🍀この道を歩む🍀③
🔹北尾、吉田さんご自身は技術者ではありませんでしたが、
創業時のメンバーの方々の中にも電池の技術者はいらっしゃらなかったそうですね。
そういう中で、よくそこまで高品質のリチウムイオン電池を開発なさいましたね。
🔸吉田、リチウムイオン電池の技術者というのは、
日本ではどちらかというと日陰者だったんです。
当時は国全体で、
「いまさらリチウムイオン電池か」
と言われるような状況でした。
若い技術者の中には、そういう状況に不満を持っている人が結構いたので、
志を共にしてくれる技術者は集まってくると考えていました。
🍀北尾、私が吉田さんに出資する決め手になったのは、まずその発想です。
それから、ある程度お年を召されてからの起業ですから、
事業の継続性がポイントになったわけですが、
やはり徳は孤ならずで、
吉田さんの周りには徳性が高く、優秀な若い方が集まっておられて納得しました。
どなたも、吉田さんがこれまでの人生を通じて培ってこられた人間的魅力に惹かれて集まられたのだと私は思うんです。
🔸吉田、そんな立派な人間ではありませんけれどもね(笑)。
銀行へ入るまではテニスに夢中で、遊び呆けていましたし。
そんな私がいま、こうした事業を手がけているのは、父の影響が多分にあると思います。
父は京都大学講師からは文部省の行政官に乗り、
アジア人の世界の実現を唱えた学者でした。
戦争中にフィリピンの現地教育に携わっていたんですが、
戦局が厳しくなって帰国を命じられた時に、
自分の言葉に責任を持ちたいと言って現地に残り、
37歳で戦没しました。
山口県出身の父は、吉田松陰を崇拝していましてね。
松陰には
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
という辞世ががありますけれども、
父もそれに通ずるような覚悟を持って戦地に赴いたのではないかと思うんです。
🔹北尾、吉田さんのことを書かれた本を拝読すると、
そのお父様も含めて、ご先祖様の影響を非常に受けていらっしゃるようですね。
父方のお祖父様は、伊庭貞剛に請れて住友家に学士第一号として入社し、
後に住友信託を創業なさっているし、
母方のお祖父様も、当時の日本を代表する国際法学者でいらした。
DNAというものは本当に恐ろしいものです。
それから、銀行に入行されて7、8年後には、
本店勤務の同期の方に月給で百円の差をつけられたそうですね。
普通は、そこで腐ってしまうところなんですが、
吉田さんは逆に奮起なさったと。
これも後の起業に通ずる1つの転機になったといえるのではないでしょうか。
🔸吉田、確かにそうかもしれません。
あの時は辞めようかと思ったのですが、
銀行に入ったのをあんなに喜んでくれた母に、そんなことはとても言えない。
だったら、やれるだけやってみるかと気持ちを切り替え、
人の5倍働こう、1日90軒お得意先を回ろうと決意したわけです。
🔹北尾、先ほど、人と違うことをやるとおっしゃっていましたが、
その営業先も、ボーリング場とか、日本ケンタッキー・ライド・チキンとか、
当時まだ銀行とあまり取引をしないしていなかったところを開拓して、トップセールスマンになっていかれたそうですね。
その目のつけ所が素晴しいと思うんです。
私はいつも、営業はASP (アナリシス、ストラテジー、プラクティス)だと言っています。
まず分析。
そして戦略を立て、勇猛果敢に断行する。
吉田さんは住友のリサーチ軍団に分析をさせて、
それを武器に攻めていかれるなど、
実に斬新な営業のやり方を実行なさってきたとも伺っています。
🔸吉田、そうした努力を重ねるうちに、いくらでもやれるじゃないかという実感が湧いてきました。
自分が出した能力もないけれども、
努力する能力だけはあると。
その時から本当の意味で、人生やビジネスのスタート台に立てたように思いました。
起業につながる転機ということでは、
常務となった52歳のときに突如ロンドンへ赴任したことも大きかったですね。
部下もなく組織の外で1年以上過ごしました。
