ブレストを耳にプラグを手に握りしめ、最後まで他局からの呼び出しに応ずるために交換台にしがみついたまま倒れていました。

遺体の確認に立ち会ったソ連軍将校も、悲惨な室内の状況を目の前にして、胸で十字架をきって黙祷したといわれています。

 当日交換業務を行っていた9人の中で最年長だった高石ミキさんは、殉職の日の前日、北海道に疎開する母を港で見送った時、“いざとなったらこれがあるから大丈夫”と胸をたたいて見せました。

それが青酸カリだと知った母親は、顔色を変えたといいます。それほど、明るくて物事をはきはき言う人でした。

 志賀晴代さんは、妹と2人で同じ職場に勤務しており、日頃から“いざというときは、自分が職場を死守するから、生きて内地に帰りなさい”と妹に言っていた責任感と気の強い人で、当日も非番にも関わらず、急を知って局に駆けつけた程で、交換技能も抜群の人でした。

 殉職した9名の交換手達はいずれも10代の後半から20代前半の若い女性達です。

通信確保の任務を果たし、最後の言葉を残して9人の乙女達は、若き青春に訣別して行ったのです。

 彼女達の壮烈な最後は詩になり、小説になり、映画にもなって「九人の乙女」の悲しい物語として広く知られ、昭和38年(1963)には稚内公園内に彼女達の霊を慰め、その功績を永久に讃えるために『九人の乙女の碑』が建立されました。
また、貴重な関係資料は、同公園内にある開基百年記念塔(北方記念館)に収められています。

建設産業部観光交流課
稚内市中央3丁目13番15号
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自決した真岡郵便局の女性たち 同僚の記憶

2022-09-06 17:48:52 | 日記
自決した真岡郵便局の女性たち 同僚の記憶

(2018年8月15日 稚内支局 芋野達郎記者)

「その場にいたら、自分も自決していた」

終戦直後の樺太で、ソビエト軍の侵攻の状況を電話で伝え続けた後、自ら命を絶った真岡郵便局9人の電話交換手を知る同僚が、思い出を絵に描きました。

NHK札幌放送局では、太平洋戦争中に樺太、今のロシア、サハリンや千島列島、北方領土での体験を絵に描いてもらう「樺太・千島戦争体験の絵」を募集しています。
花形の電話交換手 楽しい思い出


北海道の和寒町の栗山知ゑ子さん(90歳)は、戦時中、樺太の真岡郵便局で電話交換手として働いていました。

当時の電話交換台での仕事風景や、同僚たちとの昼休みの団らんを絵に描きました。


電話は当時、情報をいち早く伝える手段として重要な役割を果たしていて、電話交換手は女性たちにとって、花形の職業でした。

その責務は重く、常に緊張を強いられましたが、昼休みだけはみんな普通の女の子に戻り、おしゃべりを楽しんだそうです。

ソビエト軍の侵攻 最後の別れ

昭和20年、当時17歳だった栗山さんが頼りにしていた先輩は、6歳年上の可香谷シゲさんでした。


いつも笑顔が絶えず、郵便局内の演芸大会の前には、出し物の踊りを教えてくれました。


しかし終戦直後、ソビエト軍が樺太に侵攻。楽しい時間は、突然断ち切られました。

栗山さんは使命感から仕事を続けるつもりでいましたが、母親から頼まれ、家族と共に疎開することにしました。

栗山さんが郵便局で事情を話すと、可香谷さんたちは「元気でね」と笑顔で受け止め、送り出してくれました。


それがみんなとの最後の別れとなりました。

「自分も自決していた」

その2日後、ソビエト軍が真岡に上陸。可香谷さんら9人は郵便局に残り、電話で戦況を伝え続けました。


そして「みなさんこれが最後です。さようなら、さようなら」と告げ、青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。


9人の死を知ったとき、栗山さんは驚くとともに「もし疎開していなければ、自分も薬を飲んで自決していた」と思ったそうです。

最後まで国に奉仕する教えを受けていた身として、自分だけ自決しない選択肢はなく、栗山さんは自分と9人との間に大きな違いはないと感じています。

栗山さんは、樺太の対岸の稚内市で、毎年8月の9人の命日に開かれる追悼式典に参加しています。


栗山知ゑ子さん:
「戦争がなかったら、みんなで楽しく仕事をしていたでしょう。一緒に仕事したり弁当を食べたりした思い出を、大切にしていきたい」






ソ連の北海道占領を阻止せよ! ポツダム宣言受諾後のもう一つの戦争 樋口季一郎はなぜ徹底抗戦したのか

2022-09-06 17:29:58 | 日記

ソ連の北海道占領を阻止せよ! ポツダム宣言受諾後のもう一つの戦争 樋口季一郎はなぜ徹底抗戦したのか


ロバート・D・エルドリッヂ - 

終戦間際のソ連参戦

1945年8月15日正午、日本は降伏し、戦争は終わったと考える読者がほとんどだろう。北海道を占領し、日本から切り離すことを狙っていた旧ソ連が絡んでいなければ、それはおおむね正しい。

