いま、脳科学が凄いんですよ。
2004年のサブリミナル=インプレッションのときから黒川伊保子氏のファンだったんですが、
彼女の今回の新著「ヒトは7年で脱皮するー近未来を予測する脳科学ー(朝日新書)」にはまったく瞠目させられてしまった。
彼女をはじめとする感性リサーチの面々は、企業の要請によって「時代」を読むんです。
「時代」はいま何を欲しているのか?
いま「時代」と寝るためには、どのような商品をどのようなイメージで売ればいいのか?
ーー時代は私を待っていた。私はただ生まれさえすればよかった…。
と豪語した 20 世紀初頭のココ・シャネルのように、企業戦略において「時代の風を読む」のは必需です。
黒川氏は、この風を読むために、脳科学の最新データを使役します。
そのために使われるのが、脳にとっての「7」ーー7日、7週間、7年というこの堅固な単位。
「認知心理学」という領域を拓いた米国の心理学者ジョージ・ミラーは、
日常生活において人間が短期記憶できる記憶数の限界量は「7」である、と明言しました。
かつての電電公社の調査においても、7桁の電話番号なら90%の人間が記憶可能であったのに対し、
対象の番号が8桁になった途端に、それを記憶できるひとの割合が10%を割ったというのは有名な話です。
かの聖書においても「7」という数字は目白押しなんです。
ーーあなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められたる意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。(新約聖書「ヨハネの黙示録」第1章20節)
キリスト教とは系譜の異なる仏教圏でも「7」の単位は、現在まで生きているーー初七日、二七日(になのか)、そして、四十九日…。
ソビエト連邦が因習に捕われない5日制の暦を普及させようと初期のころ勤めたこともありましたが、5日制はやっぱり根づかなかった。
この「7」の単位へのこだわりを、黒川氏は偶然の一致などではなく、人間の脳にあらかじめ刻まれた生理的時間としての単位である、と見ました。
脳科学の最前線に携わっているひとならではの、これは、ちょっと凄い視点です。
ここで彼女がそう断じた理由を列挙するとそれだけでこの記事は容量オーバーになっちゃうんで、その事態は避けさせていただきたいんですが、
彼女はそこから個々の脳じゃなくて、人類全体の脳の生理的時間の周期というものがあるんじゃないか、と考えた。
いわば、世の流行、トレンドといったものに、この人類脳の基本周期が大きく関与しているんじゃないか、という仮説を立てたわけ。
これ、壮大な仮説です。
むろん、証明なんてできっこないーーしかしねえ、この仮説はひどく面白い。
「世の流行は28(7×4)年で正反対になり、56(7×8)年で一巡する!!」
彼女の著作を読むやいなや僕は彼女のこの仮説に夢中になり、さっそくそれの応用型の「感性トレンドチャート」を作成してみた。
複雑期の初頭1941年にはじまり、1971年からの簡潔期を経て、2027年の複雑期の終焉までの計84年分のチャートです。
世相と時代の気分といったものがこれしきの略式チャートで表せるなんてよもや思っちゃいないけど、
僕の狙いはそれら科学者目線とはまったくべつのアングルにあったのです。
ええ、そうです、もちろんリチャードコシミズですとも--!!(笑)
僕は、彼の生誕した時代、彼がデビューした時代、彼が活動し凋落していくまでのあいだの世相といったものが見たかったんです。
リチャードコシミズはどのような時代に生まれ、どのような青春時代を送り、どのような経緯で現在のような陰謀論者になったのか?
