統合医療日記

ここでの統合医療とは単に西洋医学と東洋医学の統合ではなく、病気を肉体と精神と社会及び自然環境の4視点から見ていきます。

神功皇后伝説その②神崎町と神崎神社

2015-08-16 23:32:36 | 語句の説明



お盆になり子供たちもふるさとに帰り、墓掃除と墓参り、家の祖先は浄土真宗と内村鑑三はのキリスタン。熊井家は秀吉の九州攻めにあい滅ぼされたキリスタン大名末裔。しかし祖父母は農業の関係もあって、「神を愛し人を愛し土を愛する」という内村鑑三の思想に感化されキリスト教になっています。


しかし私はどちらかと言うと今は神道に興味があります。何故かというと故郷鞍手が古代日本の伝説に満ち満ちているからです。この写真は古物神社の入り口にある猿田彦の看板石。猿田彦は天照大神の降臨に際してニニギノミコトを道案内した神様です。古物神社の祭神は天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神ですが、猿田彦の名前が至る所にあります。猿田彦は道案内の神様ですから全国に有るでしょうが、身体が大きくて天狗のように鼻が高く赤顔の猿のような様相だったということです。十氏族の末裔ではという想像はやや飛躍か?!
 また鞍手から3号線の赤間に出る山道の名が猿田峠といい古物神社の上の山を越えたところにあります。この古物神社はここ熊井温泉から500メートルくらいの近いところに有りますので、ちいさい頃からいつもここに行って、祈ったり相撲をしたりしていました。


1キロ先の神崎神社いつも古物神社行っていましたが、すぐ近くに神崎神社という神功皇后を祭っている神社があるのを知らず、65年目にして始めて訪れました。神崎町が神功皇后に関連した町であることは知っていましたが、ここもあらためて訪れました。と言ってもここは2回目ですが。いつも隣村なのによそ者が来た!という感じで町民に見られます。それほどここを訪れる歴史家もいませんし、町民も自分達の町に神宮皇后がいたという自覚はないようです。











まずは去年神崎町を訪れたときの紹介です。特に地元の人がお参りしている様子はありませんでしたが、比較的綺麗にしてありました。タイトルは皇母地蔵菩薩と書いてありました。反対読みなのでかなり古くからあったのでしょうが皇母が応神天皇の母、神功皇后であることは間違いありません。この時も神崎神社に行こうとしたのですが、結局分からず引き返したました。今年は地図を確認して神社の裏口から行くことにし、簡単に行くことができました。。














大体これが裏から入ったコースですが、神社の周りには大きな泉が二つもあります。中は鬱蒼としており少し不気味です。ふくろうが鳴いたときはびっくりしました。昔熊井農園でもふくろうやキツツキがいましたが、開墾していなくなりました。とにかく驚いたことは「広い!大きい!」に尽きます。古物神社よりはるか何倍も大きい。杉が茂っているので大きくは見えませんが、管理されていればとても大きいと思います。大昔は大神社であったに違いありません。まさに神功皇后を彷彿とさせます。しかし今では管理するものがいないらしく、古物神社の宮司が時々来るようです。

石を祭るどんな宗教も祭神というのがあります。キリスト教であればイエスかマリア。仏教であれば釈迦か観音様等々です。神道は色々ですが、古神道では太陽や月もしくは大木や石などの自然崇拝です。神崎神社も神功皇后、仲哀天皇、応神天皇等々書かれていました。しかし、周りに4つほどの祠がありましたが、みな石を祭っていました。あたりには無造作に古い石がたくさんありました。











不思議な文字or絵。?誰か読める人がいたら内容を教えてください


木月、上木月そして古月古神道ではほとんど自然崇拝であったのではないでしょうか。太陽と月と星と言えば占星術を思い残しますが、昔この神崎村の北に木月と上(神?)木月村があり、西に私達の古月村があるのです。月は陰陽で言えば陰を表し女性もしくは母をあらわします。太陽は文字通り陽で男性です。これから考えてもここ鞍手町の文明はきわめて古く、神功皇后がいたのはほぼ間違いありません。特に軍事地点の要所として神功皇后がいたのです。



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