地獄は一定 「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」 「歎異抄」の第二章に示されている言葉です。 私たちは生まれてから今日に至るまで、数々の悪行をしてきました。 「そんなことはない私は真面目に生きて来た」 そう言う人もいるでしょう。でも煩悩を持つ私たちは、多かれ少なかれ嘘や悪意、殺生を繰り返してきたことには変わりありません。
そう本来は人間誰もが地獄行きなのです。冒頭の文章を訳すと 「どのような修行も心からは出来ないような浅はかな私ですから、どのみち地獄こそが私の行き着く所でしょう」 となりますが、どんなに厳しい仏道修行に励んでも、決して煩悩は消えることはありません。
鎌倉時代、このことに悩んだ弟子たちが親鸞聖人を訪ね、本当に往生できるのかと不安を打ち明けると 「自分は法然聖人から教えられたままに念仏するだけである。たとえ法然聖人にだまされて、
念仏して地獄に落ちたとしても、決して後悔することはない」 と述べたそうです。このような大胆な言い回しをするところに、親鸞聖人の念仏の教えへの自身があるように思われます。
私たちが根本聖典とする浄土三部経は、お釈迦様が最も伝えたかったお経の一つだと言われています。
その教えを師、法然聖人より授かり、ただひたすら念仏の教えを信じるだけだと、
絶対の自信を持って親鸞聖人は布教一筋の人生を送られました。その有り難さをしみじみ感じながらお念仏申したいものです。