日々乃家日誌 まにまに・てい子の日々の発見

母まにまにが娘てい子と始めた、日々の発見を綴るブログです。

レッスン

2018年01月28日 | 命について
「何を得ましたか」とか

「何を求めて来ましたか」

と聞かれてもやもやした。

しばらく考えてわかった。

レッスンから何かをもらうんではない。

そのコンテンツから何かを得る、というのは
あるにしても限定的、ほんの一部分だ。

大きな意味を持つのはコミットメント
そこと関わるという行動で自分を動かし
生活を景色を変えていく。

それを足場に自分が動く。

何かが変わる時、変える時、そこにあるのは
新たな流れ、行動、出会いだから。

レッスンの中身イコール効果、ではない。

そんな単純なものじゃない。

命ってそんな風にできてない。

と思う。



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さあ

2018年01月23日 | 命について
どう考えてもカードは配り終えている

私の最弱すら最上

愛は成るか。

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写真

2018年01月23日 | 命について
母のものだったiPadから何枚か写真を分けてもらってきた。

だんだん病気が進行して体が動かなくなり、表情もなくなっていく母と過ごしたいくつもの誕生日や旅行、日々。

なんでだろう、その写真の中の私は活き活きと明るく輝いているように見える。

多分、私が明るさをもたらす役をしていたから。

母にとって私はいつでも圧倒的に好ましく良きもの、だった。
(一番最期は違ったかも、ずいぶん失望させただろうから)

それは私がそうだったというよりは、母と私が出会った面で、おそらくは主に母がそのように私を見た、信じたから。

母の目が私に力と輝きを与えた。


存在は絶対ではなく関係の中でその場に発生するライブ、ジャムセッションだ。

自分というものも、出会ったものに合わせて反応しあい、その都度新たに鳴り響く音だ。

相手と自分で共同でお互いを発生させる場を作るのだから、つまり相手は、かなり、自分だ。


必要があって写真を探していて、結局娘に一緒に自撮りしてもらった。

風邪っぽくて調子もいまいちで写真なんて撮りたい気分じゃなかったけど。

撮れた写真の中で、娘の横の私は、柔らかく輝いていた。






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青空

2018年01月19日 | 苦しむ人とともにあること
何かを求めてどこか他所を探すのをやめた。

やらなきゃいけないのは自分のうちに自分の場所を作ることだけだった。

どんなにだめでもみっともなくても気に入らなくても、なるべく静かに自分と一緒にいてみた。

見たくない、嫌だなと思う気持ちごと。

下に下に水底へ沈む。

恐れたほど深くなかった。

どれもこれも、ただひとりの人であるというだけ。

ただひとりの。

しがみつかず

押しのけず

顔を背けず

見る。

思いがけず明るくゆらゆらと揺れる
一番底にあったのは、あおぞら。

どんなものも許されて、ある。











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みつかったもの

2018年01月19日 | 命について
これは

たぶんみんなが探しているもの

それはひどく静かな、状態

とても地味な

世界となんの齟齬もない

ベターっとつながっている感覚

平らな

ただくつろいでいる

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