2006年のワールドフォーラムでのデビューから2013年の「小説311(自費出版)」までの7年間は、
感性トレンドチャートでは複雑系の時代(28年)周期の braek期に相当します。
この期間にリチャードコシミズは biglobe の RKブログで2億超えの視聴を取り、陰謀論者としての絶頂を迎えた。
そう、リチャードコシミズは、たしかに「時代の風に乗った」のです。
その過去の軌跡を、この即席の「感性トレンドチャート」で少しばかり追ってみたいと思います。
✖ ✖ ✖ ✖
リチャードコシミズ(輿水正)の生誕は、1955年の8月9日です。
昭和でいうと30年ーー戦後10年、日本が高度経済成長の坂をそろそろ駆けあがりはじめるあたりです。
復興の証明である夢の東京オリンピックはまだ9年先のことだし、国民のGDPもまだまだ低く、空気にも依然「戦後」の気配が色濃く残っていた。
街頭TVでは、空手チョップを振りかざす力道山プロレスの全盛期です。
国民全体が白人レスラーを追いつめる力道山に自分たちの復興の夢を託して純朴に燃えていた熱い時代。
海の向こうのアメリカでは、ちょうどそのころ黒人たちのリズム・アンド・ブルーズである「ロックンロール」が台頭してきていました。
「ロックンロール」は当時2級市民とされていた黒人たちのいわゆる「レイスミュージック」であり、一般の白人層からは非常に下品な音楽と見做されていました。
音楽としての魅力、パワーなどは桁違いの可能性を秘めていたのですが、公民権法成立以前の米国にとって「ロックンロール」は新しすぎたのです。
ーー誰か、リトルリチャードみたいに歌える白人のハンサムボーイが出てきたら、天下を取れるんだけどなあ…。
というロイド・プライスの予感をそのまま肉体化したような超人エルヴィス・プレスリーが表れて、米国のヒットチャートを席巻したのは1956年のことでした。
エルヴィスは、複雑系の時代(複雑、曲線.多用、共感)の14年目の展開期ちょうどに表れた台風であり、エポックでした。
エルヴィスの巻き起こした時代の風は、この展開期の7年後、複雑系の終焉期(爛熟期〉開始の1964年にビートルズによって引き継がれます。
ビートルズの影響は、音楽のみならず、若者のファッション、長髪、反戦思想、生き方にまで及ぶ広範なものでした。
このようにエルヴィスに劣らぬ凄まじいエネルギーでもって世界中を席巻していったビートルズなのですが、
このビートルズ革命の裏面には、63年のケネディ暗殺と泥沼のベトナム戦争とがあったことを忘れてはいけない。
光と闇とがこのように並列して進んでいくのが、複雑期の特色です。
ビートルズ時代の中期には我が国では安保闘争をはじめとする学生運動がピークを迎え、
アメリカではヒッピー・ムーヴメント、フラワーチルドレン、反戦運動、ドラッグの蔓延などの大流行が社会の枠組を揺さぶりはじめます。
70年に起こったジミヘン、ジャニスのドラック死、空前の音楽祭であったウッドストックの開催などは、
1941年から1970年までつづいた複雑期全体のフィナーレと呼称してもいい、象徴的かつ総括的なエポックであったように思います。
しかし、このように壮大にファンタジックだった時代の風が、1971年以降ふいに変わるのです。
あたかも大衆脳のブレインサイクルのスイッチが急に切り替わりでもしたかのように。
71年にはじまった簡潔期初頭の黎明期には、アンチハッピーエンドのリアルで苦々しい「ニューシネマ」の台頭、
「イージーライダー」「俺たちに明日はない」「セルピコ」「スケアクロウ」ーー
我が国においても学生運動の負の部分の総決算ともいうべき、72年の赤軍派による「あさま山荘事件」などが立て続けに起こりましたが、
それらの事象は複雑期の最後の夕映えというか余波とも呼ぶべき種類のものでした。
複雑期特有の「夢想」はすでに終焉し、時代は簡潔期の特徴である「冷静なまなざし」を見せはじめていたのです。
我が国においてそれをいちばん体現していたのが、73年からの山口百恵の台頭でしょう。