それまでは銀行という組織の中で生きるサラリーマンにすぎなかったので、
銀行がなくなったら世界が終わってしまうような気でいました。
けれども、そこから一旦離れて異国の地に立ったことで、
1人でも生きていけるんだ、
人と違うことをやるからこそ生きていけるんだ、
と思うようになった。
そのことも、後に起業を決意する要因になったのかもしれません。
銀行時代に毎日90軒のお得意先を訪問していた時は、
営業成績を上げることはもちろんですが、
いろんな経営者にお目にかかって、それぞれのよいところを吸収しようという思いもありました。
その中で学んだことは、
ビジネスで1番大事な事は、
やはり誠実や信用だということです。
当社では毎週「十則」というのを皆で唱和していましてね。
そこに掲げている
「私たちの会社の夢は人類、社会に役立つ仕事をすることだ」
「信用誠実に優る知恵はない」
といったとことは、私が銀行時代から追求してきたことなんです。
銀行の支店長時代に転勤する際、部下の女子行員が
「吉田語録」という冊子を作って贈ってくれたことがあります。
私が日頃話していたことをまとめてくれたものなんですが、
そこに書かれていることは、
「正々堂々ととごまかしのない仕事をしよう」
などと、いま「十則」に掲げていることとほとんど同じです。
🔹北尾、その女子行員の方の心がけも立派ですね。
実は、私も同じようなものを書いてもらったことがあります。
野村企業情報の役員を退任して、野村証券へ戻るときに、
当時社長だった後藤光男さんから、
「北尾吉孝君の記録」という冊子を贈っていただいたんです。
その最後のページに、
「北尾君が謙虚な姿勢を保つ時、その迫力は、ますます人を動かし、組織を動かすことになる」
と書いてくださいましてね。
私はこれを読み返しては、今の自分は謙虚さを失っていないか、舞い上がってないかと、自らを省みるようにしているんです。
(つづく)
(「致知」11月号 吉田博一さん北尾吉孝さん対談より)
🔹北尾、吉田さんご自身は技術者ではありませんでしたが、
創業時のメンバーの方々の中にも電池の技術者はいらっしゃらなかったそうですね。
そういう中で、よくそこまで高品質のリチウムイオン電池を開発なさいましたね。
🔸吉田、リチウムイオン電池の技術者というのは、
日本ではどちらかというと日陰者だったんです。
当時は国全体で、
「いまさらリチウムイオン電池か」
と言われるような状況でした。
若い技術者の中には、そういう状況に不満を持っている人が結構いたので、
志を共にしてくれる技術者は集まってくると考えていました。
🍀北尾、私が吉田さんに出資する決め手になったのは、まずその発想です。
それから、ある程度お年を召されてからの起業ですから、
事業の継続性がポイントになったわけですが、
やはり徳は孤ならずで、
吉田さんの周りには徳性が高く、優秀な若い方が集まっておられて納得しました。
どなたも、吉田さんがこれまでの人生を通じて培ってこられた人間的魅力に惹かれて集まられたのだと私は思うんです。
🔸吉田、そんな立派な人間ではありませんけれどもね(笑)。
銀行へ入るまではテニスに夢中で、遊び呆けていましたし。
そんな私がいま、こうした事業を手がけているのは、父の影響が多分にあると思います。
父は京都大学講師からは文部省の行政官に乗り、
アジア人の世界の実現を唱えた学者でした。
戦争中にフィリピンの現地教育に携わっていたんですが、
戦局が厳しくなって帰国を命じられた時に、
自分の言葉に責任を持ちたいと言って現地に残り、
37歳で戦没しました。
山口県出身の父は、吉田松陰を崇拝していましてね。
松陰には
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」
という辞世ががありますけれども、
父もそれに通ずるような覚悟を持って戦地に赴いたのではないかと思うんです。
🔹北尾、吉田さんのことを書かれた本を拝読すると、
