仏教チックになってきましたが、仏教界は歴史から見れば、偶像崇拝で、悪魔崇拝なのは明確なため、綺麗事しかいいませんね(^o^)
横道に逸れましたが、私の以前通っていたスポーツクラブでアマチュア世界大会チャンピオンの選手が所属しています。その方はほぼ視力がなく、弱視、盲人と呼ばれる人です。
ここからは、個人情報が入りますので少しフィクションです。
その方は、高校生の時、突然のVirus性の疾患発熱により、視神系が損傷し、中途失明してしまいます。全盲ではありませんが、視力をほとんど失ってしまいました。
彼は、思春期に視力を奪われ、自殺を計ったといいます。しかし、死ぬ事ができない、視力がないため、準備ができない。
そんな時、自分が何気なく続けていたスポーツに挑戦し世界のトップにまでなってしまったのです。
現在、専門学校の教員をしながら健常者の妻と子供と生活されています。
彼は『沢山失う事で、失った以上の物が得られた』と話しました。
そこには説得力があります。
今思えば失って良かったかもしれない。視力を失って確かに生活は不自由になったけど、人生の選択と集中ができる、毎日生きるので必死になり、充実しているからと話される。
逆に五体満足で、何でも『その気になればいつでも挑戦できる健常者の私達』の方が、理由をつけて挑戦しない、言い訳ばかりする、ギャンブル、パチンコやアルコール、タバコにふけり、アイドルを追っかけ、見た目ばかり気を掛け、他人からどう思われるかだけを考え、自分さえ良ければいいと思いながら生きてしまいます。
本当に自分がやりたい事以外のお手軽なこと、テレビを見たり、グルメ食べ歩きをしたり、スマホゲーム、ツィッターやSNSに時間を盗まれ、死ぬ間際まで、本当の人生の目標や意義を見いだせず、そきて気付かず、消費をする為に、自分の時間を切り売りしやりたくもない仕事を朝から晩までやらされて死んでゆくのかもしれません。
私は彼と出会って、失う事、与える事がそれ以上の成果を得る事だと知りました。
私達は家庭教育、学校教育で『テストにおいて、スポーツ大会において、相手より優位になること、点数を取る事』を絶対的価値観として植えつけられ評価されてきた歴史的経緯があります。
その裏で、人に迷惑かけてはいけない、友達と仲良くするとか、早起きして家事手伝いするという価値観を古い価値観で、何の得もない考え方と刷り込まれて来ています。
『自由に生きる権利を持つ=迷惑かけて良い、自分勝手に生きて良い』という価値観が刷り込まれているのかもしれません。
ですから、現代を生きる我々は、『バレなければ何をしても良い、結果だけ出せればそれで良い』という思考が張り付いてしまっています。
そして、ホリエモンや村上ファンドのようなハゲタカ、拝金主義者をマスコミは煽り時代の寵児に仕立て上げ、個人の尊厳や存在価値よりも、お金をどれだけ稼げるかが人間のステータスで価値であると刷り込みました。
そして、テレビ番組は、有吉のような、悪口を言うタレントを人気キャラに仕立て上げ、それを見た子ども、学生、社会人までもがテレビの中の茶番劇を間に受け先輩や年上の方におかしな事を口走ってしまいます。
あれは、テレビの中の茶番劇なのです。イジル方もプロ、イジられる方もプロなのです。イジメに近い人格否定するドッキリを仕掛けるロンドンハーツも同じ。
イジメられるプロ、虐められて食べて行くのが芸人なのです。
カメラが止まれば、イジメ側もイジメられる側も、コーヒー飲みながらフィルムチェックしているんです。だから迫真の演技ができるのです。
しかし、現実社会に、多くの人から笑い者にされて、虐められて食べて行ける人なんているのでしょうか?
人間は尊厳があり、両親があり、家族から大きな愛情を貰って育って来てない人はいません。
虐める側は、相手の両親の前で同じ様に虐める事は出来ません。
それば、テレビの茶番劇の延長で現実社会に当てはめて真似事をして相手を傷つけているだけだからです。
現代のイジメの構造は意図的に作られているテレビのプログラムが原因の一環だと思われます。
本来逆らうき、抵抗すべきあちら側の権力に対して、ガス抜きさせるために作られているとは考えられないのでしょう。
どれだけ与えられるか?
