ボリショイ・サーカスを見に行きました。
新聞社でくれた“B席引換券”を持って、ウチの家族3人と義妹と姪を誘って、5人で行きました。
朝10時半からの開演に合わせて、9時半からB席をA席やS席にグレードアップしたい人への受付をするというので、9時過ぎから行って並びました。
この日が横浜公演の初日で、主催者側の不手際で、並んでいた所はB席のままで良い方達の入場券引き換え口だったことが20分くらい経ってから分かり、グレードアップ窓口へ並び直し。
でも、中央正面の前から4列目。本来なら?5500のS席に?2000で座れるのですから、新聞社の(?)文化事業なんでしょうね。写真は、団員さんや動物との記念ポラロイド撮影が始まる前の様子。団員さん達は、舞台設定任務の他に、開演前も、休憩時間中も、終演後も、パンフレットを売り歩いたり、2箇所で記念撮影業務をするなど、休む間もなく営業にいそしんでいました。
ボリショイ・サーカスといえば、世界でも最もハイレベルの内容を誇る、有名サーカス団…というイメージだったのですが、先日見に行ったボリショイ・オペラほどは、《誇る》という感じは受けませんでした。むしろ、大人から子供まで、家族で安心して楽しめる《ファミリー向け》エンターテイメント、という印象でした。昔と違って、シルク・ド・ソレイユなども在るからなんですかねー?
出し物としては、体操競技の吊り輪を天井近くで見せる空中の女王が大変美しく、空中ブランコは元より、棒を継ぎ足してやはり空中で見せるアクロバットや、道具無しで二人のバランスだけで見せる男女の力技や、二人の男性が肩に掛けて支える平均台幅の板の上でのアクロバットなど、さすがバレエや体操競技の得意なお国柄、と感心しました。イヌ・熊・ネコ・馬の調教や、ジャグリング、八時二十分まゆ毛の楽しいピエロさん等も一流で、楽しい時間を過ごせたのですが、《感動》まで至らないのは、何なんでしょうね…?
子供の時と違って既に色々なモノを見てしまっているから…。
彼らのショウとしての意味が《感動》ではなく、《どーだ!》というエンターテイメントだから…。
そのどちらでもあるかも知れないし、どちらも違っているかも知れませんけど。何がどーなってるのか掴み切れないワクワク感が溢れるという程ではありませんでした。パンフレットを売り歩いているアクロバットのお兄さんの真面目そうな顔を見ると、「どんな経緯でサーカスやってるのかなー?」なんて、つい思ってしまいます。
自分がやっている活動と、つい照らし合わせて考えてしまう部分もあったりして。
考えてみると、私は小さい時から《どーだ!》が苦手で、ヒトが演るのは良いとしても、自分はそれだけでは納得が行かないので恥ずかしくて出来ない、無邪気さの無い子供でした。感情を込めた振りをして体を揺らしてピアノを弾いている子供を見ると、恥ずかしくて鳥肌が立つくらいイヤでした。
大人になっても本質的な部分は変わらないから、ショウアップの為にチェンバロ・シンセ・ピアノを渡り歩いて弾くのも「音色の違いに注目してもらう為」と理由を持たせないと出来ません。派手なアクションで弾き終わったり、これ見よがしなエレガントさを装ったりして演奏するのは、そういう音楽表現に必然性があるからで、そういう音が必要な時にはそういうアクションが必要だから演れるのです。
でも、《感動を与えたい》と思うのもおこまがしい話で、スポーツ選手や演技者でよくそういう事を言う人がいますが、私には違和感があります。《感動》は押し付けるものでも、与えるものでもない、受け取る側がたまたま感じるものだと思うんですけどねー。
そういう意味では、ボリショイ・サーカス団は、アナログな自然さで、正当的な良さがあったと思いました。
パンフレットの他、記念に、消しゴムと小さいマトリョーシカを買いました。
新聞社でくれた“B席引換券”を持って、ウチの家族3人と義妹と姪を誘って、5人で行きました。
朝10時半からの開演に合わせて、9時半からB席をA席やS席にグレードアップしたい人への受付をするというので、9時過ぎから行って並びました。
この日が横浜公演の初日で、主催者側の不手際で、並んでいた所はB席のままで良い方達の入場券引き換え口だったことが20分くらい経ってから分かり、グレードアップ窓口へ並び直し。
でも、中央正面の前から4列目。本来なら?5500のS席に?2000で座れるのですから、新聞社の(?)文化事業なんでしょうね。写真は、団員さんや動物との記念ポラロイド撮影が始まる前の様子。団員さん達は、舞台設定任務の他に、開演前も、休憩時間中も、終演後も、パンフレットを売り歩いたり、2箇所で記念撮影業務をするなど、休む間もなく営業にいそしんでいました。
ボリショイ・サーカスといえば、世界でも最もハイレベルの内容を誇る、有名サーカス団…というイメージだったのですが、先日見に行ったボリショイ・オペラほどは、《誇る》という感じは受けませんでした。むしろ、大人から子供まで、家族で安心して楽しめる《ファミリー向け》エンターテイメント、という印象でした。昔と違って、シルク・ド・ソレイユなども在るからなんですかねー?
出し物としては、体操競技の吊り輪を天井近くで見せる空中の女王が大変美しく、空中ブランコは元より、棒を継ぎ足してやはり空中で見せるアクロバットや、道具無しで二人のバランスだけで見せる男女の力技や、二人の男性が肩に掛けて支える平均台幅の板の上でのアクロバットなど、さすがバレエや体操競技の得意なお国柄、と感心しました。イヌ・熊・ネコ・馬の調教や、ジャグリング、八時二十分まゆ毛の楽しいピエロさん等も一流で、楽しい時間を過ごせたのですが、《感動》まで至らないのは、何なんでしょうね…?
子供の時と違って既に色々なモノを見てしまっているから…。
彼らのショウとしての意味が《感動》ではなく、《どーだ!》というエンターテイメントだから…。
そのどちらでもあるかも知れないし、どちらも違っているかも知れませんけど。何がどーなってるのか掴み切れないワクワク感が溢れるという程ではありませんでした。パンフレットを売り歩いているアクロバットのお兄さんの真面目そうな顔を見ると、「どんな経緯でサーカスやってるのかなー?」なんて、つい思ってしまいます。
自分がやっている活動と、つい照らし合わせて考えてしまう部分もあったりして。
考えてみると、私は小さい時から《どーだ!》が苦手で、ヒトが演るのは良いとしても、自分はそれだけでは納得が行かないので恥ずかしくて出来ない、無邪気さの無い子供でした。感情を込めた振りをして体を揺らしてピアノを弾いている子供を見ると、恥ずかしくて鳥肌が立つくらいイヤでした。
大人になっても本質的な部分は変わらないから、ショウアップの為にチェンバロ・シンセ・ピアノを渡り歩いて弾くのも「音色の違いに注目してもらう為」と理由を持たせないと出来ません。派手なアクションで弾き終わったり、これ見よがしなエレガントさを装ったりして演奏するのは、そういう音楽表現に必然性があるからで、そういう音が必要な時にはそういうアクションが必要だから演れるのです。
でも、《感動を与えたい》と思うのもおこまがしい話で、スポーツ選手や演技者でよくそういう事を言う人がいますが、私には違和感があります。《感動》は押し付けるものでも、与えるものでもない、受け取る側がたまたま感じるものだと思うんですけどねー。
そういう意味では、ボリショイ・サーカス団は、アナログな自然さで、正当的な良さがあったと思いました。
パンフレットの他、記念に、消しゴムと小さいマトリョーシカを買いました。