73年にデヴューした横須賀の母子家庭出身のこの少女は、蔭りを帯びた冷徹なまなざしとピッチ低めの反抗的な歌声でもって、またたく間に時代のスターダムを駆けのぼっていきます。
実は、百恵デビューの前年の72年には、井上陽水の「傘がない」という歌が流行っていて、
その内容が非常にナイーヴというか、挫折の香りが濃く漂う、アメリカン・ニューシネマ的なものだったんですよ。
百恵の疾走のなかにも、陽水が歌ったこの「時代的な挫折感」といったものは木霊していた、と僕は思う。
80年、百恵引退。
それと同時に複雑期の最大のスターであったビートルズのリーダー、ジョン・レノンがNYで射殺されます。
複雑期はこの事象でもって完全に潰え、簡潔期が用意していた時代の真打ち、松田聖子へと時代のバトンは引き渡されます。
ここで突然私見をいうのもなんですが、僕はなにが嫌いって松田聖子ほど嫌いな女はないんです。
藤圭子、百恵などがまだ持っていた「ブルーズ(怨歌)」から完全に切れたところから、聖子ははじまっています。
聖子のビジネスのなかには、かつての陽水のような「挫折感」や百恵のような「ツッパリ感」は微塵もなかった。
そのような夾雑物は、あらかじめ排除され洗浄されていたんです。
松田聖子は従来の歌謡曲とは異質の完全無欠のポップスを引っさげて、したたかに登場しました。
「南の海の青い珊瑚礁」
「サンセットの見える丘」
「朝霧のベールに包まれた渚のバルコニー」
「水晶」「水と遊ぶ」「まぶたを擦る」「ぬいぐるみ抱きしめながら」「プリズム」「ベイビィ」「タッチ」「瞳閉じれば四次元の迷路」「まどろむ私」「ピュア・リップ」「わがまま」「夢なら続きを見せて」「ハンモック上で手紙を書く」「抱き寄せられて」「ミルキィスマイル」「追いかけてくれる」……
快楽原則に貫かれた、この無責任で幼児的な真言の羅列は、いわば彼女と時代とのアイデンティティーであり、商標でもありました。
この松田聖子の台頭を皮切りに日本の経済的繁栄はピークを迎え、時代はあのバブル期へと狂奔していきます。
挫折なんていって過去を振り返るひとは、もうどこにもいなかった。
人間の生々しい欲望と本能を是認する、この簡潔期特有の空気(ニューマ)が僕は嫌いでした。
いま思いかえしても、生き辛い時代だったという実感しかない。
91年、バブル崩壊とジュリアナ東京の開店。
そして、人間の欲望の是認がもたらした最終形態ともいうべき、95年のあのオウムの地下鉄サリン事件。
簡潔期の末尾の7年にも、やはり複雑期末期のビートルズやベトナム戦争に匹敵する事象が揃った、とーーこれはいうべきでしょう。
そして1999年、28年続いた簡潔期は役割を終え、時代はまたしても劇的な複雑期のサイクルに突入していきます。
この複雑期の口火を切ったのが、世界中の誰もが周知の、2001年のあの「911」です。
米国最先端のテクノロジーで世界中に配信されたこの「テロ」の光景は、驚くほどベトナム戦争の開戦状況と酷似していました。
ソビエト連邦崩壊後、当時の世界最強国家となっていた米国は、この「事件」をイスラム文化圏の過激派が行ったものと見做し、
以前からの国家目標であったイラク戦争ーーイラクのひとはこれを十字軍と呼んでいましたねーーを2003年に開戦します。
僕はこれ、ビジネスとしてなんとか成り立った、最後の戦争だったんじゃないか、と思っている。
恐らくは練りに練ったプランであり大謀略であったんでしょうけど、当時米国のトップにいたひとのセンスがいかんせん古かった。
そう、人間の欲望と本能をこうまでストレートに是認するやり口は、明らかに前時代の簡潔期の手法だったんですから。
前回の複雑期の事象を見ても分かるように、複雑期のサイクルの特色は、善悪の価値基準が相対化し、けじめがつきにくくなる点にあるのです。
発展、成長といったものが簡潔期の特徴であるなら、フラワーチルドレンに表象される内省が、複雑期の指標です。