そのお父様も含めて、ご先祖様の影響を非常に受けていらっしゃるようですね。
父方のお祖父様は、伊庭貞剛に請れて住友家に学士第一号として入社し、
後に住友信託を創業なさっているし、
母方のお祖父様も、当時の日本を代表する国際法学者でいらした。
DNAというものは本当に恐ろしいものです。
それから、銀行に入行されて7、8年後には、
本店勤務の同期の方に月給で百円の差をつけられたそうですね。
普通は、そこで腐ってしまうところなんですが、
吉田さんは逆に奮起なさったと。
これも後の起業に通ずる1つの転機になったといえるのではないでしょうか。
🔸吉田、確かにそうかもしれません。
あの時は辞めようかと思ったのですが、
銀行に入ったのをあんなに喜んでくれた母に、そんなことはとても言えない。
だったら、やれるだけやってみるかと気持ちを切り替え、
人の5倍働こう、1日90軒お得意先を回ろうと決意したわけです。
🔹北尾、先ほど、人と違うことをやるとおっしゃっていましたが、
その営業先も、ボーリング場とか、日本ケンタッキー・ライド・チキンとか、
当時まだ銀行とあまり取引をしないしていなかったところを開拓して、トップセールスマンになっていかれたそうですね。
その目のつけ所が素晴しいと思うんです。
私はいつも、営業はASP (アナリシス、ストラテジー、プラクティス)だと言っています。
まず分析。
そして戦略を立て、勇猛果敢に断行する。
吉田さんは住友のリサーチ軍団に分析をさせて、
それを武器に攻めていかれるなど、
実に斬新な営業のやり方を実行なさってきたとも伺っています。
🔸吉田、そうした努力を重ねるうちに、いくらでもやれるじゃないかという実感が湧いてきました。
自分が出した能力もないけれども、
努力する能力だけはあると。
その時から本当の意味で、人生やビジネスのスタート台に立てたように思いました。
起業につながる転機ということでは、
常務となった52歳のときに突如ロンドンへ赴任したことも大きかったですね。
部下もなく組織の外で1年以上過ごしました。
それまでは銀行という組織の中で生きるサラリーマンにすぎなかったので、
銀行がなくなったら世界が終わってしまうような気でいました。
けれども、そこから一旦離れて異国の地に立ったことで、
1人でも生きていけるんだ、
人と違うことをやるからこそ生きていけるんだ、
と思うようになった。
そのことも、後に起業を決意する要因になったのかもしれません。
銀行時代に毎日90軒のお得意先を訪問していた時は、
営業成績を上げることはもちろんですが、
いろんな経営者にお目にかかって、それぞれのよいところを吸収しようという思いもありました。
その中で学んだことは、
ビジネスで1番大事な事は、
やはり誠実や信用だということです。
当社では毎週「十則」というのを皆で唱和していましてね。
そこに掲げている
「私たちの会社の夢は人類、社会に役立つ仕事をすることだ」
「信用誠実に優る知恵はない」
といったとことは、私が銀行時代から追求してきたことなんです。
銀行の支店長時代に転勤する際、部下の女子行員が
「吉田語録」という冊子を作って贈ってくれたことがあります。
私が日頃話していたことをまとめてくれたものなんですが、
そこに書かれていることは、
「正々堂々ととごまかしのない仕事をしよう」
などと、いま「十則」に掲げていることとほとんど同じです。
🔹北尾、その女子行員の方の心がけも立派ですね。
実は、私も同じようなものを書いてもらったことがあります。
野村企業情報の役員を退任して、野村証券へ戻るときに、
当時社長だった後藤光男さんから、
「北尾吉孝君の記録」という冊子を贈っていただいたんです。
その最後のページに、
「北尾君が謙虚な姿勢を保つ時、その迫力は、ますます人を動かし、組織を動かすことになる」
と書いてくださいましてね。
私はこれを読み返しては、今の自分は謙虚さを失っていないか、舞い上がってないかと、自らを省みるようにしているんです。
(つづく)
(「致知」11月号 吉田博一さん北尾吉孝さん対談より)