先週末、妹家族と先日の黒い仏像をお浄めする為宮崎の美郷町まで出かけた。久々の旅であるのでもう気分はルンルン。
しかし、今回は妹の旦那さんの病気や姪の拾った悪霊の事もあり、気を引き締めなければならない。
土曜の朝、私達は神戸から夜行バスで到着した姪夫婦と合流し、宮崎のお伊勢さんと呼ばれる日向の大御神社にご挨拶して行くことにした。高速が大分伸びていて以前よりもずっと速く着いた。
その日は数日前の大雨とうって変わり梅雨の晴れ間の上天気。
海岸の柱状岩がとても珍しく、やはり太平洋の波は荒々しく、今回も遠くにサーフィンをしているのが見える。
ご挨拶後、私達はその辺の岩場からいつもの塩、水、お神酒を撒き、巫女鈴を振りながらお清めをし、その後手足を浸けて手をひらひらと左右に動かし、海のエネルギーを頂いいた。この事が後で大きな意味があった事にその時は分からなかった。
そして、後日遠隔でエネルギーをノワタリさんに入れてもらうため、体調の悪い母と魔と除けの為、姪と肌守りを買った。
そして隣接する鵜戸神社へお参りした。右の写真は上り龍の姿に見えると言われると言われる洞窟。
その後耳川沿いに走り、仏像のある南郷町へ向かった。
神門神社前 横に見えるのは百済の館
建物の中にあるので仏像に直接お浄め出来ないので、先に百済の王が祀られていると言う神社にお参りし、手分けして清めた。この神社も712年に創建されたと言う。
入場料を払い門をくぐると、正倉院と同じ建物があった。
写真ではわかりにくいが下の柱でも2メートルの高さがあり樹齢400年以上経ったヒノキで、奈良の正倉院と素材も寸分の違いもなく作られている。
ガイドのおじさんが一つ一つ丁寧に説明され、中に中々入ることが出来ず、私達は早く仏像に会いたかった。
やっと案内され中に入ると涼しくヒノキの匂いが漂っていた。
建物は3つに分かれていてまず宝物の収められている右側から。入った途端正面の壁天井までびっしりと鉾先が敷き詰めてあり圧倒された。戦後先の神社の補修をする時、屋根裏から出て来たそうである。
その他たくさんの銅鏡や万葉集の歌人の歌と板絵、大きな甕、百済王の持ち物である仏像と馬齢と馬鉾、その頃の百済の布地に書き留められた物があったが、残念ながら城の数が違うと言われ、本物とは認められていないそうだ。
でも、中丸さんの本で城の取りっこをしているのでずれが出るのではと思うが…。
本物は写すわけにいかないので展示ケースの上に在ったポスターを隠れて写したがぶれてお顔が分からない。
誰もその仏像の事は先日見学した時在った事も曖昧で、姪の婿さんが夜中にうなされるくらいなのでキビシイ顔をされた明王様かと思いきや20センチくらいの小さなもので穏やかなお顔をされていた。他に仏像は全くないので間違いないが、1000年以上経っていても持ち主の思いがあるのだろう。
その後、左の部屋で百済王族伝説の証である師走祭のビデオを見せてもらった。
詳しくは神門神社 西の正倉院http://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/mikadojinjya/mikadojinjya.htm
を参照してください。
百済滅亡後、逃れて来た王族も壬申の乱の時、敵味方に分かれて戦い、大友皇子に付いた百済王と二人の王子は2隻の船で逃れたが、着いたところは日向の国でも別ゝの浜に漂着し、この地へ逃れた王は流れ矢に当たり亡くなったと言う。
90キロ離れた木城町にたどり着いた第一王子も奮戦むなしく討死し、そこの比木神社に祀られ、旧暦の師走にご神体を担いで歩き神門神社で親子の対面をするという神事が師走祭だと言う。残された百済の人々がはじめられたのだろうか?でも昔の人々は人の魂、霊に対してとても真摯な姿で向き合っていると感じた。
師走祭りは木城町と美郷町南郷区(旧南郷村)にまたがって1000年以上も前から脈々と引き継がれ、異国の地で亡くなった百済王一族を慰める祭りです。
昔話風百済王伝説はこちらをご覧ください。
旧歴の正月の前(西暦では1月最後の週末)に、比木神社に祀られている百済の福智王の御神体が神門神社に祀られている父の帝嘉王に対面する儀式です。
木城町から神門まで18名の神職などが御神体を棒の先に担いだ(これは御輿の始まりの形とも言われています。)御神幸行列により行われ、南郷区神門で対面、歓迎の様子を表しています。(グルネット宮崎よりhttp://www.gurunet-miyazaki.com/topics/maturi/siwasumaturi/siwasumaturi.htm)
そのおり漂着した浜で海に入り、禊をすると言うのを聞いた時、偶然ながら私達が海に手足を入れたのもこのためだったのだと思った。
妹たちは
「前回、来た時は意識していなかったけど、今度はよくわかったわ。」と言い、中丸薫さんの本を読み直していたので当時の状況がよく理解できた。壬申の乱は国内だけでなく半島を含め、下手をすると唐に飲み込まれたかもしれない状況だったみたいだ。
お役目が済んだ私達はホットして下にある百済館に行くのも忘れ、近くの山霧という温泉に駆け込んだ。
土曜と言うのに温泉が豊富な宮崎だからだろうか客はまばらで、ゆっくり手足を伸ばした。かけ流しのお湯でとてもツルツルとして良い温泉だった。
ノワタリさんに報告すると、姪の婿さんに
「あなたが立役者ですよ。ご苦労さまでした。」と言われ、ノワタリさんは先の将門さんや比叡山焼き討ちで亡くなられた御魂を7月上旬まで21日間供養されているが、
「お寺さんだから、十分に供養されていると思うんだけど、子供たちがね、地面の中からムクムクと出てくるのよ。そしてジャンダルクまで現れてね。またこれも供養ね。」と言われた。ジャンヌダルクは彼女の前世の一つであれもこれも一度に出てきて大忙しである。いったい何だろう?
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