遺伝屋ブログ

酒とカメラとアウトドアの好きな大学研究者です。遺伝学で飯食ってます(最近ちょっと生化学教えてます)。

明治天皇(二)

2012-01-28 22:31:27 | 読書
ドナルド・キーンさんの著作です。第二巻は東京行幸から西南戦争、琉球問題、グラント将軍来日、自由民権運動の時代、明治天皇の二十代。
廃藩置県は今の橋下大阪市長の唱える『大阪都構想』なんかがあまりにもちょろすぎて、「こんなのが改革?何言ってんの??」とふしぎになるくらいスケールの違う大変革でした。当たり前です。ついこの前まで特権階級だった200万人もの武士が一機に永久失業するかもしれない変革です。藩って270以上あったんスよ。なんで、道州制ごときの小さな変更が今は出来ないんでしょう。もちろん武士階級の多くは官公庁や地方行政で新たに雇用されて日本を支えたのは事実だが、変化に適応できなくて落ちぶれる者も多かった。そりゃ、内戦も暗殺も起こるっての。西南戦争での政府軍の勝利と人望を集めていた西郷の自刃が、決定的に不平士族の活動を封じてしまいました。それだけこの時代の西郷はカリスマ的な存在だったのでしょう。この戦争の後、近衛兵にも九州へ出兵したものがおり手足を失う負傷をした兵が出たのですが、明治天皇はその患部に手をやり「痛みはありますか」と尋ねて、近従を感涙させたそうな。当時の皇帝がそのような行為にでることは世界でもありえないことだったそうです。
この時期に早くも日本の抱える領土問題の種が発芽したのも、この本を読んで勉強になりました。ロシアとの樺太問題と清国との琉球問題です。結果として樺太は完全にロシアに譲り、その代わりに千島18島を得ました。国境はカムカッチャッカ半島の手前まであったんスよ。実は、この頃明治天皇の関心は普仏戦争にあって、政府から上がってくる戦況報告をwktkしながら待ち、侍臣を質問攻めしていおられたそうな。その後、ドイツ軍艦が横浜に寄港した時に艦長から普仏戦争での写真を献上され、「ご説明いたしましょうか」との申し入れを直ちに許して戦略はもとより戦後の結末にいたるまでを興味深くお聴きになられた。この時、天皇20歳。即位して5年目。貴人でもない一外国人をこういう用件で直接御前に呼びつけて戦争の話しをさせたのは日本史上前例がない。先の孝明天皇は京都の御所におられて神戸に異人の船が現れるだけでも大騒ぎだったのである。若いってすごい。
もうひとつの領土問題は「琉球」。説明しようとすると鎌倉時代まで遡らないといかんのだけど、要するに琉球は日本に支配されながらも中国には自分で勝手に朝貢して属国として認めてもらい、二重外交しながら巧いことやってきたわけですな。昔はそれで良かったんだろうけど、近代国家でそれはない。そこんとこのセンスが遅れていた。
問題の伏線は台湾で起こりました。台湾の少数民族に琉球の漁民が殺された。日本政府としては台湾が清国領であることは認めるので、清国に処罰してもらいたい。だけど、台湾のそういうとこまで清国の支配は行き届いてない。んなわけで、日本が台湾に上陸して処罰していいかと聞くと、それはあかんと清国は答える。そこでいろいろと外交交渉があったんだけど、その過程で清国と琉球は近代国家間の国際的な駆け引きに疎かったみたいです。その件の決着後、日本は廃藩置県の方針もあって琉球を沖縄県とすることにした。琉球は清国に対する朝貢を止め清国皇帝から冊封も受けない、そして、清国の年号「光緒」ではなく日本の年号「明治」を使うこととなった。ついでに琉球王一族は東京に上ることを命ぜられた。清国はもちろん怒り、外交交渉になった。清国側のポイントはもちろん、琉球国は独立国で日本の命令は認められないとのこと。しかし、前にあった台湾での事件での日清間の国際交渉が効いた。この交渉の時、琉球の漁民を日本人として扱ったのである。だ・か・ら、琉球は日本領と認めていたことになる。後から怒鳴ろうが喚こうが、これが国際交渉。ちなみに太平洋戦争後、中華人民共和国は沖縄諸島までを自国領としようとした気配があります。中国の歴史をひも解くといくらでも属国としての琉球国が出てくるのですから。でも、戦後沖縄を米国が占拠したので引いたらしい。彼らの野心は尖閣諸島で止まったりしませんよ。
先の大統領、グラント将軍(50ドル札の人ね)が大統領を退任して世界旅行に出て日本を訪れた。その前に清国を訪問しており、日本に琉球問題の件で口添えすることを依頼されていた。ところが、この人のいいアメリカ人は日本での歓待もあって、すっかり日本びいきになったらしい。明治天皇もすっかり外国人と対応することに慣れて、この陽気なアメリカンと懇意になったそうな。その頃、江戸城は火事で焼失していて、質素な仮御所に住んでいたこともすごく感動させたらしい。天皇は日本各地を行幸され民の貧しさもかいま見ており、無駄遣いを許さなかったらしい。当時の明治政府は貧乏で、外債を発行するか(つまり外国に借金するか)政府内で意見が割れた時に判断にゆだねられたのが、明治天皇の最初の政治判断だったそうです。その頃外債に関しては、グラントに欧州の国々につけ入れられるから簡単に発行してはいけないとアドバイスを受けていて、借金をせずに質素倹約をする断を下されました。今の政府はわざわざ東京の一等地に役人の宿舎を作りたがるんだからエライ違いですな。
琉球問題については、通訳だけつけて直接グラントとさしで交渉に及んでいる。国際問題の交渉まで若い天皇が出てきて役割を果たしたのである。この時の記録は通訳の簡単なメモ程度のしかないそうですが、琉球に関しては日本の主張を通したそうです。つい数年前まで京都の御所で和漢の歴史と和歌の勉強しかしてなかった若者が歴戦の軍人で元アメリカ大統領相手にである。明治政府自体は志があって血で血を洗う激動の世を生き残り幕府を倒した者達が作ったのですが、明治天皇は皇位継承すべく生まれついた人がなったのであって、選ばれたわけでもなければ、立候補したわけでもない。歴史が彼をこのタイミングで皇位につけたのだ。

長く書きすぎて疲れたっす。まあ、出来たばっかりの明治政府と即位したばかりの若い天皇のお話を読むと、小さなことも決められず実行に移せない現代の日本の抱える問題の根っこがこの頃からあったのだなぁと感慨が深いのでした。当時は果敢に決断し国造りをしていたのに、一度豊かになると出来なくなるもんですな。

本日のお酒:KIRIN 一番搾り とれたてホップ + SAPPORO SILK YEBISU
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