退職女のアメリカ便り

オーストラリアンシェパード、ジュンタのマミーのアメリカ、セントルイス生活

#936: 今、考えると。

2017-11-16 04:45:37 | アメリカ便り
アメリカ時間火曜日3時半、無事ジュンちゃんが待つ我家に着きました。
飛行機は成田からもダラスからも満杯でした。
昨日は1ヵ月半お風呂に入れてもらえなかったジュンちゃんをお風呂に入れ、毛をちょっとトリミング。
娘と1時間、レイちゃんと1時間電話で話した後、ほぼ空状態だった冷蔵庫のためスーパーに買い物。
後はソファーでぐうたら。
またいつもの平和な生活に戻った感じです。

今、木曜日朝4時5分。
3時までがんばってベッドに入っていたけど寝れない。
しばらくはこのように寝れない状態が続くでしょう。
後ろではすっかりきれいになったジュンちゃんが、すやすやと寝ています。

母を送り出し、今考えると我家は本当に家族として機能していなかった家族だったと思います。
アル中の親父は飲んでいないときでもまともな会話ができる人ではなかった。
父から学んだことはただひとつだけ。
“人を訪ねる時は手ぶらで行くな”、ということだけ。
これが後になって、私が戦中戦後の担ぎや的状態で太平洋を横断する理由となったと思う。

母は母で私が小さい時は私を見栄を張る材料に使った節がある。
たとえば、毎日の生活にも事欠く中、4歳ぐらいの私に金のかかる日本舞踊を習わせたり。
小学校3年生ぐらいの時、学校から帰ると、日鋼の払い下げだった床が抜けるようなぼろ警察官舎にデーンとアップライトのピアノがおいてあったり。
かといって一緒に練習に参加したりなんてことはなかった。
相変わらず、内職の手が空くと他人の子のため、町内のためにボランティアーに走る。
与えるだけで、後は発表会なんかで着飾って親として出席するぐらい。
つまり行事の機会を作り、子供を見せびらかす道具に使っていた節がある。
こう言うと、”なんて、贅沢な子供なんだ”と思われる方もいらっしゃるかとも思いますが、私は日本舞踊もピアノも要らないからごく平均的家庭に近い生活がしたかっただけだったと思います。
毎日とはいわないけど、せめて4,5日に1回ぐらい掃除がなされた家とか、少しは工夫がされた食事とか、1年に1回ぐらいの家族旅行とか。
母が亡くなって間もないのでこういうのもどうかと思いますが、やはり私は母みたいな親にはなりたくはない、というのが正直な気持ちです。

例ちゃんが言ってましたが、“よりさん(私の母)は、クンちゃん(わたしのこと)の自慢ばかりしていた。それが終わったら今度は孫の自慢ばかりしていた”と。

私の母の子供に対する愛情というものは“自慢する”ことだったのかしら????

終わりになりましたが、今回の母の死に対して多くの方から励まし、お悔やみの言葉をいただき、ありがとうございました。
こうやってブログをはじめたおかげで、見ず知らずの方たちから言葉をいただき、感謝はもちろんのこと、同じ日本人であるということにうれしさを覚えました。
コメントをくださった一人ひとりに返事を書くのが礼儀と思いますが、今回は失礼と思いますがこういう形で皆様にお礼を申したいと思います。
本当にありがとうございました。

次回からは今まで道理のブログに戻りたいと思います。

ハブグレジュンタのマミー