乙骨正生
(フリー・ジャーナリスト)
講演を始める前に、ただいまご紹介のありましたプロフィールに、少し自己紹介を加えさせていただきたいと思います。
私は昭和三十年十二月一日に、東京都下東村山市に生まれました。
私が三歳になったときに、両親が創価学会に入信をするということで、自動的に創価学会の会員にさせられました。ちょうど私が中学に上がるときに、創価学会が、自前の初めての傘下学校法人である創価学園(創価中学・高校)を設立したものですから、受験したところたまたま合格し、一期生となりましたので、以後、池田大作氏の薫陶、指導を受ける機会を得ることになりました。
その後、創価大学法学部に進学したのですが、その過程で、創価学会内部で喧伝されている池田大作氏のカリスマ化された虚像(例えば、世界最高の仏法指導者であるとか、現代の御本仏であるというような)と自分の目の前で展開される人間池田大作氏の素顔、あるいは外部である社会一般に対して説明される創価学会の主張、例えば政教分離問題に対する見解と、創価学会内部での説明や活動実態、組織実態との乖離等について疑問をもつようになりました
ですから創価大学進学後は、大学内部でいわゆる民主化運動のようなことをしていたのですが、昭和五十三年に日蓮正宗との第一次の対立抗争が惹起し、創価学会なかんづく池田大作氏の正宗教義からの逸脱や社会的不正行為などが次々に明らかになったことから、在学中でしたが、創価学会を脱会。
脱会後は、創価学会という特殊な世界の体験を踏まえて、この特殊な世界の論理や活動が社会にどのような影響を与えているかを検証、分析した上で、そこには創価学会と公明党の政教一致問題をはじめ、言論出版妨害事件や盗聴事件に象徴されるようなさまざまな問題が内包されていることから、これを批判的な見地から検証する立場で言論活動を展開してみたいと思うようになり、在学中から週刊誌あるいは月刊誌の仕事に関わるようになり、卒業後、ジャーナリズムの世界で本格的に活動をしてきた次第でございます。
私は、例えば大阪の石油卸売り商の泉井氏の巨額な政界工作についての疑惑事件や、許永中事件など、さまざまな政界にまつわる事件の取材も行っているのですが、御承知のように創価学会・公明党が政界で大きな影響力を持ち、いまや政権の一部にまでなっているものですから、マスコミ界からの創価学会問題についてのニーズが多く、仕事の大半を創価学会問題に割いているのが実状です。
それだけに創価学会からは、蛇蠍のごとく嫌われており、ブラックジャーナリスト、売文屋、ウソつきライター、デッチ上ライターなどと、それこそ激しい罵詈雑言、誹謗中傷を浴びせられております。
今回は、現代宗教研究所からの御依頼でしたが、これまでにも日蓮宗の皆さまには、何度か話をさせていただいており、以前、たしか平成八年にも、東京五反田のゆうぽーとで、あれは東京の南部宗務所でございましたでしょうか、主宰の研究講演会で昨年亡くなられた内藤国夫さんとともに話をさせていただいたことがございました。
そのときにも、創価学会・公明党の政権参画の野望について、当時、公明党は新進党という形で、政権奪還を企図しておりましたが、非常に危険であるという話をさせていただきました。それが四年たって、いま再び、彼らがまさに本来の公明党という宗教政党に先祖返りをした上で、自民党と本格的な連立を組むという事態に立ち至ったということに、私は、大変忸怩たる思いと申しましょうか、残念な思いをいだいております
皆さん、すでにご承知のとおり、先般は二月六日に大阪で府知事選挙、京都で市長選が行われました。大阪府知事選挙では、自・自・公・民が推薦をした太田房江さんという通産官僚出身の女性が当選をなさいました。また京都の市長選挙では、ご承知のように現職の市長であった枡本頼兼さんという方が、これも自・自・公が押したわけですが、再選を果たしたわけです。