そんな考えが評価される時代が来るのでしょうか?私達大人世代が
得る、奪う社会構造から
与える、そして自分の大切な人家族に循環させる社会構造にシフトして行動する時が来ているのだと感じています。
横道に逸れましたが、私の以前通っていたスポーツクラブでアマチュア世界大会チャンピオンの選手が所属しています。その方はほぼ視力がなく、弱視、盲人と呼ばれる人です。
ここからは、個人情報が入りますので少しフィクションです。
その方は、高校生の時、突然のVirus性の疾患発熱により、視神系が損傷し、中途失明してしまいます。全盲ではありませんが、視力をほとんど失ってしまいました。
彼は、思春期に視力を奪われ、自殺を計ったといいます。しかし、死ぬ事ができない、視力がないため、準備ができない。
そんな時、自分が何気なく続けていたスポーツに挑戦し世界のトップにまでなってしまったのです。
現在、専門学校の教員をしながら健常者の妻と子供と生活されています。
彼は『沢山失う事で、失った以上の物が得られた』と話しました。
そこには説得力があります。
今思えば失って良かったかもしれない。視力を失って確かに生活は不自由になったけど、人生の選択と集中ができる、毎日生きるので必死になり、充実しているからと話される。
逆に五体満足で、何でも『その気になればいつでも挑戦できる健常者の私達』の方が、理由をつけて挑戦しない、言い訳ばかりする、ギャンブル、パチンコやアルコール、タバコにふけり、アイドルを追っかけ、見た目ばかり気を掛け、他人からどう思われるかだけを考え、自分さえ良ければいいと思いながら生きてしまいます。
本当に自分がやりたい事以外のお手軽なこと、テレビを見たり、グルメ食べ歩きをしたり、スマホゲーム、ツィッターやSNSに時間を盗まれ、死ぬ間際まで、本当の人生の目標や意義を見いだせず、そきて気付かず、消費をする為に、自分の時間を切り売りしやりたくもない仕事を朝から晩までやらされて死んでゆくのかもしれません。
私は彼と出会って、失う事、与える事がそれ以上の成果を得る事だと知りました。
私達は家庭教育、学校教育で『テストにおいて、スポーツ大会において、相手より優位になること、点数を取る事』を絶対的価値観として植えつけられ評価されてきた歴史的経緯があります。
その裏で、人に迷惑かけてはいけない、友達と仲良くするとか、早起きして家事手伝いするという価値観を古い価値観で、何の得もない考え方と刷り込まれて来ています。
『自由に生きる権利を持つ=迷惑かけて良い、自分勝手に生きて良い』という価値観が刷り込まれているのかもしれません。
ですから、現代を生きる我々は、『バレなければ何をしても良い、結果だけ出せればそれで良い』という思考が張り付いてしまっています。
そして、ホリエモンや村上ファンドのようなハゲタカ、拝金主義者をマスコミは煽り時代の寵児に仕立て上げ、個人の尊厳や存在価値よりも、お金をどれだけ稼げるかが人間のステータスで価値であると刷り込みました。
そして、テレビ番組は、有吉のような、悪口を言うタレントを人気キャラに仕立て上げ、それを見た子ども、学生、社会人までもがテレビの中の茶番劇を間に受け先輩や年上の方におかしな事を口走ってしまいます。
あれは、テレビの中の茶番劇なのです。イジル方もプロ、イジられる方もプロなのです。イジメに近い人格否定するドッキリを仕掛けるロンドンハーツも同じ。
イジメられるプロ、虐められて食べて行くのが芸人なのです。
カメラが止まれば、イジメ側もイジメられる側も、コーヒー飲みながらフィルムチェックしているんです。だから迫真の演技ができるのです。
しかし、現実社会に、多くの人から笑い者にされて、虐められて食べて行ける人なんているのでしょうか?
人間は尊厳があり、両親があり、家族から大きな愛情を貰って育って来てない人はいません。
虐める側は、相手の両親の前で同じ様に虐める事は出来ません。
それば、テレビの茶番劇の延長で現実社会に当てはめて真似事をして相手を傷つけているだけだからです。
現代のイジメの構造は意図的に作られているテレビのプログラムが原因の一環だと思われます。
本来逆らうき、抵抗すべきあちら側の権力に対して、ガス抜きさせるために作られているとは考えられないのでしょう。
どれだけ与えられるか?
そんな考えが評価される時代が来るのでしょうか?私達大人世代が
得る、奪う社会構造から
与える、そして自分の大切な人家族に循環させる社会構造にシフトして行動する時が来ているのだと感じています。
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