ザ・マイケルブログ!

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💎 2024年9月 マイケル 癌になる ――。

2024-11-17 22:47:05 | 🍄 マイコー日記

 10月中旬 リハビリのため町田市街をウォーキングする俺


 なんちゅうか、TVドラマとかで幼少期から何十回となく見てきたあのシチュエーションに落ちちゃいました ――― うん、あの癌ってやつに。
 ずーっと自分外の他人事と決めこんでいたんだけどね、あらら、いよいよ自分の番がまわってきたのかよ、って。
 2024年の9月20日のこと。
 血尿は1年前の7月から既にあって、そのときには病院に行って検査したりもしたんだけど、なーんの異常もなかった。
 今度は半年後にきてくださいね、とかいわれていたけど、俺はもともと病院が嫌いなひとなんで、体調がいいことにかまけて、まる1年間ずぼらに放っぽらかしにしてたわけ。
 したら今年の9月始め、突然、血尿がでた。
 それも、病院関係職の俺がビビるほどの、濃縮した真紅すぎの鮮血としかいえないものが。
 おろろ。真っ赤すぎるじゃんか、こりゃあ・・・。
 こらヤバイんじゃないかとさすがに20日に病院にいくと、なんでもっと早く来なかったんですか! とドクターに怒鳴られた。

―――― ここ、見てください。右の腎臓が腫瘍でふくらんでるでしょう? これ、たぶん90%の確率で癌だと思います。腎臓の癌というのは、膀胱なんかのそれとちがって、20分の1の発生率という珍しいものなんですけどね・・・。

 という若いドクターの診断を、俺はへえーって聴いていた。
 全然ドラマチックじゃないの ――― 聴きながら俺はこういう宣告話をするときに、ドクターって人種がどんな仮面をつけるのかっていうほうに興味があって、自分の癌のCT画像よりむしろそっちに気を
取られてた。
 その診察室のドア越しすぐのところを、珍しく年少の女の子が何かごねながら通っていくのがちょうど聴こえて、ああ、あの子なにごねてんのかな? ずいぶんと幼い感じだけど病気なのか? 可哀想だな、なんて他所事のほうに心のズームが向かうくらい、俺は醒めてた。

 もともと俺は生きることへの執着というのがあまりない人間なんだ。
 もちろん俺だって生きることは皆とおんなじくらい好きですよ。
 選り抜きのダチと遊ぶこと、食べること、喋ること、動くこと、旅行すること、議論すること、ダベって笑いあったりすること ――― なんてみんな超好きだし ――― 恋すること、グルメに料理、あと素晴らしい音楽、映画、文学、歴史、あと絵なんかに触れるのも大好き。
 ただね、そういった楽しみっていうのが真夏の彩光下のものであって、人生が真夏だけの要素でできてるもんじゃないってことを、意識下で体感してるみたいなところが昔っからあった。
 
 だから、癌と聴いて、おお、今度はでっかい衣替えだなと、そんな風に俺は思ったんだ。

 9月30日に入院して10月1日に手術。
 発見から最短の日取りを選んだ。右腎臓と尿管の摘出。オペには5時間かかったそうだ。
 ICUに4日いて、最初の48時間は水も飲めない完全絶食。
 これは応えた。イスラムのラマダンなら夜になれば飲食はできるんだけど、病院じゃそうもいかないからね。
 ICU2日目にはじめて朝食が喰えるようになったんだけど、ベッド柵に橋渡しした簡易テーブルにむかって、ちゃんとした座位がつくれない。
 身体が起こせない、痛くて、伸ばした足と胴体を90度にできないんだ。
 なんとか自動ベッドを動かして強制的に座位をつくったんだけど、足と胴の角度はせいぜい70度程度が限界、両手をぐーっと伸ばして、遠いテーブルからトーストをやっと取って、シーツにマーガリンをこぼさぬようにセコセコ気を使いながら、のけぞり体勢で食事するのは、久々の食事だという喜びはあったものの、全体的にやっぱ侘しかった。

 しかも、病院食って量がないのよ。
 48時間ぶりの朝食は、パン1枚と、小さな牛乳パックと、薄味ちょこっとの野菜サラダと、漬物とお茶だけ。
 口腔内も元気時とちがってカサついて噛むたびに違和感があるし、身体が喜んでるって手応えもまっすぐ感知できない。
 3分でガツ喰いし終えた直後に腹が鳴って、ちくしょう、ひとり歩行できるようになったら絶対ここを脱走して、印度カレー屋にカレー喰いにいったる! と誓いを立てた。



 ICUに4日間いて、5日からやっと大部屋に戻れた。
 リハのおかげでゆっくり歩きならどうにかできるようになったけど、邪魔な尿バルーンをぶら下げながら歩かなきゃいけないし、廊下を渡ってすぐのところにある洗面台までいくのも最初は一苦労だった。
 けど、回復のため、なるたけむりしても歩くことにした。
 あと、鎮痛剤もできるだけ使わないようにした。痛みで眠れなくて鎮痛剤頼んだのは2回だけだ。
 寝ること、歩くこと、喰うことを至上原理にしてなんやかんややっているうち、手術痕の癒着防止用のドレーンも3本とも抜け、入院後1週目の10月6日、最大の枷だった尿バルーンがようやく尿道から外されることになった。
 
 嬉しかったね、これでやっと両手をフリーにしで歩けるわけだから。
 術語、初めて病院ロビーまでよたよたと上がって、玄関からちょっと出てみた。
 日差しがスゲー眩しかった。
 
