事実であろうとなかろうと、許される範囲内なら誰にも醜聞があります。ここでは最近の「韓国の醜聞」を集め、必要なかたのために出典も提示し、あればリンク先も明示しています。ただしリンクしているからといって「私がその主張のすべてに賛成している」わけではありませんので、念のため。
古代遺跡を求めて対馬に行ったとき、元寇の伝承とそのすさまじさに驚いた。
一村皆殺し、掌に穴をあけて縄で貫き、海岸を引かれてゆく夫や父親の姿を、山の岩影から妻や娘が見つめていた。その残虐の伝承が、今も生き生きと語り継がれていたのである。「朝鮮人に一村皆殺しにされた」そういう悲劇の伝承を記録していたところもあった。・・・・
(日本の)中国や韓国などに対する「侵略」が、文字通り侵略であること、わたしには何の疑いもない。教科書に特筆大書してもいい。むしろ、すべきであろう。
けれども、ではなぜ、中国や韓国の教科書には、「元寇の虐殺」や「随の煬帝(ようだい)の琉球侵略」の記事がないのか。:P.38 古田武彦 古田武彦ほか共著 新・古代学 第1集 新泉社
中国が報道規制を利用して
韓国が社会的抹殺という準・報道規制を利用して
日本の残虐さを強調するのですが、中国や朝鮮半島の残虐さは、それはそれは残虐という以上の残虐さです。
よって南京事件をより大きくねつ造できるし、慰安婦問題もねつ造できるのでしょう。ともに自分ならこうやると勝手に決めたとおりのでっちあげでいいのですから、楽ちんですね。
尤も、煬帝の琉球遠征(608年ごろ)は、台湾のことかもしれず、相当前のことなので、はっきりしていないようです。:こちら
儒教文化では
自分をおとしめるようなことは禁じられているようで、自らの人権無視・残虐さについては「歴史を直視できない」ようです。不都合なことには知らん顔をし、相手を攻撃することでその場をしのがねばなりません。
国境付近では、だましあいが横行し、敵の一味だとして自国民族が悲惨なことを繰り返すものです。倭寇と偽る朝鮮族もいただろうし、その逆もいたと思われます。
そしてその延長で韓族は、一方的に日本が攻めてくると騒ぎたてます。何も変わっていない、いや何も変えられない哀れな姿がそこにあります。得をするのはいったい誰なんでしょうね(笑)。
上記引用で
日本の侵略に何の疑いもないが、なぜ中国・朝鮮半島では「元寇の虐殺」「随の煬帝の琉球侵略」の記事がないのかと疑問を投げかけていますが、これがリベラル派という人たちの限界なんでしょう。
そんなことができる中国人・朝鮮半島人ならば、とっくの昔に問題は解決しています。できないからこそ、これらの人たちの「うぬぼれ・視野の狭さ」を解決するのは、永遠の課題のようになってしまっているのです。
「朝鮮では、父親の仇を討たなかったならば、父子関係が否認され、その子は私生児となり、姓を名乗る権利さえもなくなってしまう。このような不幸は、祖先崇拝だけで成り立っているこの国の宗教の根本を侵すことになる。
たとえ父が合法的に殺されたとしても、父の仇あるいはその子を、父と同じ境遇に陥れなければならず、また父が流罪になればその敵を流罪にしてやらねばならない。父が暗殺された場合も、同じ行為が求められる。この場合、犯人はたいてい無罪とされる。なぜなら、この国の宗教的国民的感情が彼に与するからである」(同前書) :P.24-25 呉善花(おそんふぁ)「韓国併合への道」文春新書
まるで現代の韓国が日本の江戸時代であるかのようです。
少々大げさでしょうが、意味するところはよく分り、「法を近代化の飾りのようにしている」けれども、現実は上記引用に近いのでしょう。
私は韓国を「擬似民主国家」と呼んでおりますが、「偽装・偽造・パクリ・でっち上げ・ワイロ」は中国そっくりですね。
法の未整備が主な原因でしょうが、いいかげんな法であるからこそ得をする人たちが大勢存在するのでしょう。
韓国で大統領職を経験した人が、職を辞してから
報復逮捕で不幸な老後を送ることは、つとに知られていますが、これは法の未整備だけの問題ではなく、こういった韓族の儒教汚染によるところが大きく、これが外目には「形式的な飾りの法律」という風にみえ、しばしば韓国で「報復としかみえない」不可解な行動に走るのでしょう。
韓国人たちは「正しいことをしている」と信じて疑いません。
これに従わないものは「間」だとみています。
日本にもいますが、自分の意見に従わないものを、遠ざけたり、けなして攻撃します。
相手も同じような人間なんですが、対立がないから怒り狂うのではなく、対立が多いから許せないのでしょうね。
正当防衛の意義がそこにありますが、同じ法律であっても、その運用のしかたは社会によって大きく事なり、死刑制度もその延長上にあり、土葬時代に墓から死体を掘り出して八つ裂きにする刑なども、法律の要求ではなく、まちがいなく社会的要求だったのでしょう。
私が
韓国のことを擬似民主国家
と呼んでいるのは、これらのことを言っています。
もしもキリスト教やイスラム教がなければ、今以上に人類が悲惨な目にあっていることか。
異国にあっても、自分の一神教が最も正しいと思い込んでいる人たちが多すぎます。
統治のために必要だった宗教が、「信仰の自由」という仮面をかぶって、いま負の方向に作用しているように思われます。
こういった観点から宗教をみつめてみませんか。
さてさて、皆様はどう思われますか。