しかし、今回の選挙は地方選挙ではありましたが、その大きな争点の一つは自・自・公連立政権の是非でありました。皆さんもご承知のとおり、昨年十月に国政で自・自・公連立政権が誕生し、その自・自・公三党が、この一月の通常国会の冒頭に、三党の連立を維持するための大きな条件である、衆議院比例区定数の二十削減を強行するという挙に出たのです。冒頭ですからろくな審議もありません。したがって民主・共産・社民の三党が反発して、国会が空転するという事態に立ち至りました。
この一事にも象徴されるように、自・自・公連立体制というのは、衆議院で三百三十議席を超える数の力を頼んだ強権政治なのです。この政治が是なのか、あるいは否なのかということが、昨今の日本の政治上の一大問題となっているわけですが、今回の大阪の府知事選と京都市長選挙というのは、まさにその自・自・公連立体制の是否を問う一つのメルクマールだったわけです。両選挙はあくまで地方選挙ではありますが、近々に行われるであろう衆議院選挙の前哨戦と位置づけられていたのです。
したがって、自民党はもちろんですが、元来、政権に入ることを切望していた創価学会ならびに公明党は、今回の両選挙を、これは自・自・公連立体制を維持するための「天王山の戦い」であると位置づけで全力を傾注いたしました。自・自・公体制を占う最大の戦いは、次の総選挙です。したがって総選挙を天下分け目の「関が原」といたしますならば、今回の大阪府知事選ならびに京都市長選挙は、歴史上の順番は逆になるかもしれませんが、まさに自・自・公連立体制を守るための「大阪冬の陣」といえる重要な選挙だったわけです。
もともと公明党は創価学会の政治部として出発しており、両者の関係は政教一致そのものだったわけです。しかし、昭和四十五年に一大問題に発展した言論出版妨害事件を契機に、池田会長がいわゆる政教分離宣言を行ない、組織上の分離はしております。しかし、その実態は、今日にいたるも政教一体そのものであり、かつて池田さんが自ら口にしたように「両者は一体不二」の関係にあります。この点についての詳しい内容は、ちょっと時間がなくて申し上げられませんので、例えば私は最近、『公明党・創価学会の野望』(かもがわ出版)という本を出させていただきまして、その中で平成八年の衆議院選挙以後、今日の自・自・公連立政権発足に至るまでの、創価学会・公明党の動静、あるいは選挙の実態、その他を細かく検証させていただいておりますので、興味がおありになれば読んでいただきたいのですが、両者はまさに一体不二の関係にあり、創価学会は宗教活動に名を借りた熾烈な選挙活動を繰り広げているのです。
今回の大阪知事選挙ならびに京都市長選挙でも、そうした実態が随所に散見されました。例えば京都では、枡本さんという現職の市長を、自民党と公明党・創価学会で担いだわけですが、京都の北区で開かれた枡本候補の個人演説会の会場は、青・黄・赤の三色の旗をもった人々に埋めつくされていました。
これは何を意味しているのかと申しますと、三色の旗というのは創価学会のシンボルカラーを示す三色旗なんです。ルーマニア国旗と同じ青と黄と赤の三色の旗ですが、これをもっていたのです。この三色はもともと創価学園のシンボルカラー、スクールカラーだったのですが、これを創価学会は自らのシンボルカラーとし、平成三年に日蓮正宗・大石寺から破門されるや、創価学会は日蓮正宗から「魂の独立」を果たしたとして、三色旗を独立の証として天下に示すのだといって掲げているのです。
枡本さんの講演会では、これを会場を埋めた多くの人がもっており、いざ講演会が始まる段になると、司会が「ただいまから市長が入場されます。三色旗を元気に振ってお迎えください」と発言。「ウワーッ」と三色旗が振られる中を現職の候補である枡本市長が入ってきたのです。そうした会場で枡本さんが何を言ったかというと、次のような迎合発言というか、媚びる話をなさったのです。
「私は公明党の皆さんが大好きです。なぜなら、皆さんが信心をしていらっしゃるからです」
また同様に、大阪の府知事選挙でも、各所で学会員が三色旗を振っていましたし、太田候補も、「私は創価学会の皆さんのおかげでここまで来れました」とか、あるいは「浜四津さんと親しくしていただいております」と発言。創価学会・公明党に依存した選挙をやっている実態が、浮き彫りになりました。
