間違いの中にもうつくしさはある
私たちの罪と傷と醜さと嘆きに
赦しが恩寵が訪れますように
私たちが傷つける全てのものと
傷つき傷つける私たちとが
いつか果てて消えてゆくまで
生きてゆけますように

間違いの中にもうつくしさはある
私たちの罪と傷と醜さと嘆きに
赦しが恩寵が訪れますように
私たちが傷つける全てのものと
傷つき傷つける私たちとが
いつか果てて消えてゆくまで
生きてゆけますように
夏の山で坐禅仲間との懇親会。
突拍子もない話、ファンタジーな話、不思議な話。
いろんな話を聞いたけど一番不思議だったのは坐禅の師匠、一照さんの昔話だ。
神戸の大震災の日に一照さんは旧友らと3人で深酒をした。
朝方用事があるから俺はこれでと言った友人に「何言ってんだお前、俺たちはついていく」と言って行った料亭で二人の人物に会ったそうだ。
Long story short
その深酒と酔った勢いがなければ、その人物から勧められて今の住まいに帰国することにはならず、結果として今ここにある全ては実現しなかったはず。
師匠はアメリカから日本に(その時には)帰らなかった。
坐禅会は(その時には)始まらなかった。
帰国してその町に来ることにはならなかった。
私もGRACEで師匠に会わず坐禅会でりえさんにも藤原さんにも会わず、無心研も始まらず、そこの仲間の誰にも会わず、坐禅合宿もなく、つまりなにもなかった。
次元カーテンを何枚かめくって。
糸電話で会話できるとして。
えーと、そちらのあなた/わたしは何してますか?
その夜師匠が深酒しなかった場合。
同じものでも角度によって違う姿が現れるように
出会いは一点ではなく一連のプロセスだから
初めて会った時とは違う姿を後で見ることになる
それは全く矛盾しないし
さらに言えばちっとも悪いことじゃない
出会いというのは
ある時空において
二つのものが接をクリエイトすること
決して二度と同じものはない
またそれは固定されたものではなく始まりと終わりのあるプロセス
その接あるいは際には表面張力が働くから
巻き込まれ引き込まれることもある