日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

ミドリさん

2018年05月31日 | 出会った人たち
娘と私を訪ねてくれたミドリさんと、半日、江ノ島で遊んだ。

階段を登っておみくじを引き、ギャラリーを冷やかしてタコせんべいを食べた。

文章を書くのが好きという娘にミドリさんは、すごいね、私は頭に考えがないから出てこなくて書けない、と言った。

考えがないってことではないと思うんだけど。

ミドリさんの話し方には独特のリズム、間がある。

外部からの情報に、すぐに、反射的に反応しない。

その構造には、真綿のような繭のような沈黙のレイヤーがあるんじゃないかな。

いろんなものはそのレイヤーにいったん引っかかって時を待つ。
そしていつか、思ってもいないような形で繋がったり実をつけたりするんだ。

ミドリさんは作る人だ。

その間というか空間が、周囲に流されずにいるために大切な役目を果たしている。

そうじゃないと作ることってできない気がする。

そんな話はちっともしなかったけれどね。

特に何をしたわけでもないんだけど、お天気も良く、なんだか楽しい1日だった。



ミドリさん企画の初シリーズ、見てみてね。



◎NHK Worldの視聴はこちらから↓
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/live/
◎番組ウェブサイト
https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/kids/


新番組Kids Meet the Worldがはじまりました。
東京五輪に向けて、こども取材班を結成し、自分たちで動画リポートを制作、世界各国の子どもたちとの交流を発信していきます。

番組は英語放送で、ネットで見られます。

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/kids/index_jp.html

また、蔵王町とパラオの子どもたちが作ったビデオ(各3分)がYoutubeにアップされました。
たくさんの「いいね!」をよろしくお願いします。

https://www.youtube.com/user/NHKWorld

https://www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/tv/kids/
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電子レンジを買いに

2018年05月29日 | 日記
電子レンジがついに息絶えたので、新しいのを買いに出かけた。

機械全般が苦手な私の代わりに、娘がいろいろ調べてくれた。こういう時の私は全く頼りなく、代わりに娘は少し生意気になる。

やっと買い物を終えると夕焼け空だった。

今の電子レンジは長く持つらしいから、今日買った電子レンジが壊れて次に買う時には、娘は一緒に暮らしていないかもしれない。

あんまり想像つかないけれど、こどもがこどもを持っていることだってあるかもしれない。

世の中何が起きるかわからないのだから、私だって生きていないかもしれない。

戦争が起きて暮らし方はすっかり変わり、電子レンジは買いに行けるものではなくなっているかもしれない。

昨日変わったのは電子レンジだけだけど、ほんとは、何もかもが常に変わっている。



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世界は簡単に変わる

2018年05月28日 | GRACE 死にゆく人とともにあること
何をしても世界は変わらない、と思う?

自分の受け止め方が変わるだけで、世界は簡単に変わる。
がらっと変わる。

駒込病院やマギーズ東京で活躍する栗原幸江先生が、ナラティブ・メディスンの講義で鮮やかにそれを実演して見せてくれた。

使った材料は一枚の絵、それと私たちの目、脳。

スライドにはワイエスのあの絵。
草はらに体をねじって座る「クリスティーナの世界」

どこか不自然なその体勢からは、現実と気持ちが引き裂かれたような葛藤が強く迫ってくる。

みんながそれぞれに感じたことを言う。

「あの家に行きたいけれど行けないみたい」

「もしかして見えない馬車から落ちた?」

「恨み、諦めを感じる」

その後、栗原先生は私たちに一つの情報を開示する。
この絵のモデルのクリスティーナはシャルコー・マリー・トゥース病で半身が不自由にもかかわらず、毎日欠かさず自力で草はらと自宅を往復していたこと。
それを見た画家にぜひにと請われて絵に描かれた、と。

すると一瞬で絵の印象が変わる。
何も変わらないはずなのに、私たちの解釈が変わることで複数の人には「空の色まで明るく見える」。

クリスティーナの体のねじれは最初から彼女の内にある戦いを表していた。
行きたい気持ちがあるのに、動かない体。
多くの人が叶わない願い、あきらめ、無念さを感じるかもしれない。
でも彼女の体が、そもそも不自由で動かないものであったのなら。
その体をひきずって這ってでも進む、という強い意志の勝利の物語に転換するのだ。

まるで手品のように「空の色まで明るく見える」。

栗原先生が見せてくれたのは、実は、特別なことではない。

そんなことは日々あること。
私たちが常にしていること。
だってそうやって私たちは自分の認知の仕方で自分の住む世界を形作っている。

そしてそれは非言語的に一瞬で伝わり、相手の世界をも変えてしまう。

「私」と「世界」とは、相互作用的な創造的なプロセスだから。

絵だから楽しい驚きの経験ですむけれど、

相手が絵じゃなくて人間だったら?

怖いでしょう?

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私たちの歩いているところ

2018年05月27日 | ホームスクール・ホームエデュケーション・不登校
こどもたちの不登校をきっかけにして、私たちは自分のframe of mind 、認知の枠組、あるいは色メガネについて考える。

「普通」そんなこと考える人は滅多にいない。
自分のよって立つものを疑うのは、「自分」にとってとても高いコストのかかることだから。

(とは言え見てるとそこそこいる)

でも自分より大切な子どもが全存在をかけて伝えようとしているのだから、選択肢はない。
考えるしかない。

それは
世間的な「常識」だったり
住む場所の「文化」だったり
「自分」の願いだったり
親の代から続く形にならない「想い」だったり

向き合わざるをえないから
本当に辛くても私たちはその鏡を覗き込む

そうすると

本当に真摯にそうすると

ああ、そうかあ

そうだったんだ

この子も辛かったし

私も辛かったんだね

となるわけです。

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そもそも大丈夫じゃない(あるいは大丈夫)

2018年05月20日 | 命について
すれ違った人の口元に、楽しそうな笑みが浮かんでいた。

あんな風に笑ってるひとが家族だったらいいよね。

大丈夫、なんとかなる、って思わせてくれる。

悩んだって仕方ないし。

だってなにもかも気持ちひとつだもん。

生きているってことがなんなのか

存在するっていうのはどういうことか

私たちはゴールもルールも知らされず生まれ

見よう見まねで暮らしている。

気がついた時には舞台の上で、芝居は上演中、みたいなもん。

大丈夫かって言ったら、そもそも大丈夫じゃない。

どんなに足掻いても、人として生まれたことから逃れることはできない。

あるいは大丈夫、とも言えるかも。

誰も抜けがけする余地もない。

同じことなら、めいっぱい遊ぼう。

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