ソ連の北海道占領を阻止せよ! ポツダム宣言受諾後のもう一つの戦争 樋口季一郎はなぜ徹底抗戦したのか

© 現代ビジネス

北千島・占守島に残る日本軍戦車の残骸

8月8日午後11時(モスクワ時間)、ソ連は佐藤尚武駐ソ大使に対日宣戦布告を通告した。

これは、連合国との対日参戦の約束は守るが、1946年4月まで有効とされていた日ソ中立条約を一方的に破棄するというものであった。

その1時間後、ソ連は日本に対して敵対行為を開始し、それまで10年半にわたって日本の支配下にあった満州、1910年から日本が併合した朝鮮、1904~1905年の日露戦争の結果、日本に引き渡した樺太の南半分に侵入した。数万人が死亡し、数十万人が捕虜になった。


ソ連の赤軍が、東欧やドイツの人々にしたように、日本人捕虜を強制労働者として、特に民間人を酷使したことは、20世紀の大きな悲劇であり、旧ソ連はいまだその償いをしていない。

樺太の悲劇

樺太では、日本がポツダム宣言を受諾した翌日の8月16日に、ソ連第16軍第56狙撃軍団が日本帝国陸軍第88師団を攻撃した。

日本側の部隊は、徴兵された学徒、地区特設警備隊の民兵などを中心に構成されていたが、当初はソ連の転進を阻止、遅らせることができた。

この8月16日には、ソ連軍は第365海軍歩兵大隊と第113狙撃旅団第2大隊が樺太西海岸の塔路に上陸させ、日本の防衛線を突破した。

ソ連の進撃を遅らせたのは、民間人が危険な海を何時間もかけて、船で北海道に避難する時間を稼ぐためでもあった。

結局、8月20日未明、ソ連の軍艦(その春、「フラ作戦」の一環として米国から良くも悪くもソ連に貸与されていた)は、に西海岸の真岡(現ホルムスク)の港に入り、町とそこに残る住民18000人(6000人はそれまでに辛うじて避難ができた)に向けて砲撃を行った。

上陸したソ連軍の機銃掃射により、約1000人が犠牲となったとも言われている。

稚内との連絡のため、戦闘中も留守番を約束した女性電話交換手9人が、侵攻してきたソ連軍に強姦されるのを恐れて自殺した「真岡郵便局事件」は、この地で起きたのである。

戦闘は8月21日まで続き、日本軍の残存部隊は次第に停戦に同意した。

しかし8月22日には、ソ連軍機が豊原駅前の避難民を攻撃し、数百人の死者を出した。

同日、ソ連の潜水艦は日本の避難民輸送船3隻を攻撃している。波間に浮かぶ生存者も機銃掃射を受け、合計1700人以上が命を落とした。

スターリン、北海道の北半分を要求

日本軍の抵抗が激しかったもう一つの理由は、日本の主要4島の一つである北海道をソ連に占領させないためであった。

札幌の第5方面軍司令官だった樋口季一郎中将は、ロシア事情に詳しい情報将校であり、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンの意向を察知していた。

8月12日の訓令では、ソ連を「日本の宿敵」とし、樺太・千島列島への攻撃に全軍を投入する。

15日に日本が降伏しても、樋口はソ連の上陸を阻止するために戦う覚悟であった。大本営は戦闘の中止を命じていたが、幸いにも自衛戦闘は認めていた。

8月16日、スターリンはアメリカ大統領に就任してまだ4ヵ月のハリー・トルーマンに、対日処理に関する一般命令第1号の草稿に修正を求める手紙を出した。

彼は、「北海道の北半分を……日本軍がソ連軍に降伏する地域に含める」ことを要求した。

東欧や中欧でのソ連の行動から、すでにソ連の意図に不信感を抱いていたトルーマンは、8月19日にスターリンの要求を拒否するが、残念ながら千島列島の占領を許可してしまった(その際、航空基地の使用は認めるよう要求している)。

