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寝るのがもったいないホテルで、朝もつい早く目が覚めて、朝焼けの景色を楽しみ、リゾート・ホテルのオシャレな朝食を楽しんだ。黄色いテーブルクロスに、大きなひまわりのアレンジ・フラワーが素敵に飾られ、周りに様々な、コンフィチュールやサンドウィッチ、シリアル、ヨーグルト、ハムやチーズ、ドリンク類が並んでいる。キュウリとトマトのあいのこみたいな野菜とモツァレラチーズとハムのゴマパンサンドが、感動的に美味しかった。非常食用に、1個ナプキンにくるんで頂いておいたが、とうとう食べる機会がなかった。
9時半に予約しておいたタクシーは、ドミンゴさんの弟の寡黙なエウジーニョさんが来て、アグリジェントまでの2時間、運転した。良い天気の中、高速道路を快適に行くフィアット。途中、オリーブ畑や風力発電の風車、草原の丘の中の一軒家など、写真を撮りまくる。
Agrigento アグリジェントは、ギリシャ人の遺跡で有名な街。道路からパルテノン神殿のようなテンプリが見え始めて興奮する。
車はそのまま坂を下って、やがてホテルCostazzurra コスタッツーラに着いた。グレイの壁に赤いアクセントの縁取りがついたモダンなデザインだ。目の前が廃墟のような、がらんどうの駐車場のような建物だが、ホテルそのものは感じ悪くない。フロントはむしろ親切で感じ良かった。まだチェックインには早い時間だったが、荷物は部屋に入れておいてくれる事になって、待たせてあるエウジーニョさんのタクシーで、とにかく遺跡エリアの中の考古学博物館へ行った。オジ様は、約束の150ユーロに10ユーロ足して、「マルサーラまで気をつけて」と言ってタクシーを帰した。
ここは世界遺産にもなっているシチリアを代表する国際的な遺跡とあって、博物館の売店も英語、仏語、独語もしゃべれる女の人が応対していた。パスネットみたいなプラスティックの差し込み式カードが遺跡の共通券になっている。
紀元前5世紀に、カルタゴ人によって滅ぼされたギリシャ人たちの、辛うじて遺った遺物が展示されている。外からはギリシャ人の円形野外集会場や、初期の教会の跡の建物が目につくだけだが、博物館の中に入ってみると、意外なほど大きく、しかも結構明るい。社会科の教科書や音楽史の資料に必ず載っているような、戦闘シーンや楽器を演奏するデザインの大きい壺、石像、杯、石棺など、マルサーラでも見た展示品と共通点もあるし、よりギリシャ色が濃くもある。
しかしここの一番の目玉は、テラモーネと呼ばれる、ドーリア式神殿の柱に付けられていた、屋根を支える人物像で、遺跡の中に横たわっていた物を、一体、博物館の大広間の壁に復元して掛けられている。とにかく大きい。他にも、頭部だけ3つ壁に掛けてあった。
考古学博物館は、見晴らしの良い丘にあるため、神殿があっちにも、こっちにも、と良く見える。神殿に向かって坂を歩いて下る。観光バスがひっきりなしに通る。ほどなく、テンプリ見学の拠点となるバスターミナルに着く。お土産店も兼ねたレストランがある。インフォーメーション小屋は、なぜか窓が閉まっているが、バス券を売っている店は開いている。レストランでピザとサラダを食べる。バナナシェイクを注文したが、冷たいのはカップだけだった。観光客でごった返していたが、次第に人が減り、ピザが来た頃はだいぶ静かになった。国際観光スポットのせいか、レストランのレベルにしてはトイレはちゃんとしていた。・・つまり便座があった。
