石垣陽介事件( 43期・現仙台高裁民事1部、前旭川地家裁所長 )の本質というのは、ひとつしかない。
—――― さいたま地裁民事5部時代に石垣陽介判事がやらかした空前の大量ミス、このあってはならない不祥事を司法の歴史から抹殺せよ!
ズバリ、これだけだ。
星新一が著書「 人民は弱し 官吏は強し 」のなかで、日本有数の製薬会社であった星製薬を潰すべく動いた官の横暴について書き残しているが ――― 星新一は星製薬創業者社長の実子であった ――― あれはフィクションじゃない。
僕等もあれと全くおなじことを体験した。
その気になれば、官とはなんでもやれる存在なのだ。
今回は、僕等の事件追及を参考にしたいひとにも、これの後につづきたいひとのためにも、裁判官、書記官、事務官の名もすべて実名で、僕等の体験した「 司法という軍隊 」の内幕について、具体的に、順を追って語っていくことにしよう。
① 始まりは某カルト団体による集団スラップ訴訟、それにまつわる さいたま地裁庁舎内への警察突入事件 だった ( R元年10.11. 午後01時01分 )
当時、僕はバトっていた某カルト団体から集団訴訟を受けていて、その3件目のH31年(ワ)633号の結審直後に、このカルト組織のメンバー7人から、僕は、さいたま地裁1Fロビーにて集団待伏せを受けた。僕の携帯にも同時進行で彼等からの脅迫メールが届くという、これ、完璧な脅迫案件だった。某団体という危険な集団絡みの案件( この団体はかつて不正選挙裁判という名目で東京地裁内に200名近い人間を集め、騒動を起こした前科があった )だということで、この裁判には制服組の特別警備が十数名、さらには原告、被告、傍聴人のすべての財布の中まで点検するという念の入った手荷物検査が実施されるものだった。
そのようななかでこの事件は起こり、僕は110番し、さいたま地裁庁舎内に浦和警察の猛者らが派手に臨場したのだ。
この待伏せ人のメンバーには、最初に僕を訴えた人間も、2番手3番手で僕を訴えた人間も皆含まれていた。
これは集団訴訟の何よりの証拠だろう。
次に僕等が別訴として初めて自分たちからカルト組織を提訴したR元年(ワ)1818号事件で、僕等はさいたま地裁民事5部の石垣陽介裁判官( 43期 )に、法廷内でその事実を述べた。
準備書面でもはっきりとそう書いた。けれども、石垣陽介は、その「 事実 」を認めなかったのだ。
H31年3月20日には、東京家裁で離婚調停中の女性が、家裁玄関前で米国人の夫により刺殺される事件が起こっている。
この案件で神経質になっていたさいたま地裁が、僕等関連の危険な裁判で起こったこのような案件を隠したかった、という気持ちは分かる ――― 人情として、体裁として。
でも、実際にR元年の10月11日PM1:01 ――― 浦和警察の生活安全課の面々は、たしかに地裁内に臨場していたのである。
これほどあからさまな事実を否定するのは、現在の旭川警察が殺人犯女性と不倫していた同署刑事の存在を隠蔽するのと等しい。
しかも、法律運営の要ともいえる、さいたま地裁がまさかこんな無法なことをやらかすなんて・・・
法律家が法律を遵守しないで、身内組織の安泰を何より重視するってどういうことよ!?
だが、これにはまだまだ恐ろしい続きがあるのだ。
「 実際に警察が裁判所内を臨場した 」にも関わらず、これを「 原告飯田( 注:僕のこと )が通報したことを記録しているだけである 」とした石垣陽介が、僕は許せなかった。
通報がなされたということを石垣が認めたのは、僕が実際に110番通報した携帯画像を証拠として提出していたからだ。
要は、僕がそのとき110番通報した、ということだけは認めざるを得なかった。証拠があったから。
だけど、警察が臨場したという証拠はない ――― 石垣は、そこに賭けたのだろう。
石垣は、僕等が控訴しないほうに賭けた。
僕等が呆れて訴訟を投げ出すほうに賭けた。
根拠がなく、賭け率も低い、身内庇いのリスクだけが加算される、みっともない損な賭けだ。
だって、浦和警察の生活安全課の人間は間違いなく臨場したのだから。多くの書記官も事務官もそれを見ているし( 志儀書記官、御手洗書記官ほか )、他にも多くの関係者が警察に話を聴かれてもいた。
それであるにも関わらず「 原告飯田が通報したことを記録しているだけ( 注:電話はしたが警察は臨場しなかったという意。苦しすぎる )」とした、石垣陽介の上の判決部分を見られたい。
なんという御都合主義!
