退職女のアメリカ便り

オーストラリアンシェパード、ジュンタのマミーのアメリカ、セントルイス生活

#937; 枯葉よ~

2017-11-18 16:32:23 | アメリカ便り
今日は雨と強風。
これも自然なんでしょうか。
最後の力を振り絞って、必死に木にしがみついている葉っぱを蹴散らすための。
空に葉っぱが舞い上がっています。

この嵐が来ると、ここも冬に早代わりしてくる。
来週木曜日はサンクスギビング。
これが過ぎるとアメリカでは、ショッピングマッドネス(買い物熱)がクリスマス直前まで続きます。
家々、オフィスビル、公園はクリスマスデコレーションで着飾り、アメリカの年間電力消費量の3分の1はこの時期に使われるのでは、と思わせる(冗談ですが)ぐらいあちらこちらで赤やら緑やらの電球がピカピカ。
車で近所をめぐるだけでもクリスマス気分が沸き立ってくる。
きれいですよ。

非常に寒いけど、この時期のシカゴはお勧めです。

写真です。







古平の海









ハブグレジュンタのマミー






#936: 今、考えると。

2017-11-16 04:45:37 | アメリカ便り
アメリカ時間火曜日3時半、無事ジュンちゃんが待つ我家に着きました。
飛行機は成田からもダラスからも満杯でした。
昨日は1ヵ月半お風呂に入れてもらえなかったジュンちゃんをお風呂に入れ、毛をちょっとトリミング。
娘と1時間、レイちゃんと1時間電話で話した後、ほぼ空状態だった冷蔵庫のためスーパーに買い物。
後はソファーでぐうたら。
またいつもの平和な生活に戻った感じです。

今、木曜日朝4時5分。
3時までがんばってベッドに入っていたけど寝れない。
しばらくはこのように寝れない状態が続くでしょう。
後ろではすっかりきれいになったジュンちゃんが、すやすやと寝ています。

母を送り出し、今考えると我家は本当に家族として機能していなかった家族だったと思います。
アル中の親父は飲んでいないときでもまともな会話ができる人ではなかった。
父から学んだことはただひとつだけ。
“人を訪ねる時は手ぶらで行くな”、ということだけ。
これが後になって、私が戦中戦後の担ぎや的状態で太平洋を横断する理由となったと思う。

母は母で私が小さい時は私を見栄を張る材料に使った節がある。
たとえば、毎日の生活にも事欠く中、4歳ぐらいの私に金のかかる日本舞踊を習わせたり。
小学校3年生ぐらいの時、学校から帰ると、日鋼の払い下げだった床が抜けるようなぼろ警察官舎にデーンとアップライトのピアノがおいてあったり。
かといって一緒に練習に参加したりなんてことはなかった。
相変わらず、内職の手が空くと他人の子のため、町内のためにボランティアーに走る。
与えるだけで、後は発表会なんかで着飾って親として出席するぐらい。
つまり行事の機会を作り、子供を見せびらかす道具に使っていた節がある。
こう言うと、”なんて、贅沢な子供なんだ”と思われる方もいらっしゃるかとも思いますが、私は日本舞踊もピアノも要らないからごく平均的家庭に近い生活がしたかっただけだったと思います。
毎日とはいわないけど、せめて4,5日に1回ぐらい掃除がなされた家とか、少しは工夫がされた食事とか、1年に1回ぐらいの家族旅行とか。
母が亡くなって間もないのでこういうのもどうかと思いますが、やはり私は母みたいな親にはなりたくはない、というのが正直な気持ちです。

例ちゃんが言ってましたが、“よりさん(私の母)は、クンちゃん(わたしのこと)の自慢ばかりしていた。それが終わったら今度は孫の自慢ばかりしていた”と。

私の母の子供に対する愛情というものは“自慢する”ことだったのかしら????

終わりになりましたが、今回の母の死に対して多くの方から励まし、お悔やみの言葉をいただき、ありがとうございました。
こうやってブログをはじめたおかげで、見ず知らずの方たちから言葉をいただき、感謝はもちろんのこと、同じ日本人であるということにうれしさを覚えました。
コメントをくださった一人ひとりに返事を書くのが礼儀と思いますが、今回は失礼と思いますがこういう形で皆様にお礼を申したいと思います。
本当にありがとうございました。

次回からは今まで道理のブログに戻りたいと思います。

ハブグレジュンタのマミー



#935:大平洋上空より

2017-11-15 10:35:10 | アメリカ便り
まもなくアメリカ大陸の上空に入ると思います。
毎年2、3回大平洋横断をしていると言っても、やはり、地球ほぼ半周の旅は辛い。
特に右も左も前も後ろも席がみんな人でうまっているときは。

と書いて、今度はダラス空港から書いています。
セントルイス行きが出発するまで、4時間ほど待ち時間があります。

アメリカ生活40年、冠婚葬祭経験が父親の葬式と兄の結婚式だけという私が、無事母親の葬式挙げることができたのは、友達、いつの間にか私のお友達となった母友レイちゃん、親戚のおかげと思っています。
本当に全て(マイナー事件がありましたが)がこと無く無事終えることができました。
13日にアメリカに帰る私のことを考えて、母は葬式の時間を考えて2日に亡くなってくれたと思います。
娘のいない時に死んだら“誰が私の葬式を挙げてくれるんだ”という思いが、この2年ほど、母の最大の恐怖だったと思います。
だから、私が帰国す度、母は“お前のいる間に葬式を挙げてほしい“、と言ったものです。
”死ななきゃ葬式あげられないでしょう“と私は薄情に言い返しましたが。
約束を守って、思い残すことはないです。
”できる時にできることをして後悔なし“が私の信条なので。