さあ、いよいよ神殿(テンピ)に向かう。先程の共通カードを器械に差し込んで、地下鉄の3本遮断機のようなゲートを入る。テンプリ(テンピの複数形?)は3つ、約1キロに渡って並んでいる。先ず、ゆるやかな坂を上って、真ん中のコンコルディア神殿を目指す。写真のとおりの(って、かなり小さくて何だかわからないでしょうが・・)ギリシャのパルテノン神殿のような型(ドーリア式スタイル)としては、ギリシャの遺跡も含めて、保存状態が最も良い部類に入るそうだ。ギリシャは行った事がないので、比較できないけれど、間違いなく、かつて此処にギリシャ人が居た証拠だという、悠久の時間を実感できるような感動をして、また目を転じると谷の向こうの丘に現代(と言っても日本の物とは全く違う)のヨーロッパらしい家々、教会などの折り重なるような町並みの景色に妙な調和を感じて、それにも心奪われ、何よりも上天気の爽やかさに特上の心地良さで、ハイテンションにならずにいられない
コンコルディア神殿にたどり着くと、まだその先、更にゆるやかに上った先に、コンコルディアよりは崩れているジュノーネ神殿が見える。「元気だったら、ジュノーネまで行きましょう」と予めオジ様と話して歩き始めていたが、ここまで来てあそこまで行かない手は無い。途中、黄色い花、ケシの黄色や赤の花、濃いピンクの花などを愛でつつ、フランス人観光客、ドイツ人観光客、日本人観光客、それにイタリア人の小学生の遠足など、ガイド付きの集団の声に耳を傾けてみたりしながら、登って行く。一度、風で帽子がひらりと飛んでしまい、あわてて拾いに行くところをイタリア人の小学生たちに笑われた・・というより、妙にウケた。
生け贄を捧げたと言われる、一番奧で高台にあるジュノー神殿に着くと、ドイツ人観光客の一団が、最も奧の崩れて並んでいる石の上に、階段教室のように座って、ガイドさんの話を聞いていた。奥まっているのと、その他の遺跡もみな見下ろせる高台であるのと、更に生け贄を捧げたという伝承のせいか、なんとなく、観光気分だけではいられないような気がする場所だ。しかしとにかく見晴らしが良い。
コンコルディアとジュノー神殿の間には、アルコンソリウムという、天然の岩壁のようにも見える部分と、明らかに人の手によって築かれたと分かる部分から成る城壁があって、一部は墓地にもなっていた遺跡がある。こんな絶壁の上の城壁を築いていたのに、カルタゴ人に滅ぼされてしまったのでしょう? そしてそのカルタゴ人もローマ人に滅ぼされ・・その後も、ノルマン人やオスマントルコに支配され・・ずっと戦いの歴史だ。ヨーロッパは、20世紀おしまいになってやっとEU統合に至った。25世紀もかかって得た平和だ。でも、それもアメリカやロシア、アジアなどに対抗する勢力として固まろうとする、仮想の敵を見据えての仲間意識だ。それで現在はユーロが高くなり、成功していると云えるだろう。お陰で日本人はビンボ~だ。
・・とここまでは考えなかったけれど、人類の戦いの歴史を思うと、やはり現代に生まれてよかったなあとつくづく思いながら、Uターン。また坂を下って、再びコンコルディア神殿の横を通って、この神殿群(テンプリ)の入り口に近いヘラクレス神殿へ向かう。この神殿は、柱しか残っていない。前日にモツィアの遺跡の島に胸像のあったハードキャッスル卿が、このアグリジェント一帯の発掘をして、この柱を復元した漆喰の跡が見られる。ここは、自由に柱の間を歩き回ることが出来る。昔のNHKの番組”未来への遺産”の主人公になったつもりで、巨大なプリーツ状の柱の前で写真を撮る。
博物館で買ったアグリジェント遺跡のガイドによると、この付近の発掘は18世紀から始まっていたが、ここの神殿は1920年代に始まり、考古学美観公園として公団が設立されたのは2001年のことだそうだ。保護するべき所は保護し、開放できる部分は開放することで親近感と学術的研究部分とのバランスを上手く取っていると思った。イタリアに作り物のテーマパークは要らないのだ。