その2日前、アメリカは連合軍捕虜への食料提供と状況確認のため千歳飛行場にB29を飛ばしているが、それは同時にソ連への警告でもあった。

その1週間後、米軍の偵察機は北千島を上空から撮影しようとしたが、ソ連軍の戦闘機に追い払われたという。

樋口季一郎中将という人

一方、ソ連軍は8月18日、千島列島最北端の要塞化された島、占守島と幌筵島(パラムシル島)を攻撃した。

日本軍の防衛線の大部分は最終的に破壊されたが、侵略者にとっては大きな犠牲となった。

日本軍よりソ連軍の方が多く死亡している。

生き残った兵士たちはシベリアに送られた。これによって、ソ連はより防御の薄い千島列島の征服を開始し、9月5日にその作戦を完了している。

ソ連の北海道占領を阻止せよ! 

ポツダム宣言受諾後のもう一つの戦争 樋口季一郎はなぜ徹底抗戦したのか

© 現代ビジネス

樋口季一郎

日本に近いところでは、8月28日に南千島列島の最大かつ最北の島である択捉島に上陸し、東京湾のミズーリ号での降伏文書調印予定の前日である9月1日には、国後島と色丹島を占領した。

そして調印式から2日後の9月4日には歯舞群島を占領した。

読者の皆さんもご存じのように、条件付きで訪問は許可されているものの、いまだに返還されていない島々である。

樺太、千島列島の生存日本人の送還は1946年に完了した。よく言われるように、戦争で最も被害を受けるのは民間人であるがその通りだ。

樋口中将は1946年3月に解任された。ソ連は彼を戦犯として認定しようとしたが、GHQはナチスの迫害から生き残ったユダヤ人たちのロビー活動を考慮して彼を保護した。

樋口は満州駐在時代の1938年から1940年にかけて、2万人ともいわれるユダヤ人をソ連国境から上海に送り込み、給養と安全輸送の手配をしたことがある。

これが「樋口ルート」と呼ばれるようになり、その結果、1941年に樋口の名前は「ゴールデン・ブック」に登録されることになった。

樋口は、ユダヤ人のための人道的な行動で最もよく知られているが、もう一つの大きな功績は、日本の分断に確実につながったであろうソ連の北海道占領を阻止したことである。その先見性と勇気は賞賛に値する。

ソ連・ロシアの下手くそな外交

残念ながら、ソ連、そして現在のロシアは、日本の固有領土である北方領土の返還をまだ行っていない。戦後、いくらでも機会があった。

特に、冷戦時代、米国が、戦略上、南西諸島や南方諸島をサンフランシスコ平和条約第3条によって占領・統治を続けている間、ソ連が北方領土を日本に帰したら、米国は非常に困った立場に陥り、日米関係に悪影響を与えることになっていただろう。

その意味で、ソ連・ロシアは本当に対日外交が下手である。日本が一番弱い時、無防備の時に領土を奪い、日本国民の悪い感情を買ってしまった。

「奪う」は正しい表現だ。ソ連がやったことは、手を挙げた後の日本に対して一方的に攻め続けたのであり、これは国際法の違反だ。

約5年前、その表現を、札幌で開催された日米ロの会合で使った。

パネルディスカッションの時だったと記憶しているが、一緒に登壇していた駐札幌のロシア総領事の前で「ロシアは泥棒」と指摘した。総領事は非常に怒って不愉快だったが、事実は事実だ。

決定的な対立関係

また、旧日本軍の兵士を長年抑留にし、共産主義を洗脳することを試みや、日本の漁船に嫌がらせをし拿捕することは友好関係を望む国はしないはずである。

それだけではない。戦後、特に航空自衛隊ができる前の1950年代前半、ソ連の空軍は頻繁に、日本の領空侵犯を繰り返し、近年でも、中国と連携してまた対日圧力をかけている。

今後、台湾海峡や尖閣諸島の有事の際、ロシアはきっと日本に対して何等かの行動や侵略をする。

つまり、日本にとって二正面戦争になりかねない。(いうまでもなく、北朝鮮がおとなしいするはずがない。)

おそらく、地政学的に、日ロ両国は、必然的に競争ないし敵関係にあるが、決定的に悪化したのは、ここで詳述したソ連の北海道侵攻に向けた行動と北方領土などの日本の領土を奪ったことがその根にある。ロシアに大いに反省してほしい。