 翌7日の昼食後、リハなどのスケジュールが空いてるのを確認して、初めての脱走敢行。
 上だけ私服に着替えて、何気ない顔つくって、巾着袋だけ右肩にひょいと下げて、忙しげなNS、Dr、職員、OSの合間を縫って、病院の門外にはじめて出た。
 病院から150mほど先の公園までいって、缶コーヒーのブラックを飲む。
 あかねさんに電話して入院状況なんかをちょっと話す。
 おお、俺なら元気だよ。今さ、念願の脱走中 ――― とかガキかよ(笑)
 足取りはまだ全然不確かなんだけど、娑婆の風は極上だった。

 翌日の8日の昼食には焼そばが出た。おお! とか思ったんだけど、なんと1分で完食。しかも、完食直後にまた壮大に腹が鳴った。
 いかん、もっと喰わんと死ぬ、と思い再び娑婆へ ――― 誓いの印度カレー屋までトコトコと地味に歩き、極辛マトンカレーのライス大盛りを5分で完食した。
 あれ、死ぬほど旨かったな ―――。




 10月9日になって待望の退院 ――― 妹夫婦が病院にクルマで迎えにきてくれ、一路町田へ。
 退院後の10日あまりを妹夫婦のところでリハしながら過ごした。
 寝る・喰う・歩くの三位一体を自分の掟にして、1日最低10km歩くことを目標にした。
 最初は退院したら自分のマンションにまっすぐ帰ろうと思っていたんだけど、妹が強硬にに反対したために、珍しくその意に従ったんだよね。
 あとになってその選択は正しかったことが分かった。
 調理に掃除に洗濯なんかの諸々の家事って、アレ、体力ないときには意外と消耗するんだよ。
 1日10kmウォークのノルマも、家事とかに気を取られてたら、そっちで消耗して、たぶん達成はできなかったんじゃないかな。
 その意味で妹夫婦には本当に感謝してる。
 センキュー、〇子と〇一さん ―――!

 10月12日、後輩のヤンキー娘のマブダチ・ドッシーが町田まで見舞いにきてくれる。
 病院にもきたがっていたんだけど、俺の病院は感染症予防が徹底してて、予定と許可のない見舞いは家族といえども禁止されてたんだよ。
 久々に話しまくり、歩きまくり、めっちゃ笑ったんで ――― たぶん10km以上は確実に歩いたと思う。
 サンキューなーっ、ドッシー ―――!
 礼いって夕刻にドッシーを駅まで見送ったら、帰り路には足腰がガタガタになってた(笑)



 
 10月後半、町田リハを開始して10日くらい経ったころかな、今度はあかねさんがわざわざ町田まできてくれた。
 こらもう大歓迎ですよ!!
 あかねさんと俺って、なんというか逢うたびやたら歩くんですよ。
 1日20kmなんて当たり前 ――― 記録では1日で42km歩いたことなんかもある。
 最初はあかねさんも術後の俺の回復ぶりを心配して、あまり歩かせないように気遣ってくれてたんだけど、話盛りあがって笑いまくってたら、人間ってそんなこと忘れがちになっちゃうもんじゃん?
 横浜そごうからシーバスに乗って、なんやかんや船上で喋りまくって山下公園に着いたときには、なんか俺のほうが結構バテてて、氷川丸のすぐのところでちょうど湾岸掃除してる作業服姿のひとりのおじさんの麦藁帽が、たまたま風にスパーっと飛ばされたのを見て、それをキャッチしてあげようと反射的にタタタッって横走りしたら、その急な動きにまだ塞がってない腹部の手術疵が耐えきれず、麦藁帽を手にしたまま俺は横にステーンとコケちゃった。

 あかねさんが「 きゃっ!」なんていって、おじさんもびっくりして ―――
 いや~ 怪我もなんもなかったんだけど、あのときは驚かせて御免ねえ、2人とも、なんか!!
 
 といったような感じで、俺の癌手術の予後は順調です。
 幸い、転移の兆候なんかもいまのところない。
 ま、この先どうなるかは分からないけど、体力もそこそこついてきて仕事にもなんとか復帰できたし、PCにむかえるようにもなってきたので、このまま粛々と回復の娑婆道を歩いていきたいものだなあ! なあんて今静かに思ってる。

 都合がよすぎる?
 うーむ、そうかもね。
 ただ、俺は、人間っていうのは、最後まで自分を自分にとって都合のいい物語の中枢に置きつづけたい生き物だと思う。
 俺もそうしたい。生と死は俺がそれまで思っていたみたいにきっちしした境界線なんか全然もってなくて、どっちともほとんど重なりあいながら存在しているんだなあ ――― ということが、今回のことでよく
分かった。

 でっかい楡の下の木漏日の路を歩くとき、散歩者のうえには眩しい光のかけらも枝葉の影も同時に、なんの配慮もなしに降ってくる。
 俺等は、自分じゃどうあってもそれらの日影群をコントロールすることはできない。
 俺等にできるのは、そんな複雑で不条理な陰影模様の道を、できる限り自分なりの歩方でしっかりと歩くだけだ。 
 だったら、なにが起ころうとも、しみったれた闇模様より光のかけらの眩しさのほうを瞼に感じて、この不思議なアラベスク文様の小路を、ビビらず、自然体で、ときどき近くの木立を歩いてる散歩者仲間と視線を交わしたりしながら、できることなら笑って、うん、歩いていきたいもんだよねえ・・・。

 今回の超・個人的な記事( というよりこれは絵葉書かな?) は以上です ――― お休みなさい。