じゃあどうしたらそのalienationの距離を潜りコンパチブルな地点に行くことができるか。
「自分がしていること」にまず気がつく。
自分がやっている「害になること」を止める。
「頭で考えること」に振り回されずオープンである。
隣にいる、側面の体感を大切に。
フラットな土台、
できれば動いているか
作業しているといい。
何かが進行中で、お互いに関わってもいいし、関わらなくてもいい自由と余白があるといい。
ただ、いる。
じゃあどうしたらそのalienationの距離を潜りコンパチブルな地点に行くことができるか。
「自分がしていること」にまず気がつく。
自分がやっている「害になること」を止める。
「頭で考えること」に振り回されずオープンである。
隣にいる、側面の体感を大切に。
フラットな土台、
できれば動いているか
作業しているといい。
何かが進行中で、お互いに関わってもいいし、関わらなくてもいい自由と余白があるといい。
ただ、いる。
いくつかの異なる事柄に共通点があるのにしばらく前から気がついてた。
それをコンパチビリティ、と言ってみる。
(互換性ではなく適合性の方の意味で)
それは不登校のこどもが引きこもりの穴から抜け出して回復に向かうプロセスで必要とする最初の梯子。
ドラマで王様(あるいは大スター)が異国の庶民と恋に落ちる出会いの条件。
大きな悲しみや苦しみとともにある友人とやりとりする時に必要なもの。
たとえそれが憧れ、敬意、憂慮、心遣いであったとしても、全く異なるものとして大きな距離ごしに見てしまうと、相手にとってそれは疎外alienation になり、関係性を築くことができない。
「素晴らしい」存在としてあるいは「気の毒な」存在として、あくまでもこちら側の想定上の役を、その人個人のその時の状態に覆い被せるように押し付けることになる。
相手は無言でそれを受け入れるか、不快を表現するか、あるいは去るしかない。
何者でもないひとりの人として、自分と同じ存在として、ただ普通に話しかけること。
同じ土壌に立って目の高さが合うところで話しかけること。
そういうコンパチビリティがない限り、生きた関係性は生じない。
もちろんただ近づけばいいってもんでもない。
でも覚悟と意思を持ってそこまで行かないと、その人と出会うことはできない。
前は知らなかったけど、落ち着いていない、の罪は大きかった。
落ち着いて
((何もしないでいられる状態で))
そこにいる、というのが
どんなに大きいめぐみかということを考えている。
落ち着くためには、自分がそこで落ち着く軸と場所と時間が必要になる。
軸はインテグリティ。
場所というのは身体。
時間というのは意識/意図。
そこから泉のように何かがあふれて人に作用していく。
何か、は多分、時空。
命が花開くために必要なステージ。
カトー先生のこと、ずっと頭に置いてあって、時々取り出してはながめている。
何があんなにいいんだろう。
目立つ部分と目立たない部分と、確かにそこにある、良さ。
圧倒的な知識と経験は前提として。
「何もしようとしていない」良さもある。
先生とともにあるスペースで、みんなは自由に考えたり質問したり意見を言ったりする。
そして過剰な熱意ではなく適度な温度のちょうどいいコメントやはげましをもらう。
その自由さ。
息ができる感じ。
なんでもない感じ。
圧力の反対。
自立性。
何があっても気にしない。
軽さ。
明るさ。
なんだろうなあ、あの良さは。
ちょっと脚を伸ばして海辺のパン屋さんまで来た。
バタールと揚げパン。
帰る間際にコーヒーがあるのに気づいて注文した。
そうっと持って海まできたよ。
小魚を狙って追い込むコサギ、横取りするトンビ、隙をねらうカラス。
逃げる魚たち。
寄せては返す波をしばらく見ています。
あなたもどこかで美味しいお茶ができますよう。