このような時代の入り瀬において、米国は「砂漠の正義作戦」なるイケイケの官製キャッチコピーまで立ち上げた。
50年代のハリウッド制作の西部劇からそのまま持ち出してきたようなこのコピーが、切り変わった新時代にどのように野蛮に響いたか、どうかご想像ください。
アメリカは、もっと隠微に、別アングルからのアリバイも用意したうえで、つつましくやるべきだったのです。
僕以外でもあのNYの貿易センタービル崩壊の実況映像を見て、「わ。これ、トンキン湾じゃん!」と叫んだひとは恐らく相当数いたことと思います。
リチャードコシミズもそのうちのひとりでした…。
ただ、この当時の彼はまだ無名であり、何者でもなかった。
リチャードコシミズの5年間のクアランプール駐在時代のことは、よく分かっていません。
彼がどこの商社から派遣され、いつ帰国したのかもまったく分かっていない。
分かっているのは、彼が帰国後、ム〇〇〇〇〇〇、ア〇〇〇〇なる都内の企業で何年か派遣として勤めたという事実だけです。
1999年11月1日、両社から精神科の受診を勧められたリチャードコシミズは激昂して、警視庁捜査1課にメールを送ります。
自分に精神科の受診を勧めた両社の思惑は自分の口封じにあり、
彼等が自分の口封じをしなければならないのは、社内における保険金殺人の事実を自分に語られたくないためだーーとやったのです。
リチャードコシミズは社内の人間の実名と顔写真をネットの掲示板にあげることまでやった。
両社は警察にも相談して、この根拠のない誹謗の数々をなんとかしようとされたのだけど、当時のネットは法整備が整わない一種の無法地帯であり、
具体的に自社に向けられたリチャードコシミズの誹謗の数々を消去することはできませんでした。
つまりはいいたい放題のやり放題ーー彼はこの時点で夢のツールを手に入れたわけです。
さあ、ネットジャーナリスト、リチャードコシミズの誕生です。
僕が以前からリチャードコシミズに関して疑問に思っていたことのひとつに、「保険金殺人」への異様なこだわりというのがあります。
1999年の時点で彼がそれしか持ちネタがなかったというのは理解できる、
しかし、2年後の2001年には上記のように「911」が起こり、RKはもっと広範なネット大衆にアピールできる斬新なネタを入手できたのです。
実際、この「911は内部テロ説」はネットで話題になり、リチャードコシミズの名は徐々に知られていきます。
2006年、ワールドフォーラムの911演説で事実上のデヴュー。
2007年、自身の後援会「リチャードコシミズ独立党」の結成。
僕が独立党に関わったのは2010年の師走の池袋事務所での健康講演からでしたが、このころのRK講演は非常に内輪的で小規模なものでした。
ただ、リチャードコシミズがネットで集めてきた話題に魅かれて集まってきたひとは、
いまみたいな神経症気質のスレチ職人ばかりというようなのとはちがって、自分の言葉で語れるユニークなひとが多かったように記憶しています。
このころからRKに異を唱える「五金事件」だとかは既にあって、
小沢デモを推奨した小吹さんが工作員認定されて追い出されたりした小事件などもそれなりにありはしたのですが、
それはあくまで内輪間のゴシップ話題といったフレーム内での扱いであって、独立党の表看板はやはり「911」や「ユダ金」追及であったのです。
このころの独立党には、陰謀論好きの同好会という呼称がもっともふさわしかったように僕は思う。
ええ、非常に小さな、ささやかな集りだったんですよ。
それが複雑期のbraek期5年目の、2011年の311東北の震災で突如として変わります。
リチャードコシミズは東北の沿岸地に潰滅的な被害を巻き起こしたこの未曾有の災害を、3月11日夕の時点で「人工地震」だと断定しました。
より正確にいうなら、「311は、米国が日本経済の停滞を目的に仕掛けた、気象兵器による攻撃である」といった具合です。
これが当たった。
311直後に福島原発で放射能漏れが起こり、放射能パニックがネットを覆っていった事態も、この急性RKブームに拍車をかけた。
