ホテルのレストランの飾り
私達は朝8時過ぎにホテルを出発し、天安門広場にある毛主席記念堂Ⅱ地下鉄で向かった。重く暗い空、松、ヒマラヤ杉などを見かけたが、大気汚染で木が弱っているのか、汚れなのか全体に紗がかかったような色で、年がら年中みかんの青々とした緑に囲まれている私には、生気を感じなかった。
ホテルが金融街に在る為、近くにも衛兵が立っていた。昨晩の爆竹や花火の残骸は大きなものだけ片付けられ、歩道の隅の植え込みの中に掃きこまれていた。この清掃作業だけ、おじいさんが作業していた。後は何処でも働いているのは20歳前後の若い人が目に付いた。
昨日地下鉄駅の前の歩道橋の上に小さな子供を連れた女の物乞いがいた。毛布の中から小さく黒ずんだ手が見えていた。まだ、人民元を使っていなかったので100元しかない。どうしようかと迷ったが、見ているのもつらく、目をそらして足早に通り過ぎた。しかし、私が昨日通った駅への道は遠回りで、ハヤシさんが近くの入り口を見つけ、その物乞いの親子には会う事はなかった。帰国してからも、なぜ出さなかったのか引っかかった。不思議な国である共産主義なのに乞食がいる。
地下鉄の入場口には必ず、新型インフルエンザを気にして、消毒機としてあったが持ち物を空港にある機内持ち込みの手荷物を検査するようなベルトコンベアに載せ、検査なのか消毒なのか解らないが、通さなければならなかった。うっかり通り過ぎようとすると、きつい声で係員の20歳前後の3,4人の男女に注意された。
天安門広場に入ろうとすると、又、手荷物検査である。テントの中に入り、ベルトコンベアにバッグを載せた。出てきたので取ろうとすると、今度は開けろと言う。「白い粉も武器も火薬ももってないわい。」と言いたかったが、言葉が解らない。むっとしながら、「ほいしゃ!」と勢いよく両手で真ん中を広げ、底まで見えるように大きく開けた。中に手を入れ、一つ一つ、調べるかと思いきや、気の抜けた声で「バイバイ」と言う。後ろにいた二人は何も言われなかった。後で自分の姿に気付いた。ニット帽を深く被り、めがねとマスク、不審に思われたらしい。
広場は風が強く吹きさらしで寒く、不織布マスクはすぐに息が水になりベタベタになった。衛兵達が行進している姿も見られた。日中戦争の慰霊碑もあり、そこに居るのが場違いで複雑な思いがしたので、「何で私がここに来ないといけないのよ~」とぼやくと、ノワタリさんは「(日中戦争の事を)知る義務がある。」と言うメッセージを受け取り、私に言った。
毛主席記念堂
意気込んで行った毛主席の遺体が水晶で作られた棺に安置されていると言う毛主席記念堂はお正月で15日まで休館、衛兵が建物の前と柵の前にも衛兵が居た。
仕方なく、柵の前でノワタリさんはテレパシーで交信し、この場に立てた事のお礼を言い、不幸な日中戦争を詫び、平和を祈った。
天安門の内側
紫禁城
その後、天安門の中に入り紫禁城に向かった。天安門のお堀は真っ白に凍っていた。黒や赤だけでなく、ブルー、グリン、ピンク、パープル、イエローとカラフルな色のダウンコートが目に付いた。昨日のガイドさんが言ったように今日は地元の北京っ子でなく地方からの見物客が多いらしい。若い女の子も化粧をした人に出会わず、ほとんどすっぴんの人ばかりだった。ラストエンペラーの映画を想像しながら歩いたが、紫禁城も休み、中山公園も休み、日本だって正月は休んでいる所が多いから当たり前かと諦めた。毛沢東さんもえらい日に呼んでくれたものだ。残念!
翌日行く予定だった天壇公園に行く事にした。ここも開いていれば良いが...と思った。
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