それは
委ねる
寄与する
あけ渡す
surrender
うーん
ちょとちがう
自分を完全にゆだねるけれど
自分がゼロになるわけじゃない
自分は100なまま全てを同調させていくこと
いやむしろ100じゃなく
1000に10000000に
不可思議に包まれること
委ねる
寄与する
あけ渡す
surrender
うーん
ちょとちがう
自分を完全にゆだねるけれど
自分がゼロになるわけじゃない
自分は100なまま全てを同調させていくこと
いやむしろ100じゃなく
1000に10000000に
不可思議に包まれること
山を降りて坐禅合宿の帰り道、私たちはぱらぱらと適当になんとなく近くに座って電車に揺られていた。
たわいないことを話したり、話さなかったり。
少し疲れてるのもなんだかいい気持ち。
隣には強くて可愛いたまちゃん、その向こうに一照さん。
たまちゃんが一照さんに瞑想と禅について聞いたので、お、ナイスと思って聞き耳を立てた。
本だって書けそうなお題、なかなか聞けないと思う。
貴重なお裾分けはこちらです。
瞑想は人間が作ったもの。
坐禅は人間が作ったものではない。
マインドフルネスは瞑想の一種。
目的手段関係。
人間が頭を絞って考えたのが瞑想。
瞑想はテクニック。
坐禅の中にマインドフルネスの要素はある。
坐禅の中にマインドフルネスが生じている。
坐禅は天から降臨したもの。
坐禅が人間をつかまえた。
「台風が大変大変って脅しすぎだよね。
みんなそんなに退屈なのかな。
たまにはさ、行っちゃえやっちゃえみたいにやればいいのに」
「無闇やたら無鉄砲に飛び出すのは違うし方便智は必要だけど。
身体の中から熱く湧き上がってくるものを失わず大事にしてほしい」
楽しそうに笑いながら
師は言った。
それは前の晩に話してくれた若い頃の映画の話に重なった。
正確に言えば久しぶりに再開した師匠の旧友が、お前昔よく話してたなというエピソード。
西部劇かなにかで裸でサボテンに抱きつく男の話。
なんでそんなことをしたんだと聞かれて、その男は答えた。
「その時はそうしたかった」
(あ、講義のお話ではありません)
取材されて先日放映されたテレビ番組に納得がいかないらしい師匠がマインドフルネスと禅の違いについて話している。
手持ちのカードと合わせて「こうでしょう」と言う人がよくいるけど、言ってわかった気になってもなんにもならない。
それじゃあカードの数は変わらないでしょう。
だから僕は「違います」と言う。
(たしかに。「こうでしょう」って言わなくて/聞かなくてよかった)
もうちょっとネガティヴケイパビリティを働かせてよくよく頭ではなく全体で気配をとらえろってことだろうか。
それを真横に座って聞いているだけで私はすっかり満足している。
マインドフルネスの要素を含みつつ、禅はもっと大きなプロセス、働きなんだろうなあとぼんやり思いながら。