安倍最長内閣、選挙至上主義の功罪
明治大学教授 田中秀明
2020/09/09
安倍首相は8月28日、持病である潰瘍性大腸炎の再発を理由に辞任する意向を表明した。連続在職日数歴代1位の政治的安定は、日米を始めとする首脳外交に貢献したが、内政の成果は乏しい。安倍首相が長期政権を維持できたのはなぜか。その問いに対するシンプルな答えは、衆参の国政選挙に勝ち続けたことにある。2012年9月、自民党総裁に就任してから19年7月の参院選まで6連勝。この間の勝因はガバナンスと政策の2つの面から説明できる。
ガバナンスは、政策調整や危機管理である。国会議員は、特定分野の利益を代表する「族議員」にもなり、同じ党に所属しても考え方が異なる。また、1府13省庁の官庁もそれぞれの既得権を守ろうとする。政治家と官庁の背後には、利益団体も存在する。政策立案にあたり、利害関係者の調整は簡単ではない。議院内閣制の本質は、与党と内閣が一体になっていることであり、与党と内閣を一体的に統治することが政権運営のカギになる。
自民党を与党とする「55年体制」では、一部例外はあったものの、官庁が政策の原案をつくり、党がそれを事前審査した。たとえ首相や閣僚が政策の必要性を訴えても、党が「ノー」を突き付ければ、政策は実現できなかった。そして、党は政策の原案にしばしば拒否権を発動した。1つの選挙区で自民党公認候補が競合する中選挙区制のもと、自民党内の派閥の均衡、牽制も働き、首相や内閣の権限は相対的に弱かった。
そこで、1990年代以降、1つの選挙区から1人の当選者を出す小選挙区制に改める選挙制度改革や中央省庁の再編統合などにより、首相と内閣の権限が制度的に強化された。そうした仕組みを活用し、政治主導の政権運営に成功したのが小泉純一郎内閣(2001~06年)だった。ただし、制度が整備されても、それを使いこなすことができるかどうかは別問題であり、第1次安倍内閣や民主党政権では機能しなかった。
第2次安倍内閣は、第1次内閣の失敗を学習し、首相官邸や内閣官房に党と省庁を掌握できる人材を配置した。その代表が正副の官房長官であり、首相秘書官や首相補佐官に登用された「官邸官僚」だった。彼らがチームとして機能したことが、安倍内閣のガバナンス強化につながった。具体的には、自衛隊の在外邦人の保護措置を規定した平和安全法制や太平洋地域の経済自由化を目指すTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の取りまとめにおいては、ガバナンスが有効に機能したと言えるだろう。
首相秘書官や首相補佐官はあくまでも首相に助言し、補佐する立場であるにもかかわらず、首相の威光を背景に省庁を直接、指揮命令するといった問題もあったが、こうしたアプローチ自体は問題ではなく、細かな違いを捨象すれば、議会制民主主義の伝統が根付いたイギリス型のガバナンスに近いと言える。問題は、そうしたガバナンスがより良い政策を実現するために活用されるのではなく、もっぱら政権維持のために使われたことである。
次に、政策面について考える。安倍内閣には、「3本の矢」「成長戦略」「地方創生」「人生100年時代構想」「1億総活躍社会」「人づくり革命」「働き方改革」「全世代型社会保障」などのスローガンがあった。これらを取りまとめたのは、日本経済再生本部、未来投資会議などの会議体で『日本再興戦略』を始めとする報告書が数多く作成された。スローガンは1年間にいくつも登場し、しばしば「やってる感の演出」と言われた。
安倍政権は発足当初から経済成長重視を打ち出した。日本経済がデフレの罠に陥り、長く低成長時代が続いたからである。低成長が問題だとするのであれば、まず日本経済がなぜ成長できないのか、その足かせは何かを分析する必要がある。しかし、『骨太の方針』を始めとする政府の報告書には、こうした分析がほとんどない。「海外から投資を呼び込む」「東京一極集中を是正する」「女性が活躍する環境をつくる」といったお題目が並ぶだけだ。
問題の分析がないことと裏腹に、しばしば議論の結論が官邸主導で先に決まっていた。その典型が幼児教育・保育の無償化である。政府は2017年9月、幼児教育・保育の無償化の是非を議論する人生100年時代構想会議を設置したが、衆院選を10月22日に実施することに決めたことから、その選挙公約として幼児教育・保育の無償化が官邸主導で決まった。そして、選挙公約を引き写して、人生100年時代構想会議の報告書『人づくり革命基本構想』が作成されたのである。
