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不屈の精神

2017-10-09 10:56:01 | お話
⚡️☀️不屈の精神☀️⚡️


7月3日号、一面に登場した盲目😎のカウンセラー・西亀真さん(60)が、市内の中学校🏫で講演🎤のため宮崎にやってきた。☀️

西亀さんは、30代半ばで目の難病を患い、46歳の時、完全に光を失った。😵

盲学校🏫に入学し、点字🌟を学ぶが、
指先に触れる凸点の感触💓がどうしても文字に思えず、

「自分には点字は無理です💢」

と匙(さじ)を投げた。💨🍴

その時、先生が言った言葉🍀で

西亀さんにスイッチ🌟が入った。

「両眼😎が見えなくても、両手👐も失った方が、

唇👄で、点字🌟を学ばれた🎵そうですよ」


今回の西亀さんから、この「唇👄で点字を読む」藤野高明さんのことを詳しく聞いた。👂


藤野さんは、昭和13年福岡県🌸生まれ。

人生🍀の風景が一変⚡️したのは、

終戦の翌年、小学2年生🏫の時だった。

近所に落ちていた銀色の筒のようなものを拾ってきて、当時5歳の弟と遊んで🎵いた。

それは突然⚡️爆発💥した。

不発弾💣だった。😵

弟は即死😨。

藤野さんは両目を失明し、両手首を失った。😵

それから13年間、彼は教育🌸の機会を奪われた。

全盲😎と両手首損傷の二重障がい児と言うことで、

教育委員会🌸は、「就学免除💓」と通達✉️してきた。

しかし、実際は「受け入れ拒否🚫」だった。

藤野さんは学校生活に支障がないように、必死⚡️で身辺自立🍀を訓練🌸した。

12歳になる頃には、衣服👚の着脱、食事、洗面・トイレ🚽はもちろん、

タオルを絞ったり、七輪の火🔥を起こすこともできるようになった。

それでも福岡盲学校🏫は、その門戸を固く閉ざした。✋🚫


藤野さんは、12回にも及ぶ開眼手術🔪を受け、その度に入退院🏥を繰り返した。🔄

入院中、看護婦🌸が、よく本📖を読んでくれた。

18歳の時、運命💓を変える🔄1冊の本と出合った。🌟

北条民雄の『いのちの初夜』。

それは、ハンセン病🌸の診断⚡️を受け、療養施設🏡に入所した著者が、自らの体験🌸を綴った短編小説📖だった。

藤野さんは、自分よりもっと過酷💢な運命💓を背負いながらも、

世の中の不条理😫を、本📖で訴え💢ている人がいることを知った。😊☀️

そして、ハンセン病🌸の患者たちが唇👄で点字🌟を読み取っていることに衝撃😵⚡️を受けた。

「文字を獲得すれば、盲学校🏫に行けるかもしれない✊」。

気の遠くなる☁️🌁ような受験勉強📝が始まった。


かつて目の治療で同室に入院していた盲学校の生徒🍀が、毎日病室を訪ねて点字🌟を教えてくれた。

藤野さんは、全神経⚡️を唇👄に集中🌀させた。

難関は数学🔢だった。

なにせ、小学2年生🏫から教育🍀を受けていない。

特に、分数🔣や小数の計算が理解🍀できなかった。😵

そこに、看護学校🏫の学生だった熊本敏子🌸さんが現れた☀️。

実習🌸を終えた夕方6時から、熊本さんは、付きっきりで数学🔢を教えた。

藤野さんは、倍数⤴️や簡単な方程式🔡、因数分解🎵まで理解🌟できるようになった。😊🎵

それでも、

福岡盲学校🏫高等部は、彼の両手首損傷を理由🍀に受験🌸を認めたかった。🚫

将来⛅️、理療(鍼・灸・マッサージ)の仕事🍀に就ける可能性がないからだ。😵

しかし、希望の光☀️は絶望のすぐ横にあった。

盲学校の教師🍀が

「大阪市立盲学校🏫には、音楽科🎵があります」

と教えてくれたのだ。

藤野さんは点字🌟で手紙✉️を書いた。

点字の返事✉️はすぐ来た。

「できる限り、最善🌸を尽くします😊」と。

看護学校🏫を卒業して、正看護婦🌸になっていた熊本さんと、その友人たちが、

藤野さんに受験科目📝の5教科🍀を教えた。

1959年2月、

大阪市は、教師🌸を藤野さんの病院🏥に派遣し、

前例のない出張🌸入試📝を行った。

合格通知🈴は3月4日に届いた。😍

20歳の藤野さんは、晴れて☀️中学部🏫の2年生🍀になった。


その後も、何度となく訪れた絶望😫と屈辱😖の嵐🌀を、

家族🌸や仲間🍀に支えられながら潜り抜けた藤野さんは、

1973年、教員🌸採用🍀試験📝に合格🈴し、

母校・大阪市立盲学校🏫の教諭🍀になった。


不屈の精神⚡️と無限🌁の可能性☁️とは、

この人のことを言うのだろう。😊🎵


西亀さんの携帯📱には、時々79歳の藤野先生🍀からメール📧が来るそうだ。

すごい人だ。😊🎵


(「みやざき中央新聞」H29.10.2 水谷さんより)