1年以内に償還期限の韓国対外債務は外貨準備高の41.9%…過去10年で最高に

2022-09-06 17:04:42 | 日記
記事入力 : 2022/09/05 11:20

1年以内に償還期限の韓国対外債務は外貨準備高の41.9%…過去10年で最高に

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

韓国では短期対外債務の割合が2012年以降の10年間で最高にまでに増えた。

短期対外債務とは、償還期限が1年以下の外国からの借り入れを指す。

償還期限が迫っている対外債務なので、短期間に流出する可能性がある資本と言える。

国際金融市場の変動性が高まる中で、短期対外債務が多いと、海外からの投資資金があっという間に流出する恐れがあり、経済全般が打撃を受けるリスクが高まる。

 韓国銀行は4日、今年第2四半期(4-6月)時点の短期対外債務の割合は41.9%で、12年第2四半期(45.5%)以降の10年間で最高を記録したことを明らかにした。

 短期対外債務の割合が40%を超えたのも12年第3四半期(41.6%)以来10年ぶりだ。

短期対外債務の割合は、対外貨準備高で算出する。

6月末の外貨準備高は4382億7800万ドルで、短期対外債務は1838億4900万ドルだ。

 「第2の国難」とされた1997年の通貨危機も日系の短期対外債務で資金が急速に速度で流出したことが引き金となった。

政府と韓国銀行は対外健全性に問題はないと説明している。

しかし、今年に入って急激にウォン安ドル高が進み、貿易赤字が急速に増加しており、短期対外債務の抑制が必要だとの指摘も出ている。

■40%を超えた短期対外債務の割合

 短期対外債務の割合は、08年の世界的な金融危機当時は70%台まで上昇したが、その後は低下を続け、12年第4四半期からは10年近く30%台以下だった。

昨年末時点で35.6%だったが、今年第1四半期は38.2%に高まり、結局、第2四半期になって40%を超えた。

 今年に短期対外債務の割合が高まっている理由について、韓銀は海外への株式・債券投資が依然として増加傾向にあるからだと説明した。

企業と個人が海外投資を行うためにドル資金が必要となり、銀行が短期で多額のドル資金を海外から導入し、証券会社などに貸したり、両替手数料で収益を得たりしているのだ。

今年上半期だけで短期対外債務は191億ドル増加したが、そのうち166億ドルは銀行主導で海外から借り入れた資金が占める。

■ドル高時代、外貨準備高の点検を

 短期対外債務の割合が短期間に急上昇したが、韓銀は大きく懸念する状況にはないとの立場だ。

韓銀関係者は「主に銀行がドルを海外から短期で借り入れた。現在、韓国の銀行の対外支払い余力は十分にある」と述べた。

通貨危機当時、企業が短期対外債務に苦しんでいたのとは違い、最近は支払い余力がある大手銀行に短期対外債務が集中しており、状況が異なるというのだ。

また、韓国が14年以降、海外からの借金よりも海外資産が多い純対外債権国である点も挙げている。

 しかし、年初来ウォンが急落し、貿易赤字が過去最高を記録しているため、短期対外債務の割合の上昇を警戒すべきだとの声が上がっている。

ウォン相場は13年4カ月ぶりのウォン安水準となる1ドル=1360ウォン台にまで下落している。

ウォン安が進めば、ドル建ての債務を返済する際の負担が増大する。

 さらに、ドル高の嵐で新興国が崩壊する可能性もあることから、警戒を強めるべきだとの意見もある。

新興国の連鎖デフォルト(債務不履行)で世界的な信用不安が起きた場合、ドル資金回収の動きが広がり、韓国の金融市場に嵐が吹き荒れる可能性も否定できない。

延世大学の成太胤(ソン・テユン)教授は「ウォン安が進んでいる時期なので、為替当局は安心してはならない」と話した。

 世界的な金融危機直後には、短期対外債務の割合が短期的に70%台まで上昇したが、当時は韓米通貨スワップという支えがあった。

現在は米国との通貨スワップがない。

世宗大の金大鍾(キム・テジョン)教授は「政府と韓銀は言葉だけで安心しろと言うのではなく、外貨準備高のうち4%しかない現金の比率を高め、韓米通貨スワップ締結を推進し、防波堤を高める必要がある」と話した。


 短期対外債務が増加する間、外貨準備高は大幅に減少したため、短期外債の割合の上昇が速まった。

昨年末4631億ドルだった外貨準備高は、今年上半期に5.4%(248億ドル)も急減した。

今年は過去最大規模の貿易赤字が発生し、ドル流出が例年より増え、ウォン安防衛する過程で外貨準備高が減少したためだ。

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版