退職女のアメリカ便り

オーストラリアンシェパード、ジュンタのマミーのアメリカ、セントルイス生活

#2035:不穏なひと時を忘れる話、でもないかな❓‼

2023-11-30 11:22:29 | アメリカ便り

2023年も残すところ後1か月。

相変わらず、嫌なニュースばかり。

尖閣近くに大きな観測用機器を設置されながら、いまだに思いやり精神で親中に走っている政治家。

存在もしていなかった❝かわいそうな慰安婦商売❞(この人たちは軍から高給をもらって働いていた売春婦)で、再三にわたり日本政府から金をふんだくろうとしている韓国政府。

そんな韓国のドラマを繰り返し繰り返し毎日テレビで写している日本のテレビ局、そして今度はNHK紅白歌合戦で韓流歌手が6組も出るって、日本人が払っている受信料で成り立っているのがNHKなんですが、忘れたんかいな。

韓国政府はK-popやらの芸能界活動に予算を組んでいるそうな。

おまけにK-pop は得意のずるをしたため(USヒットチャートの上位を占めたけど、これは裏で金が絡んでいたそうな)USヒットチャートから問題視された。

福沢諭吉はわかってたんですね、130年前に。

❝脱亜論❞で❝日本の不幸は中国と朝鮮半島だ❞って言ってましたから。

そんな国々の隣で生きている、私のブログを読んでくださっている日本国民へ、ちょっと面白いお話をします。

 

年を取ると月日がマッハのスピードで過ぎていく。

小さい頃は月日が亀のスピードで過ぎて行ったのに。

来年はついに70才古希となってしまう。

と言うことは私の目いっぱいの人生も本当に残り少なくなったと言うこと。

1年間の腰掛就職をやめ、23才で❝何とかなる精神❞で英語能力最悪の私が、❝英語を勉強するために行くんじゃない!!❞と見栄を張りアメリカにやってきて半世紀近くとなりました。

まず通ったところが中近東人ばかりの大学付属の英語学校。

❝こんなところにいたら私まで馬鹿になる❞、と頑張ったけど6か月かかりました、大学入試英語にパスしたのは。

そりゃ―そうでしょうね、英語と言ったら通信簿で3しかとったことがない私でしたから。

そして、学部で2年半、修士で2年間と英語学校も含めて計5年間、何もないコーンフィールドの真っただ中にある大学町で過ごしました。

この町で良かったことは、無駄遣いをしなかった、と言うかできなかったことでしょうか。

お金を使おうと思っても使えるような店がほぼゼロだったし、車もなかったので遠くに行くこともなかったし。

と言っても無駄遣いできるような金もなかったんですが。

無事卒業し、当時引く手あまたの❝遺伝子工学❞と言う分野だったので仕事は割と簡単に見つかりました、と言っても約50通の履歴所をアメリカ全土に送りましたが。

勿論日本にも履歴書を送りましたが、返事は1社から来ただけで他はなしのつぶて。

めんどくさがりの私は近くの2時間くらい離れた都市にある有名な、当時は世界最大級の生物研究所をも持つと言われた会社で面接を受けました。

面接は丸1日かかりましたが、先輩に言われた通り、❝一回しかやったことのない実験でも、エキスパートと言え!❞、とか❝答えがわからなかったら英語がわからないふりをしろ!❞、とか実践的助言に従い無事終了し、仕事をゲット。

最高に毛嫌いしていたアドバイザーの、❝あの会社はつぶれないから行け❞、との一言で、その会社に決めました。

そして、1983年に勤め始め、本当に山あり谷あり、2年ごとにやってきた津波のような首切りを乗り切り、ついに2010年600人一斉首切りで私の長い研究員生活が終わりました。

その時私55才、寂しさと戸惑い感があったけど、喜びの方が多かったのを覚えています。

主人はまだ働いているし、❝これで好きなだけ日本に帰れる!!❞って。

と言ってもそれでは主人に悪いし、その後10年余り翻訳をパートのパートでやりました。

解雇された日から2週間ほどは私の大好きなテレビを見続けました。

と言うことで、私のアメリカに来てから2010までの成り行きを約1000文字で書きあげました。

私は結構ラッキーな人間と思っています。

勿論大学に入るまではアル中親父とボランティアー母に囲まれ、❝私はアンラッキー❞と思っていましたが、今はそれも人生と懐かしく思っています。

と言ってもその当時には絶対戻りたくはないですが。

芥川龍之介の言った言葉、❝運命は性格によって作られる❞と地で行ってる私の人生。

吉野が里遺跡

 

ハブグレジュンタのマミー