そして、真相丸まる分かりの、稚拙極まるウソ!
ここまで事実をゆがめた権力の走狗と成り下がった石垣陽介に、僕は言葉を失った。
だって、石垣は、法曹の体面と自分の判事キャリアの安泰のためだけに、事実を曲げ、そのために法律を使ったのだから。
もちろん許せるわけがない。
てか、許してはいけない ――― 彼が行ったのは「 犯罪 」なのだ。
責任ある判事がこのようなことをするのは、僕等の訴訟する権利を踏みにじるだけでなく、民主主義国家の理念に対する叛逆とさえいえる。
当然、僕は控訴した ――― 今度は埼玉県警察本部 けいさつ情報公開センターから取った、警察臨場のれっきとした証拠 を突きつけて。
② すると、2審( 控訴審 )東京高裁民事10部総括の 高橋譲裁判長 ( 35期 )がまっ青に・・・
この控訴を担当したのは、当時東京高裁民事10部の総括裁判官であった 高橋譲( 35期 )であった。
この控訴審は令和3年の2月19日に開廷したのだが、なんとこのとき 高橋譲は30分も出廷に遅刻してきた!
このときの担当書記官であった 加藤俊輔 がこれ以上ないほど動揺して、「 どうしたんだろう、どうしたんだろう・・・」と口にして、やたらと法廷内を歩きまわっていたのがどうにも忘れられない。
でも、これは異常に動揺する加藤俊輔のほうが正しいのであって、裁判官の出廷の遅刻などというものは、本来は即報道に値する特大ネタなのだ。
このことが報道されなかったのは、僕等の裁判が弁護士を伴わない本人訴訟であったからに過ぎない。
要するに僕等は舐められ、軽んじられたわけだ ――― 弁護士をつける金もない貧乏原告( 注:この場合は正確には「 控訴人 」という )なのだから、こんな扱いでもいいか、といったあたりであろうか。実に笑える。
開廷から30分後に遅刻出廷してきた高橋譲は、その手に赤や青や黄の付箋をいっぱいに貼りつけた石垣判決を持ってきていた。
石垣と高橋は東京地裁と高裁に同日に人事異動してきたこともある仲である。恐らくは石垣本人から前もって、ねえ、高橋さん、1818号でちょっと私ミスってしまったんで、済みませんが今度の控訴( 僕等の控訴。令和2年(ワ)3515号 のこと )ではご苦労をかけますが、そのへんよろしくお願いします、みたいなことをいわれていたのだろう。東京高裁民事10部の総括判事として多忙な高橋は、恐らく当日に石垣の1818の判決書面を流し見して仰天したのだ。
それはちょっとどころではない、司法史上初といっていいほどの空前の大ミスに溢れかえっていたからだ。
高橋は、この日、原告席の僕等( 僕とあかねさん )に対して、異様に寛大で、低姿勢だった。
集団スラップ訴訟の仕掛人である被告席の人間らには目もくれず、高橋は原告席( 控訴人席 )の僕等に自由気ままに喋らせた。
なんと30分以上も喋らせたのだ。
あれは完全なガス抜きだった、といまになってみると僕等は思う。
高橋が1818号の石垣判決に貼っていた色とりどりの付箋は、石垣ミスのチェックの印だったのである。
高橋譲は聡明な、頭の切れる男だ。控訴審の直前に石垣のあれほどの膨大ミスを発見してしまい、当然迷ったと思う。
—――― どうするんだ、これ? 差し戻すべきか・・・それともこのまま石垣を庇って、こいつら控訴人の意向を無視して突き進むべきなのか・・・?
控訴判決の申し渡しは5月11日だった。結審から判決まで3か月弱かかった勘定になる。
結果は、もちろん僕等訴えの棄却であった。
判決の直後、僕は担当書記官の 加藤俊輔 に詰め寄った。
すると、僕が口をひらくより先に加藤がいった。
—――― なんですか、上告ですか?
