🍀運命が変わるとき🍀
人は、運命が変わる前に危機が先行する、、、
私は自らの体験を通じてそう確信しています。
私は若い頃、世間体を気にする母の影響で、
よい学校を出てよい会社に入り、
定年まで勤め上げれば幸せになれると信じていました。
ところが就職した大手企業では、
仕事を獲得するため、接待や選挙応援など、
本業とかけ離れた仕事に明け暮れる毎日。
それが社会の現実とはいえ、無垢な若者にはあまりにも理不尽に映り、
心の内で葛藤を重ねるうちに徐々に体調を崩し、うつ病に陥ってしまったのです。
結局その会社は退職し、
家業の工務店に入りましたが、うまく溶け込めずにうつ病は悪化。
とうとう28歳の夏に自殺を図りました。
奇跡的に一命は取り留めたものの、
よい学校を出てよい会社にれれば幸せになれるという私の神話は、もろくも崩れ去ったのです。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
心の中で膨れ上がった疑問につき動かされ、
様々な宗教の門を叩きましたが、
納得のいく答えは見つけられませんでした。
そうして自殺未遂から1年経った昭和63年7月23日、
たまたま友人に誘われて参加したのは、
ロケット博士で知られる糸川英夫先生が晩年にご自宅で開かれていた勉強会だったのです。
テキストはそれまで縁のなかった『聖書』でしたが、
糸川先生がひもとくと現代に役立つ知恵として俄然光を帯びてきて、
目から鱗が落ちるようでした。
この人こそ自分の求めていた師と思い定めた私は、その日のうちに弟子入り。
以来10年にわたり、私は糸川先生と交流を重ねて様々な教えを賜り、
お亡くなりになったときは、お骨を拾うまでに親密なの間柄とさせていただきました。
後年、父から会社を引き継いだ私は、
「前例がないからやってみよう」
という糸川先生の精神に学び、
土地を買わずに家を建てる定期借地権事業や、
有害物質を出さない自然素材の家づくりなどに挑戦し、
独自の活路を見出してまいりました。
いま思えば、自殺未遂という人生の危機を経たからこそ、
私は掛け替えのない人生の師と巡り会い、
運命を大きく好転させることができたのだと実感しています。
私が出会った頃の先生は、すでにロケットの研究からは手を引かれ、
ご自身で立ち上げた組織工学研究所で人間の研究に邁進されていました。
「赤塚さん、命は何のために使うものか知っているかい?」
糸川先生はしばしば、そんな問いを唐突に投げ掛けてこられました。
私が口ごもっていると、
「命は自分のためでなく、人のために使うものだよ。
だから自分の頭の上のハエではなく、
人の頭の上のハエを追い払いなさい。
そうすると、いつかあなたにたかるハエを誰かが追い払ってくれるから」
と、印象的な示唆を与えて下さるのでした。
糸川先生はまた、パリ大学や米国の大学で教鞭をとられた際、
ずば抜けて優秀な学生がほぼ例外なくユダヤ人であることに興味を抱かれ、
イスラエルの大学を訪問してユダヤ魂を研究する民間交流ツアーを立ち上げられました。
ユダヤ人は、ローマによって一度国を滅ぼされたにもかかわらず、
2000年もの長きにわたり民族のアイデンティティーを保ち、
再び建国を果たしたという極めてユニークな歴史を持ちます。
日本の四国ほどの大きさの国でありながら、周りを敵国に囲まれているため、
国土の6割を砂漠が占める中でも食料自給率100%維持し、
砂漠の緑化を年々進めて自立を保っています。
決して一般に思われているように好戦的ではなく、
自ら攻撃を仕掛けることはありませんが、
祖国を愛する心は世界一だと思えます。
糸川先生のユダヤ研究は、実は日本人を目覚めさせたいとの思いから行われたものでした。
戦後教育により、祖国を大切に想う気持ちに乏しくなって日本人に警鐘鳴らしたいというのが、先生の真の願いだったのです。
糸川先生は、現地の大学総長からイスラエルへ移住して学生の指導してほしいと依頼された際、
自分は日本を愛しているのでそれはできないとお断りになりました。
翌日、大学の総会に臨席した糸川先生は、
総長のスピーチに感激して涙を流されました。
「我々は、イトカワを心から尊敬し、信頼する。
なぜなら、彼が祖国を愛する人だからだ。
イトカワこそ我らが真の魂の友だ」
私は糸川先生から、
自分の国を愛せない人に、他国を愛することができない
という真理を学びました。
糸川先生がお亡くなりになった年、私は先生の遺骨の一部をユダヤの荒野に埋めました。
これでイスラエルの地も見納めと思っていたところ、
現地の方々からツアーの存続を強く要請されました。
ユダヤ人のいない日本で、厚い友情を持ってイスラエルと交流してくれた糸川先生は、
自分たちの誇りであり、御遺徳を偲ぶためにも、ぜひ続けてほしいと言うのです。
ツアーは私が引き継ぐことになり、今年の9月で18回を数えます。
糸川先生がお亡くなりになってやがて20年が経ちます。
この頃では、しばしば、ユダヤ魂と大和の心について話してほしいというご依頼をいただくようになり、
日本人の意識も徐々に変わりつつあることを実感しています。
自らが真の日本人となることを通じて、
ご縁をいただいた方々に少しでもよい影響を及ぼしていく。
これが亡き糸川先生の方のご恩に報いることだと考えて、
私は精進を続けています。