すっかり遺跡の空気と土埃を浴びて、タクシーでアグリジェントの旧市街へ行った。
寝るのがもったいないホテルで、朝もつい早く目が覚めて、朝焼けの景色を楽しみ、リゾート・ホテルのオシャレな朝食を楽しんだ。黄色いテーブルクロスに、大きなひまわりのアレンジ・フラワーが素敵に飾られ、周りに様々な、コンフィチュールやサンドウィッチ、シリアル、ヨーグルト、ハムやチーズ、ドリンク類が並んでいる。キュウリとトマトのあいのこみたいな野菜とモツァレラチーズとハムのゴマパンサンドが、感動的に美味しかった。非常食用に、1個ナプキンにくるんで頂いておいたが、とうとう食べる機会がなかった。
9時半に予約しておいたタクシーは、ドミンゴさんの弟の寡黙なエウジーニョさんが来て、アグリジェントまでの2時間、運転した。良い天気の中、高速道路を快適に行くフィアット。途中、オリーブ畑や風力発電の風車、草原の丘の中の一軒家など、写真を撮りまくる。
Agrigento アグリジェントは、ギリシャ人の遺跡で有名な街。道路からパルテノン神殿のようなテンプリが見え始めて興奮する。
車はそのまま坂を下って、やがてホテルCostazzurra コスタッツーラに着いた。グレイの壁に赤いアクセントの縁取りがついたモダンなデザインだ。目の前が廃墟のような、がらんどうの駐車場のような建物だが、ホテルそのものは感じ悪くない。フロントはむしろ親切で感じ良かった。まだチェックインには早い時間だったが、荷物は部屋に入れておいてくれる事になって、待たせてあるエウジーニョさんのタクシーで、とにかく遺跡エリアの中の考古学博物館へ行った。オジ様は、約束の150ユーロに10ユーロ足して、「マルサーラまで気をつけて」と言ってタクシーを帰した。
ここは世界遺産にもなっているシチリアを代表する国際的な遺跡とあって、博物館の売店も英語、仏語、独語もしゃべれる女の人が応対していた。パスネットみたいなプラスティックの差し込み式カードが遺跡の共通券になっている。
紀元前5世紀に、カルタゴ人によって滅ぼされたギリシャ人たちの、辛うじて遺った遺物が展示されている。外からはギリシャ人の円形野外集会場や、初期の教会の跡の建物が目につくだけだが、博物館の中に入ってみると、意外なほど大きく、しかも結構明るい。社会科の教科書や音楽史の資料に必ず載っているような、戦闘シーンや楽器を演奏するデザインの大きい壺、石像、杯、石棺など、マルサーラでも見た展示品と共通点もあるし、よりギリシャ色が濃くもある。
しかしここの一番の目玉は、テラモーネと呼ばれる、ドーリア式神殿の柱に付けられていた、屋根を支える人物像で、遺跡の中に横たわっていた物を、一体、博物館の大広間の壁に復元して掛けられている。とにかく大きい。他にも、頭部だけ3つ壁に掛けてあった。
考古学博物館は、見晴らしの良い丘にあるため、神殿があっちにも、こっちにも、と良く見える。神殿に向かって坂を歩いて下る。観光バスがひっきりなしに通る。ほどなく、テンプリ見学の拠点となるバスターミナルに着く。お土産店も兼ねたレストランがある。インフォーメーション小屋は、なぜか窓が閉まっているが、バス券を売っている店は開いている。レストランでピザとサラダを食べる。バナナシェイクを注文したが、冷たいのはカップだけだった。観光客でごった返していたが、次第に人が減り、ピザが来た頃はだいぶ静かになった。国際観光スポットのせいか、レストランのレベルにしてはトイレはちゃんとしていた。・・つまり便座があった。