—――― いや、国家賠償です。こんなポンコツの石垣判決を支持する控訴審なんて僕は認めない。ただ、国家賠償のやりかたが分からない。加藤さん、そのへんのやりかたを教えてもらえませんか。
あらかじめ用意していた台詞をいうみたいな棒読み口調で、加藤俊輔 はこう答えた。
—――― 知りませんね・・・弁護士にでも聴いたらどうですか。
高橋譲の控訴(2審 )判決は全部で30Pもあるものであり、とても法廷内で読み切れるような規模のものではなかった。
だから、僕等は裁判所から出て、その後でこの高橋判決を読んだことになるのだが、そのときは心底びっくりしたものだ。
高橋は石垣判決のなかのミスを詳細にいちいち訂正しており、その数は全部でなんと70か処にも及んでいた。
もちろん、石垣判決の要のひとつであった「 原告飯田が通報したことを記録しているだけ 」の部分も「 警察はきた 」とちゃんと改められていた。
まさか警察の情報公開でもって、警察臨場の事実が証明されるとは高橋も思ってなかったのであろう。
だから、変えた。
証拠を出されて仕方なく変えた。
けれども、間違った判決を意図的につくった、同僚の1818号の裁判官・石垣陽介がついたウソに対する謝罪は、なかった。
僕等が石垣陽介に対する国家賠償を正式に考えたのは、このときだ。
それまでの僕等の敵は、あくまで僕に執拗な名誉毀損のスラップ訴訟を連続して仕掛けてくる、カルトな相手方であった。
でも、このとき ――― そんなどうでもいい泡沫敵の存在は、僕のなかから完全に消し飛んだ。
もっととんでもない、理不尽で狡くて、芯の部分は小心で、なのに傲慢つくな巨大な敵がここにいたじゃないか。
僕等の空になった標的に、カルトと入れちがいに表れてきたニューターゲット ――― それが、司法だった 。
まあ、こうした能書きを述べるのも悪くはないけど、このあたりでそろそろ厳粛たる事実に語りはじめてもらおうか。
高橋譲 のR2年(ネ)3515号( R元年(ワ)1818号の控訴 )の、問題の実物判決が以下である ―――
高橋譲のこの控訴判決は、同僚裁判官・石垣陽介の判決書内の過ちを( 数にして70!)裁判所自らが認めたという意味において、非常に画期的なものだ。
短時間でこれだけの数の石垣誤記を見つけ訂正した高橋の手腕はさすがといってもいいものではあるが、これだけの「 過ち 」に溢れる原判決を差し戻さなかったという 高橋自身の判断といったものは、司法側のアングルからしていかがなものであろうか?
前掲した2024年5月、名古屋地裁が「 裁判官の押印が抜けていた事件を 審理が完成していないとして差し戻した案件 」と対比して見られたい。
どちらが国家の法曹組織としてふさわしいものであるか、5歳児の子供に尋ねても分かるであろう。
石垣陽介は、PCのこともネットのこともSNSのことも、まるで知らなかった。
欧米各国でポピュラーなものとなり、すでに幾国かでは法制化されている「 集団によるスラップ訴訟 」についても何も知らなかった。
裁判所ではいま現在も世紀末の一太郎を使いつづけており、AIやネットの事情に疎すぎる人材があまりにも多い。
633号の担当裁判官であった 斎藤清文 は、ブログという存在についてまるきりの無知で、ブログにコメントするという行為を、いくら法廷で説明してみても全く理解した様子がなく、審理の間中僕にむかって罵言を投げつづける傍聴席のカルトチームの行為も放置した。( 記事冒頭フォトの一番下方の男性裁判官 )
石垣陽介の裁判調書を改竄したとおぼしい、さいたま地裁民事5部の 森本清美書記官( 石垣1818訴訟時に石垣のパートナーだった担当書記官 )も、石垣同様にスラップ訴訟という言葉を知らなかった。
下記は、R元年(ワ)1818号の第3回目の口頭弁論の裁判調書だが、担当書記官であった森本も、欧米のスラップ訴訟という概念を知らなかったらしい。
中央下のあたりで「 ステップ訴訟 」という意味フな単語を唐突に記入しているのが分かる。
僕等の裁判中のジレンマと齟齬感がどんなものであったのか、これだけでも分かるひとには分かってもらえるのではないだろうか。
なんというか、現代とテクノロジーの全くちがう戦前の裁判所で、前近代の知識しかない裁判官にアナクロ審理されているような感触なのだ。
さて、高橋譲( 35期 )は控訴審において、前審の石垣陽介の判決中の誤りを認めた。
が、彼は、その70もの間違いが、判決自体の価値を損なうものだとは全く考えなかった。