現在、幼児教育や保育の現場において何が問題になっているのか、無償化が社会にどのようなインパクトを与えるのか、費用対効果はどうなっているのかーーなどについては、ほとんど分析や議論がなかった。そもそも、自民党が野党だった時代は、幼児教育や保育の無償化は「予算のバラマキ」「合理性がない」と言って反対していたにも関わらず、幼児教育・保育の無償化を推し進めたのである。要するに、選挙対策なのだ。
幼児教育・保育を無償化することの理念は否定しないが、現状において費用対効果の高い政策とは言えない。すでに低所得層の保育料負担は少なくなっていることから、無償化は中高所得層に恩恵を与えることになる。中高所得層は、無償化で浮いたお金を塾やお稽古事に使う。そうすると、無償化は、社会の格差を拡大させることになる。また、保育料負担を考えて利用が控えられていた保育需要を顕在化させ、待機児童を増やすことにもつながるだろう。
女性活躍の推進や働き方改革、1億総活躍社会、全世代型社会保障の実現など、安倍政権では有権者を意識した「やさしい」政策が少なくない。本来、成長戦略や働き方改革には、市場改革や規制緩和が必要になるが、そうした市場改革や規制緩和を進めると、利害関係者の反対が強くなり、選挙のマイナスになる。安倍政権は、有権者を意識した改革の姿勢は示しても、本気になって改革を進めることはなく、政策の一貫性もなかった。
選挙重視は安倍政権に限ったことではないが、安倍政権は政権維持を過度に意識し、政策が極端に短期志向になる。『骨太の方針』では、「エビデンス(科学的な証拠)に基づく政策形成」も提唱するが、安倍政権が政治的に重視する政策については、エビデンスに基づく政策形成のプロセスは全く適用されない。消費増税延期などの重要政策についても、事前の議論はほとんどなく、首相の政治判断だとして、税制を担当する財務大臣でさえ意志決定の蚊帳の外におかれた。
経済財政諮問会議などで議論し、最後に首相が決断するのであればよいが、新型コロナウイルス対策で小中学校の一斉休校、アベノマスクの全世帯配布がそうだったように、安倍政権では、「誰が」「いつ」「どこで」「どのような理由」で意志決定したのかが、全くわからない。従来ならば、首相の指示だからといって官僚もそれに従うとは限らなかったが、安倍政権では違う。首相官邸が幹部人事に従来以上に介入するので、問題があっても異論を唱えず、むしろ忖度に走る。
公務員制度改革により、中央省庁の幹部人事が内閣人事局に集約され、首相官邸の評価が官僚の出世に直結するようになった。【1】 安倍首相や菅義偉官房長官は、官僚の抜擢人事をしばしば「適材適所の人事」と説明するが、その基準は明確ではなく、官僚たちは政治家の顔色をうかがう。7年半にわたる安倍政権のもと、首相官邸主導の裏側で政策形成のプロセスは著しく劣化した。筆者は、これこそが安倍政権の最大の問題と考える。
安倍政権の発足直後は、異次元金融緩和で行き過ぎた円高が是正され、円安と株高を背景に国内景気は上向いた。しかし、持続しなかった。金融緩和ではデフレから脱却できないし、「やってる感の演出」では、経済は成長しないのである。安倍政権7年半の国内総生産(GDP)の実質成長率は年平均1.03%にすぎず、2009~12年の民主党政権の実質成長率の年平均1.84%を下回る。【2】 政権発足時の経済状態が異なるため、単純な比較はできないが、これがアベノミクスの成果なのだ。
低金利でゾンビ企業が生き残り、選挙対策で財政規律は失われた。アベノミクスの成果を急ぐあまり、政府がプレーヤーとなる官民ファンドは14に膨れ上がり、一部のファンドは損失を拡大させている。安倍政権は連続在職日数歴代第1位を達成したものの、負の遺産は大きい。内閣の業績は、首相の在職日数で評価するのではなく、政策の中身と結果で評価すべきである。安倍政権の7年半を冷徹に分析することが、日本経済、そして、日本の民主主義を発展させるために求められている。
たなか・ひであき 1960年、東京都生まれ。東工大院修了、旧大蔵省(現財務省)へ入省。オーストラリア国立大学客員研究員、一橋大学経済研究所准教授、内閣府参事官を経て、明治大学公共政策大学院教授。政策研究大学院大博士。