講演会後の懇親会開催のための飲食店が1軒じゃとても足りなくなり、
講演会の幹事が講演会後の懇親会会場を最低3軒用意してから講演が開催されるようになったのは、このころの出来事です。
リチャード講演動画の視聴はハネあがり、ブログ視聴も2億に達し、講演会場で並べたRK本は飛ぶように売れ、リチャードコシミズはまさに得意の絶頂でした。
僕は、この2006年から2013年にかけての7年間が、リチャードコシミズという陰謀論者の絶頂期だったのだ、と思っています。
リチャードコシミズの虚名は、この期間中に爆発し、頂点を極めたといってもいい。
しかるに世の流れというものは無常ですーー頂点を極めたひとを待っているのは、衰退と凋落の未来だけなんですから。
ま、頂点を極めたといっても、リチャードコシミズの器は所詮ネットのなかでのみ咲き誇れる花といった程度で、
リチャードコシミズの名が新聞紙上に乗ったことはなかったし、今後もそのようなことは決してないでしょう。
社会的に見てみるなら、彼なんてまさに泡沫ですーー歴史的事件、災害などに乗じて根拠不在の自家製デマを乱発し、
その「デマ商売」のあがりで喰い繋いでいる小さな男、というのが彼にいちばんふさわしい称号だと僕は思う。
さて、複雑期のbraek期に自身の全盛を経験したリチャードコシミズは、2013年以降の展開期にむけて新たなイベントを企画しました。
それが独立党が主催することになった、一連の「不正選挙裁判」でした。
これは基本行政訴訟であり、東京高裁の法廷が舞台になるという点で、極めて画期的なアイデアでした。
僕もずいぶん関わったけど、いちばん最初の裁判は傍聴希望者が百数十名の群れになって高裁ロビーに訪れて、
傍聴するために開廷前のかなり早い時間から高裁を訪れ、列に並んで傍聴券を獲得しなければならないくらいの賑わいを見せたものです。
北海道や九州、さらにはNYなどの遠隔地から、わざわざこの裁判の傍聴をやるためにやってきたひともずいぶんいた。
ただ、僕は、この一連の不正選挙裁判は、本質的にはRKブログの新読者獲得のためのショーだった、と思っている。
このリチャードさんの姦計は功を奏し、リチャードコシミズは相応の知名度と寄付金とを集めることができました。
「911」「311」「不正選挙裁判」ーーこの3柱が、独立党のアイデンティティーであり、最後の輝きでした。
2014年、絶頂期で女喰いに忙しかったリチャードコシミズを衰運が襲います。
産経新聞の東海・北陸版に掲載されたリチャード本の宣伝文に、アメリカのユダヤ団体サイモン・ウイーゼンタル・センターから、
これはユダヤ人差別であり、このような広告を乗せた貴紙の良識を疑う、といったクレームがついたのです。
産経新聞の熊坂隆光社長は、このような本の広告を乗せてしまった自社の不備と不徳について謝罪しました。
産経新聞を訴えよう、RK本はヘイト本などではないのだから、などいう意見も熱心な党員間から出たのですが、
リチャードコシミズはこの提案を黙殺しました。
2016年には、名古屋の元党員から名誉棄損の訴訟を起こされます。
口汚いヘイト発言をあざとく商売に結びつけていたツケが、ここにきて一気にまわってきた感じです。
視聴に結びつける新たなイベントを模索していたリチャードコシミズは、彼等に刃を向けること自体をイベントにすることを思いつきます。
ここに、一連の「工作員認定」がはじまりました。
過去にもこの種の五金事件のような騒動は何回かあったのですが、今回のようにそれをRKブログの前面に出したのははじめてでした。
承認欲求にまみれた神経症気質の党員たちがこれに飛びつき、口汚い誹謗中傷合戦がすべてを覆い、RKブログは惨憺たるありさまになっていきます。
同年、biglobe の richardkoshimizu's blog が規約違反により停止。
まぐまぐから発信していた有料メルマガも同時期に規約違反により停止の運びとなります。