さあ、いよいよ神殿(テンピ)に向かう。先程の共通カードを器械に差し込んで、地下鉄の3本遮断機のようなゲートを入る。テンプリ(テンピの複数形?)は3つ、約1キロに渡って並んでいる。先ず、ゆるやかな坂を上って、真ん中のコンコルディア神殿を目指す。写真のとおりの(って、かなり小さくて何だかわからないでしょうが・・)ギリシャのパルテノン神殿のような型(ドーリア式スタイル)としては、ギリシャの遺跡も含めて、保存状態が最も良い部類に入るそうだ。ギリシャは行った事がないので、比較できないけれど、間違いなく、かつて此処にギリシャ人が居た証拠だという、悠久の時間を実感できるような感動をして、また目を転じると谷の向こうの丘に現代(と言っても日本の物とは全く違う)のヨーロッパらしい家々、教会などの折り重なるような町並みの景色に妙な調和を感じて、それにも心奪われ、何よりも上天気の爽やかさに特上の心地良さで、ハイテンションにならずにいられない
コンコルディア神殿にたどり着くと、まだその先、更にゆるやかに上った先に、コンコルディアよりは崩れているジュノーネ神殿が見える。「元気だったら、ジュノーネまで行きましょう」と予めオジ様と話して歩き始めていたが、ここまで来てあそこまで行かない手は無い。途中、黄色い花、ケシの黄色や赤の花、濃いピンクの花などを愛でつつ、フランス人観光客、ドイツ人観光客、日本人観光客、それにイタリア人の小学生の遠足など、ガイド付きの集団の声に耳を傾けてみたりしながら、登って行く。一度、風で帽子がひらりと飛んでしまい、あわてて拾いに行くところをイタリア人の小学生たちに笑われた・・というより、妙にウケた。
生け贄を捧げたと言われる、一番奧で高台にあるジュノー神殿に着くと、ドイツ人観光客の一団が、最も奧の崩れて並んでいる石の上に、階段教室のように座って、ガイドさんの話を聞いていた。奥まっているのと、その他の遺跡もみな見下ろせる高台であるのと、更に生け贄を捧げたという伝承のせいか、なんとなく、観光気分だけではいられないような気がする場所だ。しかしとにかく見晴らしが良い。
コンコルディアとジュノー神殿の間には、アルコンソリウムという、天然の岩壁のようにも見える部分と、明らかに人の手によって築かれたと分かる部分から成る城壁があって、一部は墓地にもなっていた遺跡がある。こんな絶壁の上の城壁を築いていたのに、カルタゴ人に滅ぼされてしまったのでしょう? そしてそのカルタゴ人もローマ人に滅ぼされ・・その後も、ノルマン人やオスマントルコに支配され・・ずっと戦いの歴史だ。ヨーロッパは、20世紀おしまいになってやっとEU統合に至った。25世紀もかかって得た平和だ。でも、それもアメリカやロシア、アジアなどに対抗する勢力として固まろうとする、仮想の敵を見据えての仲間意識だ。それで現在はユーロが高くなり、成功していると云えるだろう。お陰で日本人はビンボ~だ。
・・とここまでは考えなかったけれど、人類の戦いの歴史を思うと、やはり現代に生まれてよかったなあとつくづく思いながら、Uターン。また坂を下って、再びコンコルディア神殿の横を通って、この神殿群(テンプリ)の入り口に近いヘラクレス神殿へ向かう。この神殿は、柱しか残っていない。前日にモツィアの遺跡の島に胸像のあったハードキャッスル卿が、このアグリジェント一帯の発掘をして、この柱を復元した漆喰の跡が見られる。ここは、自由に柱の間を歩き回ることが出来る。昔のNHKの番組”未来への遺産”の主人公になったつもりで、巨大なプリーツ状の柱の前で写真を撮る。
博物館で買ったアグリジェント遺跡のガイドによると、この付近の発掘は18世紀から始まっていたが、ここの神殿は1920年代に始まり、考古学美観公園として公団が設立されたのは2001年のことだそうだ。保護するべき所は保護し、開放できる部分は開放することで親近感と学術的研究部分とのバランスを上手く取っていると思った。イタリアに作り物のテーマパークは要らないのだ。
すっかり遺跡の空気と土埃を浴びて、タクシーでアグリジェントの旧市街へ行った。