創価学会において、関西の組織というのは、常に勝つ関西、「常勝関西」といわれており、創価学会において最強の組織とされています。実際、例えば平成八年の総選挙で、大阪には十九の小選挙区があるのですが、ここで創価学会が推薦した新進党の候補は、何と十六勝三敗という圧倒的な勝利をおさめました。しかも創価学会のプロパーである候補は全員当選を果たしました。これに対して東京で新進党の勝敗は半々。創価学会のプロパーの候補に限れば、十七区(葛飾等)二十区(東村山等)二十六区(八王子等)と、北区を中心とする十八区で沢たまきさんという「プレイガール」などに出演されていた創価学会芸術部幹部の女優さんの四人の学会員候補を立てたわけですけれども、当選したのは東村山を中心とした東京二十区の大野由利子さんただ一人という状況だったわけです。
そういうことから、大阪・関西の学会組織というのは、「常勝関西」といわれる圧倒的パワーをもつ組織とされているのですが、今回の首長選挙では、その関西の力を傾注するだけではなく、何と、北は北海道から南は九州まで、全国の組織に対して、大阪・京都に知り合いがいる人は、太田・枡本に投票を依頼してほしいという、こういう指示まで出しまして、全国の学会員、全国の組織が、全力を挙げて大阪府知事選では太田候補、京都の市長選では枡本候補の当選に全力を傾注したわけです。
その結果、大阪では太田房江さんが百十数万票をとり、京都では枡本さんが、前回は共産党推薦の候補にわずか四千票差にすぎなかったにもかかわらず、今回は七万票近い差をつけて圧勝する、こういう状況になったわけです。
当日の夜、私は大阪に住んでいる学会の地域幹部に電話をいたしました。そしたらその地域幹部は、「もう勝った、勝ったと大騒ぎだよ。これで次の選挙もいけるとみんな喜んでいる」と言っておりました。
ところで選挙前、太田さんは学会員ではないかという噂があって、マスコミは調べたんです。お父さんが学会員だという元学会員の話はありましたが、裏付けはとれませんでした。そういう意味では学会員かどうかわかりません。
枡本さんも学会員ではありません。では、どうして非学会員である候補に、創価学会がこれほど力を入れたのかと申しますと、実は創価学会の中では、今の自・自・公連立体制というのは、「日本の柱」体制と位置付けられており、これを守ることが最優先課題となっているからです。
皆さんは「日本の柱」というお言葉をお聞きになると、おそらく『開目抄』を思い浮かべられるのではないかと思うのです。実際「日本の柱」という言葉は、『開目抄』における日蓮聖人の三大誓願、「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ」という、この三大誓願から取られた言葉なのです。そしてこの日蓮聖人のお言葉を、創価学会ならびに池田さんは天下取りのためのモチーフ、標語としているのです。
実は、今を去る三十八年前の昭和三十七年に行われた参議院選挙で、創価学会は九名の候補を当選させ、非改選六名と合わせて十五議席を獲得。国会でさまざまな交渉を行う資格をもつ院内交渉団体になり、参議院公明会を公称。
国会内に控え室を得ました。その公明会の控え室に同年七月三日、池田さんが足を運んだんです。
この七月三日という日は、創価学会を実質的に創設した戸田城聖会長が、戦前、不敬罪で投獄されたときに出獄をした日です。また昭和三十二年に池田大作さんが、大阪の参院補選で選挙違反事件を起こし七月三日に大阪地検に呼び出され、そのまま七月四日未明に逮捕されたことから、創価学会では、七月三日を戸田さんの出獄と池田さんの入獄が重なった日、本当は七月四日逮捕であり七月三日ではないんですが、七月三日に呼ばれて、そのまま逮捕となったものですから、両会長が出獄と入獄をした数奇なる日、「師弟不二の日」という特別な日と位置づけているんですが、その師弟不二の日である七月三日に、池田さんが国会に足を初めて運んだんです。