でも未だに母が死んだということが、よく理解できていない感じがします。
母がいないということは、会えないということは、、、
父が亡くなった時も2年かかりました。
ある日、娘とレストランに行った時、急に”アル中オヤジがいなくなった“という事が現実味を増したのです。
娘の前で初めて泣きました。
母が亡くなってどのくらいの時間が必要となるか、理解するのに。

ハブグレジュンタのマミー


#934:約束は守ったよ。

2017-11-13 07:26:48 | アメリカ便り
大変長らくご無沙汰いたしました。
全ての細胞の動きが止まるに連れ温かみが身体中からなくなり、母は89歳と9ヶ月の命を終えました。
裕福な農家で、開拓者精神丸出しの父親と、当時は珍しかったバツイチの母の間で、ただ1人の女の子として五人兄弟の真ん中に生まれた母。
気が強く、戦時中挺身隊で無線の手伝いをしていた時には周りの兵士にもてたとか嬉しそうに話してくれたっけ。
その楽しかった生活も、23歳で家柄と見かの良さだけで父親と結婚しいたことにより、地獄へと転落してしまった。
アル中のオヤジ、素行の悪さのため中学校から寄宿舎に入れられたと聞いた。
そんなオヤジだから、私が生まれた後も親父の親戚からは相手にもされなかった。

でも内職に明け暮れる底辺的な生活の中にも、自分のやりたいことを見つけ楽観的に暮らして行った、家事全般手抜きで通した母の血は私にしっかり引き継がれていると思います。

この10年はまるっきり周りの人達に支えられて生きてきた母。
情けのない言葉に聞こえるかもしれないけど、潮時だったと思います。
本当に良い時に亡くなりました。
苦しみもせず、認知も自分を忘れるほどに悪くもなるまえに逝ってしまいました。

1ヶ月の看病を果たした私も悔いはありません。
自分の好きなことをやり通した母も悔いはなかったと思います。
死に際はレイちゃんと私に看取られ(私はちょっと病室を離れましたが)静かに逝きました。

葬式は私の帰国に合わせ、1週間で“通夜から納骨まで”という超特急でおこなわれました。
病院から自宅に母を連れて来て、そのまま、通夜、葬式、告別式を全て母の大好きだった家で挙げました。
式には家族葬であったにも関わらず、五十人ほどの人が参列してくれました。
通夜の席で酔っ払った私を、棺から見ていた母の真っ赤に紅をした口元は、翌朝微笑んでいました。

この2年ほど、“お前がいる間に葬式をあげてほしい”と言い続けたあなたの遺言は守ったよ。
これから掃除をして家を閉め、今晩は千歳に泊まり、明日朝早く、成田、ダラス経由でジュンちゃんの待つ我家に帰ります。

ハブグレジュンタのマミー。



#933:一つの良き人生が終わりかけています。

2017-11-01 12:54:29 | アメリカ便り
この2日ほど呼吸が15秒ほど周期的に止まっています。
呼吸が再開する時には決まって、苦しそうに声を上げてもがきます。
1分間がそのくりかえし。
15秒間の静寂な呼吸停止、そして45秒間のもがきを伴った呼吸。
昨日、主治医と相談して鎮静剤を始めてもらうことにしました。
この薬を始めると1週間以内に息をひきとるそうです。
先程、看護婦さんが来てその薬を始めました。
1週間も持たないとメールが来て、帰って来てもう1ヶ月が経ちました。
頑張ってます、私も母も。
大好きな娘と1ヶ月過ごすことができて母も思い残すことはない、と確信しています。
病院ではなくて、家で過ごすことができたら、なお良かったんですが。

この10年あまり、、南は沖縄(3回、石垣島もいきました)、東は熊の出る知床。
沖縄ではスノーケルにも挑戦(連れて行ってくれた人が、“多分今までの最高年齢だ”と言ってました“)
震災1年後の松島にも行って来たし、中尊寺のあの坂を車椅子で登ったし。
もちろん私が押したのですが。
二条城の砂利道も車椅子で回ったし。

もう思い残すことはないでしょう。
いや、あるかも。
まだ遊び足りないと。
私の体が持たないです。


良い時期でしょう。
半分アル中的親父(58歳ぐらいまで)と暮らしながらも自分の好きなことを常にやっていた母。
家事全般最大限の手抜きをした母。
ヤクルトおばさん、銀行の掃除婦、縫い子、魚獲り網の修繕などなど、数々の内職をしていたけど、時間ができれば常に外でボランティアー活動に専念していた母。
子供、孫には手抜きを通した母。
レイちゃん、娘に連れられてアメリカはもちろん、ヨーロッパ、ペルーまで行った母。

自他共に認める良き人生でした。
まもなく、あの世で飲んだくれの色男(親父のこと)と一緒の暮らしが始まるでしょうね。
喧嘩をしながら。

ハブグレジュンタのマミー