『仁和寺にある法師』という古文をご存知でしょうか?
仁和寺にある法師|徒然草|朗読|吉田兼好
私が高校時代の授業で唯一覚えている内容です。
高校時代の私は、運動も勉強、何をやっても中途半端。
見た目も良いわけではないため、異性から人気があるわけでもなく
「何も個性がない、冴えない人間だ」と自己卑下し
勉強秀才や運動部で活躍する連中を見て
「あ~あ、もっと才能を持って生まれたかったな」と羨みながら青春時代を過ごしていました。
ですから、遅かれ早かれ、RAPTブログに出会ってなかったら、人生に希望を持てず、限界を感じ、自殺していたと思います。
さて、「仁和寺にある法師」とは鎌倉時代に吉田兼好という作家が、世の中を皮肉って徒然草という本を書きます。
吉田兼好は当時の知識人で、世捨て人のような生活をしていました。
貴族のような派手な生活はしていないにしても、食べていけているため上級国民だったのでしょう。
高校時代の講義で一番好きだったのが、古文でした。
それはなぜかというと、古文の先生は講義そっちのけで、自分の人生の失敗談を話してくれたからです。
一番印象的だったのが、「京都で学生生活したいと思い、京都大学に憧れて、受験勉強をしていたが、ちょうど受験の年に東大安田講堂事件などが重なり、東大受験者が京都大学に流れてきて、一浪したが、京都大学には届かなかった、諦めて立命館大に入った」というお話でした。
「大学では文学を専攻し、自分の好きな分野だけを中心に勉強できたため楽しかった。古典の研究では食べていけない、仕事がなかったため教員免許を取って今がある」と話してくれました。
人間は苦労話や挫折した話しが大好きです。
その先生は古文担当の先生で、学生を怒ることをしません。
教育者として、学生に厳しく指導できない人は適職ではありません。
今思うと、本当は高校の教諭なんてしたくなかったのかな?
大学の研究職といった、学者になりたかったのかな?と思っています。
当時の私はこの先生の気持ちに共感していたのでしょう。
そして、吉田兼好の書いた、「仁和寺にある法師」のストーリーが、他人事に思えませんでした。
「仁和寺にある法師」のあらすじは、
「仁和寺にある法師と石清水八幡宮を目指して歩いて旅するお坊さんとのやりとりです。
石清水八幡宮だと勘違いして、極楽寺や高良寺だけを観光して帰ってきてしまったお坊さんが、
「あ~石清水八幡宮は素敵でした」と話している様子を見て、「そこ、石清水八幡宮じゃなくて、違う寺ですよ」
突っ込みたくなるお話です。
誰か道案内してあげればいいのにと。
吉田兼好自体は、人生は虚無であると主張している、世捨て人なので、徒然草を読んでも何も答えはありません。
悪魔崇拝し、神を否定する無神論には結局答えがないのでしょう。
まさに今の世の中と同じ構造で、
マスコミが有名人、スポーツ選手、政治家、芸能人などを使って金持ちの派手な生活を流しまくり
「有名になって、巨万の富を得て、贅沢し、素敵な異性と結婚できたら幸せだ」
と必死に道案内をします。
RAPTブログを読まないと、それが全て嘘だとわかりません。
実際は、上級国民でない庶民は成功できませんし、運よく成功を手にしてもすぐにイルミナティ連中に取り込まれてしまいます。
サタンの存在を知らずに成功しても、サタンにいずれ取り込まれてしまう、つまりサタンの手口を知らないからです。
RAPT有料記事425(2019年12月2日)どんなにこの世で成功したとしても、サタンに勝利できなければ必ず衰退の時を迎える。サタンに勝利できるように自分を鍛錬してこそ、永遠の成功を手にすることができる。
RAPTブログ以外の情報、文学、学問は「盲人の道案内」なのです。
吉田兼好は仁和寺にある法師野中で「道案内がいれば石清水八幡宮まで行けたのに」と嘆きましたが、
吉田兼好自体、人生の正解や地図を持っているわけではなかったのです。
今から30年以上前、高校時代の私がこの文学作品に強い興味を持ったのは「イルミナティ連中の作った地獄の世界に嫌気がさしていた」ことや
「そこから抜け出すために、人生の正解を求めていたから」かもしれません。
神様がRAPTさんを使って導いてくださったおかげで、人生に迷うことなく生きられるようになりました。
RAPTブログによって「心の問題」「人生の問題全てが解決した」からです。
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