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福岡県鞍手郡鞍手町古門。熊井温泉のあるところです。地図は西暦3世紀ごろの地図で、クリックしてもらえば現在の地図に変わります。青の線は神功皇后が自分の軍艦から降りて掛津(かけず)を通り、古門を通り自分の在所神崎町に行った経路を描いています。神崎町の近くには大きな神崎神社があります。 神功皇后伝説 in 福岡福岡県には神功皇后にまつわる話がとても多い。私のふるさとの家すなわち熊井温泉から700メートルくらいの所に「梶屋ヶ崎」という地名があって神宮皇后専用の軍艦の梶を掛けていたと言われている。本来なら舵という漢字だろうが万葉集には梶という言葉が出てくる。梶掛けと言う言葉もある。昔は梶は木で作られていたので、軍艦が長期に停留する場合は、当時の精密機器の大事な梶は腐らないように船から外され、手入れされ何かに掛けられていたのではないかと考える。なぜ私が梶と掛けると言う言葉にこだわるかと言うと、この梶屋ヶ崎のある町全体は掛津(かけず)と言われていて、あたりが海だった頃は比較的深い海に突き出す半島のようになっていたのである。すなわち沢山の梶が掛けられた掛津と呼ばれていた半島には実に多くの軍艦が停留していたのではないかと考えている。 一方、熊井温泉のところ古門も「島内(しまうち)」と今でも呼ばれている(海が深い)。その南側は浪打(波内)とも呼ばれて、それより南は多くの貝塚地帯で遠浅になっている(海が浅い)。これに対して島内から東北側、すなわち梶屋ヶ崎側は深い海になり遠賀川河口や洞海湾出口(昔は)につながっている。私が考えるに、ここ掛津半島から神功皇后が三韓征伐(?)や熊襲征伐に旅立った可能性が極めて高いと思うのである。古門の北の虫生津から上陸したと言う説もあるが、虫と言うのは蟹のことで、渡り蟹が沢山生息していたと言うことであり、渡り蟹の生息水深は浅いのでここに軍艦が留められるはずはないと考える。また神功皇后在所からも遠い。
地図の神功道のルート、まさに私が子供の頃にいろんな方々に教えられたとおりです。 ただ私が教えられた話では、神功皇后は虫生津邑の宝ヶ浦から上陸したと聞いております。高田神社の少し南です。宝ヶ浦は島内よりも標高が低いです。 また、梶屋ヶ崎は、神功皇后の頃には使えなくなっていたとも聞き及んでおります。
掛津の名は、和邇が船の舵を掛けたからと聞きました。半島の名は立花で、掛津は立花半島の東端の和邇ヶ崎を回り込んだ南の浦のことかと存じます。
浪内の天満宮は、古月中学校の北東の竹藪の中に廃墟がありましたが、今は土盛されて、運動場の地下です。
虫生津から上陸するには、神崎までの道のりが遠いかと思います。掛津から入り、昔の古月駅の黒橋のルートが考えやすいのではないかと思います。熊井温泉の北側の田んぼは段々になって、昔は梶ヶ崎辺りまでは深い入り江であったと思われます。
ところで古月というのはハンドルネームですよね。ブログなかなか立派ですね。