2017年、不正選挙裁判をともに闘っていた犬丸勝子氏の死去に伴い、突如として彼女は「保険金殺人」で殺されたのだと主張。
せっかく幾つかの「売りネタ」が定着してきたというのに、RKはなぜだか1999当時の保険金シャウターに戻ってしまった。
しかも、その相手は、TVではじめて「不正選挙」という言葉を発言し、RK講演会で喋ってくれたこともある犬丸さんです。
かつて氏といくらかの交友があり、彼女のことが好きだった僕としては、この事態だけはどうにも見過ごせませんでした。
いくらなんでもここまで無根拠な荒唐無稽をやれば、党員たちに見限られるだろうと思っていた。
しかし、そうはなりませんでした。
胡乱な党員たちは保険会社名も不明のこの保菌金殺人ネタに喰いつき、故・犬丸勝子氏の関係者を誹謗しはじめたのです。
ーーダメだ…。こいつら、ひととして終わってる…。
かくして僕は2017年に4.2花見計画を実行し、このブログを立ち上げるに至ったわけです。
2018年10月3日ーー東京都でヘイトスピーチと性的少数者の差別とを禁止する条例が可決されました。
ネットはもはやリチャードコシミズが暴れまわっていたころのような、ヘイト発言投げ捨て自由の原始のサバンナではありません。
近いうち、ツイッターにもこの種の規制は及んでくることでしょう。
リチャードコシミズの生息環境は、このように1日1日と狭められ、息苦しいものへと変化しておりますが、
これこそが世の流れであり、時代の新しい息吹きなのだと僕は思います。
この新しい時代の要請をクリアして、リチャードコシミズは今後もジャーナリストとして生き延びていくことができるのでしょうか?
いま、FACT主催のワンダーアイズさんの商品棚「Wondereyes Store」のコーナーから、リチャードコシミズ関連の商品がごっそり消えていることを、
皆さんはもうご存知ですか?
自社で直接販売しているルートでは相変わらずRK商品を販売しているものの、ワンダーさんが販売を委託しているヤフーショッピングのルート、
及び楽天さんのルートにはリチャードコシミズ絡みの商品が一点たりとも見当たりません。
船瀬さんや内海さんの商品は華々しく売られているけど、RK関連の商品はいくら検索してもひとつも出てこないーー!!
これがどれほどヤバイ事態なのかお分かりですか、独立党残留党員の皆さ~ん!?
https://inform.shopping.yahoo.co.jp/wondereyesstore/contact.html
これは、リチャードコシミズとつるむことは商売上うまくない、世間体がわるいのでできたら避けたい、といった風な最悪の「避けられ」事態が、
いま、RKのお仲間といえる人々圏内の水面下でも静かに起こりはじめているということです。
この流れはちょっと止まらないと思う。
リチャードコシミズという名を口にしただけで、誰もが眉をしかめ、苦笑して去っていくという日は案外近いのかもしれない。
この事態をリチャードさんはどう凌がれるおつもりなんでしょうか?
というより、これほど深刻なピンチを果たして、あなた、本当に凌げるの?
どうなんでしょうかねえ…? そこんところは僕にも皆目分からない…。
今回、珍しくもこんな晦渋な総括記事をあげたことには理由があります。
このような活動をしていると、どうしても記事は時事的で煽情的なイベントを追ってしまうことになりがちなんです。
ブログ開始以来そろそろ2年目に突入するので、過去のRKの罪状を記した総括的な記事が日々ますます要り用になっていき、
その種の記事の作成ーーこれ、とっても面倒くさいんですよ!ーーは、ほとんどあかねさんに任せきりでいたのですが、
今回、黒川伊保子氏の素晴らしい「感性トレンド」という発想を知り、
これに絡めて新しいRK総括という視座を獲得できないかと思い立ったのが当記事執筆の直接の動機です。
僕に新しい視座を与えてくれた黒川伊保子氏とあかねさんに感謝します。
今回の僕の記事は以上ですーーお休みなさい。