つまり高橋は、たとえ70箇所の過ちがあっても、実際にさいたま地裁内に警察が臨場したのに石垣がそれを認めず、あえて裁判所の対面を保つために「 原告飯田が通報したことを記録しているだけ 」と子供理屈みたいな隠蔽のためのウソを意図的に書いたことも、審理本来の本質には関係ないといいきってしまったわけだ。
高橋譲の2審判決を読んで、ああ、そういえば石垣1818号原判決には、あ、ここ間違ってる、あ、ここも原告と被告を取りちがえてる、みたいな箇所が結構あったよなあ ――― と僕等はもう1度そこで、見るのも厭だった1818号の負け判決を、入念に2人で見直してみた。
そしたらね、70どころじゃなかった ――― 108つ、石垣陽介の判決書には、なんと108箇所もの間違いと事実誤認があったんだ。
もう吹っ飛んだね。
裁判判決というのは公文書 だ。
これほど恥の塊みたいな誤りだらけのダメ文書を公文書として押し通すなんて、マジで正気の沙汰じゃない。
これは、はっきりいって 背筋が凍るほど恐ろしいこと なのだが、読者のあなたはどう感じられるのだろうか。
法律家である石垣陽介と高橋譲は、僕に対する多数の集団スラップ訴訟( 名誉毀損事件 )について審理しているはずなのに、実際の警察臨場に対して言及するとなると、これが異常といっていいほど歯切れがわるい。
物々しい制服組の特別警備がついている裁判所内において、脅迫を伴う多数による僕ひとりへの待伏せ行為が行われたのだ。
普通に考えてこれは脅迫行為であろう。
そう取らなかったのは、裁判所の汚名とスキャンダルとを恐れた裁判所の意図的な戦略だ。
この待伏せによる警察臨場が実際にあったということを知悉していたのにも関わらず、石垣陽介はそれを「 飯田が110番したことをだけ 」というテキトー語ひとつで誤魔化し通すことを決め、自らの過ちを隠蔽すると同時に、裁判所という大きな権威に媚びたのだ・・・。
2023年、僕に対する集団スラップ訴訟はまだ続いていたが、僕等はずっと考えていた< 石垣ー高橋の誤記問題 >にけじめをつけるため、2024年の初頭に
★ 令和4年(ワ)3333号国家賠償事件
を提訴した。
訴状と証拠を提出して印紙代を払うと事件番号が決定されるのであるが、僕はこの事件番号にまずびっくりした。
前の1818号もなにやら意味深だったが、今度のはなにせ3333号だ ――― ゾロ目もゾロ目、フィーバーじゃんか、これって!
僕等の3333号国家賠償事件の第1回目の口頭弁論は、2022年の6月21日、東京地裁の609号法廷で、13:30に開廷された。
この事件を担当した 丹下友華裁判官についても語りたいことは多くあるのだが、それは次回の PART 2 「 石垣陽介事件の隠蔽を働いた裁判官と書記官たち 」にまわすことにして、何をさしおいてもいわなくちゃいけないのは、僕等のこのR4年(ワ)3333号が実際に東京地裁で動き始めてからの、石垣陽介裁判官と高橋譲裁判官の処遇であろう。
石垣陽介は僕等の3333号が始動したこの年の10月25日、同年の4月1日に古巣のさいたま地裁民亊5部から東京高裁民事23部に異動してきてからまだ半年と24日しか経っていないのにも関わらず、なんといきなり北海道最北端の旭川地家裁所長へと左遷になったのだ。
さらに、なんと石垣陽介事件の2審を勤めた、あの高橋譲までがこうだ ―――!
あの高橋譲 ――― 僕等の3333号訴訟が東京地裁で始動しはじめてから、わずか2か月あまりしか経っていないのに、自ら依願退官していたのだ!
栄誉ある円満退官まであとわずか10か月ばかりしか残していなかったというのに、こんな半端な時期に、一体なぜ・・・?
石垣事件の最重要関係者が、わずか半年ほどの短期間のうちに、裁判官という表舞台から消えたのだ。
そして、高橋は彼のキャリアからすると最上とはいいかねる、上記の天下り先に緊急避難していたのである。
これだけでもこの法曹事件が並の規模のものではない、といったことが誰にでも理解できることと思う。
しかし、次号の PART 2 はもっと凄い。
次号で扱うのは、その後の僕等事件に関連した、裁判官たちの菅原道真公的な悲喜こもごもな左遷ストーリーだ。
今回の僕記事はここまで ――― お休みなさい。 ( 了 )
カッ飛べ! これが石垣誤記だ(# ゚Д゚)
また翔べ! これが石垣調書改竄だΣ(・□・;)
★ 石垣さんも丹下さんも裁判官なんだから、地裁隣りの法務省赤レンガ棟を入って右手の「 越前碑 」を
参拝したことがあるはずです。そのときの自分の初心を思い出してほしい。あなた方はあの頃の自分に
いま向きあうことができますか? 目を反らさずに微笑みかけることができますか? そのへんのこと
をいっぺんよく考えてみてください。