当時、池田さんは会長に就任して二年目、三十四歳の若さでした。彼は三十二歳で会長になったことを、日蓮聖人が三十二歳で立教開宗をされたことと比肩して、自分の神聖化、カリスマ化を計ったのですが、当時三十四歳の若き池田さんが国会に足を運びました。その時、国会の公明会の控え室には立派な白いソファの椅子が一つ置かれたのです。三十四歳の会長は、そのソファに深々と腰をおろしたのですが、この折り、池田さんは公明会の控室に一枚の絵を贈呈しています。それは今は破門された日蓮正宗の大石寺にある日興上人が植えられたという「子持杉」という名の、一本の杉の木の幹が途中で二本に分かれている、その木をモチーフにした「記念樹」という絵でした。池田さんはそれをもっていって、控え室に贈呈したのです。そして居並ぶ十五人の公明会の参議院議員を前に「この絵の意味がわかるか」と下問したのです。参議院議員はみんな年上ですが、池田さんは宗教上の師匠であり、「会長先生」と尊称される立場ですから、構わないわけです。しかし、突然、「この絵の意味がわかるか」と聞かれてもみんなわからない。したがってぽかんとしている。すると池田さんは、「この絵をただの絵だと思っちゃいけない。この木のように(二本に分かれていますから)『日本の柱となれ』ということなのだ」と言い、「政権を取れ」と厳命し、真ん中に「日本の柱七月三日池田大作」との揮毫を置いたのです。
七月三日というのは、先ほど申し上げたように、「師弟不二の日」と位置づけられています。創価学会にあっては、宗教上の絶対的師匠である池田会長の構想を実現することが弟子の使命であるとされています。日蓮聖人が、お釈迦さまの法華経における未来記を果たしたように、池田会長の構想、野望といいかえてもいいかもしれませんが、それを弟子が実現することが、創価学会内部では弟子のもっとも重要な使命として叩き込まれるのです。
ですからこれ以来、公明党の国会議員たち、あるいは地方議会員も含めて、創価学会・公明党の会員ならびに党員は、池田さんの「天下取り」戦略を実現するために、しゃにむに選挙闘争、政治闘争に突き進んでいったのです。その結果、右に行ったり、左に行ったりして、「コウモリ政党」と揶揄されるような融通無碍なマキャベリスティックな動きをくり返して政権に入ることを彼らは目指したのです。
そうした創価学会の雰囲気を、高瀬廣居さんというジャーナリストが、池田さんを、直接、取材したときの模様を『人間革命を目指す池田大作とその思想と生き方』という本の中にまとめておられます。これは昭和四十年秋に出版されたものですが、そこには創価学会ならびに池田さんの本音、実態を示す興味深い記述が随所に見られますが、その一節にこういうものがあります。
池田会長は、モダンな本部応接室のアーム・チェアにあぐらをかきなおすと、たばこを一服し、静かにそして
激しい声でいった。
『私は日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化、一切の指導
者、最高権力者である』。
同席の大幹部数人は深くうなずき息をのんだ。三十七歳の創価学会会長は自らを全世界の指導者、日本の国主たる気概と現実的意志のもとに、数百万世帯の人々を背景に、舎衛の三億の目標に向かっているのである。
ここに記されているような野望のもと、創価学会は天下取りを目指してきたわけです。ですから、平成五年、皆さんご承知のとおり、非自民連立政権が、細川護煕さんを首班にして成立し、公明党が入閣した際、池田さんは大喜びしたんです。
同政権は平成五年八月九日に発足しますが、その前日の八月八日、創価学会は長野県の軽井沢にある長野研修道場で本部幹部会を開催しました。
その席上池田さんは大喜びで、皆さんもマスコミの報道でご存じだと思いますが、「デェジン、デェジン」と発言したのです。そして郵政大臣、総務庁長官、労働大臣、と公明党の入閣ポストを示唆しました
(~P.17)
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