例えば思考が金魚鉢の中で泳ぐ金魚だとして。
通常普通一般の私たちは金魚になり金魚の目を通して生きている。
金魚は水の流れや水温やなんかの条件に反応して動く。
その動きには反射的とさえ言えるもっともな要因がある。
それが見えれば。
金魚=自分じゃないしなんなら水も金魚鉢も自分だし、あれ、自分ってなんだっけ。
(ふりむくと)
全世界だったり。
例えば思考が金魚鉢の中で泳ぐ金魚だとして。
通常普通一般の私たちは金魚になり金魚の目を通して生きている。
金魚は水の流れや水温やなんかの条件に反応して動く。
その動きには反射的とさえ言えるもっともな要因がある。
それが見えれば。
金魚=自分じゃないしなんなら水も金魚鉢も自分だし、あれ、自分ってなんだっけ。
(ふりむくと)
全世界だったり。
特になにか想定していたわけではないけれど話の流れ方が(おおまかな方針を決めた最初の部分以外は)思っていたのと違った。
状況の聞き取りとデータの収集、分析、助言というきっちりと整理された、道筋を探す戦略的なやりとり、ではなかった。
なんというか、フリー。
フリーセッション。
「こうまとめよう」という意図を感じさせない。
まとめない、誘導しない。
それがどんなにすごいことか、知らない人の方が多いと思うけれど、私は自分の分野なので知っている。
揺らがない。
オープンでいる。
ありったけを与える。
ライブでほろっと想定外のものが出てくる生きた場。
これはパーソナルコンサルティングという形を借りた、ホールパーソンケア。
菩薩業。
施無畏。
(ありがとうございました)
自分のことばっかりで悩んでいると袋小路で辛いだけ。
「こちらは行き止まりになります」
そういう看板が立ってる気がした。
自分で自分の罠にはまって逃げ場もないし空も見えない。
空が見えればなあ。
愛されて与えられて許されていることを思い出せれば(まあそれがむつかしいんだけど)
そうすると「自分だけ」の魚籠に頭を突っ込んでるおかしさに気がつく。
とりあえず親切がありがたいなあいつかお返しできるのかと目線が上がると
そう思う時にはもう「自分だけ」の縄はするりと外れている。
「思考は私ではないと知る」
を
私のうちから見る。
例えば。
それが欲しかったから手を伸ばしたのではなく、手を伸ばしたかったからそれが欲しく見えた、と知ることもできる。
そうしたら伸ばしたい気持ちをあやしながら、これはよしておくこれは伸ばすとタイミングを決められるかもしれない。
手が届かなくても取り乱さないかもしれない。
「私」というものが乗る流れをもう少しうまく捌けるかもしれない。
思考/言語は目立つ線だけが見える仕様になっている。
うねりながら流れるドライブの上に乗っているテキスト。
地図。
間違いというわけじゃなく、ほんの一部、補助線だということ。
思考以外を省くと見やすくわかりやすいけれど、あまりに多くを取り落とす。
肉を見ずに骨だけ見るような。
取り落とされるものは本体の全て。
余白。
身。
あるいは仏性。
ミーティングの直前にのそのそ起きて参加したけど肘も痛いし、いや肘はいいわけか、今日はやる気が出ない。
ずっとミュートにして静かにしてた。超有能なみんなだから、さくさく話は進んでいった。
(メモ:無駄にループは作らない、宙に浮いてる件は固定する)
静かにして見てるとそれはまた面白い。
いつも割と静かじゃなくて、それでいいのかなとも思っていたけど。いいんだな。それぞれの人の音量ボリュームは、それぞれの人のその時の参与具合によって自動的に調整されている。
声に出すということはそれなりにコストがかかり、責任が生じる行為なんだ。
一方静かにしている、にもちゃんと役割はある。
みんな次があって早めに切り上げたけど、忙しい人が国際会議で2時間しか寝てないって言っててホラーだった。
イベント明けでこのあと講義の方もおやつれの様子。
みなさまお疲れ様でした。
私はちょっと別枠の時間富豪だけど、空飛ぶみなさまがこの後は少し眠れますよう。