(「致知」11月号 致知随想 赤塚高仁さんより)
人は、運命が変わる前に危機が先行する、、、
私は自らの体験を通じてそう確信しています。
私は若い頃、世間体を気にする母の影響で、
よい学校を出てよい会社に入り、
定年まで勤め上げれば幸せになれると信じていました。
ところが就職した大手企業では、
仕事を獲得するため、接待や選挙応援など、
本業とかけ離れた仕事に明け暮れる毎日。
それが社会の現実とはいえ、無垢な若者にはあまりにも理不尽に映り、
心の内で葛藤を重ねるうちに徐々に体調を崩し、うつ病に陥ってしまったのです。
結局その会社は退職し、
家業の工務店に入りましたが、うまく溶け込めずにうつ病は悪化。
とうとう28歳の夏に自殺を図りました。
奇跡的に一命は取り留めたものの、
よい学校を出てよい会社にれれば幸せになれるという私の神話は、もろくも崩れ去ったのです。
人間はなぜ生まれてくるのだろう。
心の中で膨れ上がった疑問につき動かされ、
様々な宗教の門を叩きましたが、
納得のいく答えは見つけられませんでした。
そうして自殺未遂から1年経った昭和63年7月23日、
たまたま友人に誘われて参加したのは、
ロケット博士で知られる糸川英夫先生が晩年にご自宅で開かれていた勉強会だったのです。
テキストはそれまで縁のなかった『聖書』でしたが、
糸川先生がひもとくと現代に役立つ知恵として俄然光を帯びてきて、
目から鱗が落ちるようでした。
この人こそ自分の求めていた師と思い定めた私は、その日のうちに弟子入り。
以来10年にわたり、私は糸川先生と交流を重ねて様々な教えを賜り、
お亡くなりになったときは、お骨を拾うまでに親密なの間柄とさせていただきました。
後年、父から会社を引き継いだ私は、
「前例がないからやってみよう」
という糸川先生の精神に学び、
土地を買わずに家を建てる定期借地権事業や、
有害物質を出さない自然素材の家づくりなどに挑戦し、
独自の活路を見出してまいりました。
いま思えば、自殺未遂という人生の危機を経たからこそ、
私は掛け替えのない人生の師と巡り会い、
運命を大きく好転させることができたのだと実感しています。
私が出会った頃の先生は、すでにロケットの研究からは手を引かれ、
ご自身で立ち上げた組織工学研究所で人間の研究に邁進されていました。
「赤塚さん、命は何のために使うものか知っているかい?」
糸川先生はしばしば、そんな問いを唐突に投げ掛けてこられました。
私が口ごもっていると、
「命は自分のためでなく、人のために使うものだよ。
だから自分の頭の上のハエではなく、
人の頭の上のハエを追い払いなさい。
そうすると、いつかあなたにたかるハエを誰かが追い払ってくれるから」
と、印象的な示唆を与えて下さるのでした。
糸川先生はまた、パリ大学や米国の大学で教鞭をとられた際、
ずば抜けて優秀な学生がほぼ例外なくユダヤ人であることに興味を抱かれ、
イスラエルの大学を訪問してユダヤ魂を研究する民間交流ツアーを立ち上げられました。
ユダヤ人は、ローマによって一度国を滅ぼされたにもかかわらず、
2000年もの長きにわたり民族のアイデンティティーを保ち、
再び建国を果たしたという極めてユニークな歴史を持ちます。
日本の四国ほどの大きさの国でありながら、周りを敵国に囲まれているため、
国土の6割を砂漠が占める中でも食料自給率100%維持し、
砂漠の緑化を年々進めて自立を保っています。
決して一般に思われているように好戦的ではなく、
自ら攻撃を仕掛けることはありませんが、
祖国を愛する心は世界一だと思えます。
糸川先生のユダヤ研究は、実は日本人を目覚めさせたいとの思いから行われたものでした。
戦後教育により、祖国を大切に想う気持ちに乏しくなって日本人に警鐘鳴らしたいというのが、先生の真の願いだったのです。
糸川先生は、現地の大学総長からイスラエルへ移住して学生の指導してほしいと依頼された際、
自分は日本を愛しているのでそれはできないとお断りになりました。
翌日、大学の総会に臨席した糸川先生は、
総長のスピーチに感激して涙を流されました。
「我々は、イトカワを心から尊敬し、信頼する。
なぜなら、彼が祖国を愛する人だからだ。
イトカワこそ我らが真の魂の友だ」
私は糸川先生から、
自分の国を愛せない人に、他国を愛することができない
という真理を学びました。
糸川先生がお亡くなりになった年、私は先生の遺骨の一部をユダヤの荒野に埋めました。
これでイスラエルの地も見納めと思っていたところ、
現地の方々からツアーの存続を強く要請されました。
ユダヤ人のいない日本で、厚い友情を持ってイスラエルと交流してくれた糸川先生は、
自分たちの誇りであり、御遺徳を偲ぶためにも、ぜひ続けてほしいと言うのです。
ツアーは私が引き継ぐことになり、今年の9月で18回を数えます。
糸川先生がお亡くなりになってやがて20年が経ちます。
この頃では、しばしば、ユダヤ魂と大和の心について話してほしいというご依頼をいただくようになり、
日本人の意識も徐々に変わりつつあることを実感しています。
自らが真の日本人となることを通じて、
ご縁をいただいた方々に少しでもよい影響を及ぼしていく。
これが亡き糸川先生の方のご恩に報いることだと考えて、
私は精進を続けています。
(「致知」11月号 致知随想 赤塚高仁さんより)