退職女のアメリカ便り

オーストラリアンシェパード、ジュンタのマミーのアメリカ、セントルイス生活

#1189: 私がアメリカに来た理由、住み続ける理由、続

2019-04-08 07:35:59 | アメリカ便り
先ほど主人がノースキャロライナの両親のところに旅経ちました。
16時間運転と言う過酷なロードレース。
子供たちが小さい時は、年に2回、夏とクリスマスにやっていました。
小さい子供を連れての狭い密室での16時間、親にとっては地獄のような時間でした。
座席の背もたれを蹴っ飛ばされる、子供同士のけんか、泣き叫んだり、1時間走ったかと思うと、‟トイレ”、‟まだ?!”。
今はどれも懐かしい思い出です。
なんて、もうそんなの起こりはしないだろうから、気楽に言えるのだろうけど。
‟年月は苦労を美化してしまう魔法です”。

今日から来週火曜日まで、好きなだけぐうたらでいられる。
ユーチューブで相棒を好きなだけみられる。
子連れ狼にはまって、一挙二十何個を全部見たっけ。
仕事を辞めた時は2週間好きなだけ、‟law and order" と言う警察検事ものにはまったこともありました。

仕事が来ないことを願っています。

続きです。

パンナムに乗ってハワイ経由でロスいきました。
そこで、次の飛行機まで5,6時間あったので、急に、‟ロスと言えば、デズニーランド。5,6時間あったら、ちょこっと見れるかも”、と思い立ち、ビールがミルクになる英語で、一人バスにのって、デズニーへ。
でも、‟ちょっとそこまで”的感覚で乗ったんだけど、そうではなかった。
‟デズニーはあきらめた方が良い”と言うことになりました。
途中ダウンタウンのようなところで降りて、繁華街のど真ん中にある小さな公園のベンチに座っていたら、ホームレスがたむろするところなようで、すぐによってきました。
‟ダラー、ダラー”と。
これはヤバイ、と思い逃げました。
そして最終目的地に無事つきましたが、ショッピング大好きの私の趣味とはかけ離れた、赤土まう、トウモロコシ畑のど真ん中に降り立ちました。
降り立った瞬間、後悔しか出てきませんでした。

結局はこのど田舎の大学町に5年間いました。
NASAの宇宙飛行士になろうと思っていったのに(軽い気持ちでしたが)、目的がコロコロ変わった挙句、まるっきりかけ離れた、遺伝子工学と言うその名前の意味もそれほど知られていなかったフィールドに進みました。
ちょうど大学院に進むちょっと前に、サンフランシスコ在住の日本人を含んだチームが遺伝子組み換えでインシュリンを作った記事を読み‟これしかないでしょう”、てな感じで決めました。

でも付いた教授が最悪だった。
おかげで、きっちり2年で、修士を取りました。
もうこんなところは1日たりとも必要以上にはいたくなかった。
そうして‟日本で就職”を考え10通くらい会社に履歴書を送ったけど、1通だけ返事がきました。
それもリジェクトです。
これは大変だ、簡単に日本で就職できると思ったのに。
と言うことで、今度はアメリカ全土に30通出しました。
アメリカ国内は問題なし。
そしてこの極悪教授の、鶴の一言‟この会社はつぶれない”で、決めました。
潰れはしなかったけど、首切りがしょっちゅう、2年ごとにありました。

強運の持ち主なので、その度重なる首切りにも負けず、27年間働き続けることができました。
そしてついに、私達の所属する、開発部門が閉鎖になり、その他大勢(600-700人ぐらい)と一緒に首切りに遭いました。
55才だったので、キャリアチェンジと言うことになり、今に至っています。

私がアメリカに来た理由は、
1にも2にも3にも、人と同じことをしたくなかった、そしてひょっとして宇宙飛行士になれるかな~と言うどうしようもないくらいあいまいなものでした。

次回は住み続ける理由です。

ハブグレジュンタのマミー