(津軽半島を龍飛岬へ向かう)
第2日目 午後 龍飛岬へ
< 太宰治記念館へ >
すでに午後1時をまわっていた。今、津軽半島の付け根の五所川原にいる。今から龍飛岬を経、今夜の宿のある平館まで行かねばならない。初めての地のドライブに、気は急く。
幸いにも、雨はやんだ。
国道339号線を走り、岩木川を縫いながら、金木に向かう。
急いでいても、みちのくにやって来た以上、金木の「太宰治記念館 斜陽館」だけは寄りたい。
初めて太宰治の作品、「斜陽」や「人間失格」を読んだのは、高3のころだった。私と同世代やそのあとに続く国文系女子に大変人気があった。が、当時の私は、所詮、女子学生の好みそうな作家だと思った。破滅的に人生を生きた (終えた) 作家の作品に、お坊ちゃんらしい「甘え」や「軽さ」を感じて、嫌いではないが、好きにはなれなかった。
とは言え、一世を風靡した作家であり、何よりも彼の人生に強いコンプレックスの影を落とした彼の一家の暮らした家 …… 大地主で貴族院議員であった父・津島源右衛門が明治40年に建てた彼の生家を見てみたかった。
太宰の生家は、津島家没落後、太宰の作品名から「斜陽館」と名づけられて、旅館となった。その旅館も廃業し、今は、「太宰治記念館 斜陽館」である。
車を置いて、道路を隔て、玄関に向き合って立つと、赤い屋根瓦がけばけばしく、周囲の家並みから浮いて見える。
しかし、中に入ると、青森ヒバを贅沢に使った、地方の名家らしい、ゆったりした造りは、いかにもおちつきが感じられて、好ましい。
太宰が自分の作品の題名にしたと言う「斜陽」の二文字が、襖の左から2番目の張り紙の終わりにある。
しっとりとした木の光沢を感じつつ階段を上がると、2階にはハイカラな洋風の部屋があった。
こういう古い家を見るのは好きである。暮らしてみたくなる。
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< 龍飛岬へ >
金木へ行く途中、ナビがあるにもかかわらず、かなり行き過ぎて引き返し、時間をロスした。
それで、「金木町津軽三味線会館」に入り、生演奏を聴くつもりだったが、カットして先を急ぐことにする。
国道339号線は十三湖の北岸に沿って走り、やがて日本海の海岸線に出た。
車を走らせながら、「窓いっぱいに日本海」を感じる。道は、遥かに、まだ見ぬ龍飛岬の方へ続いている。
やがて、小泊の「道の駅」。お天気も晴れ間が見えてくる。
以下、太宰治の紀行作品「津軽」から。
「十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。
…… お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の龍飛である。西海岸のは、ここでおしまひになってゐるのだ」。
「『越野たけ、といふ人を知りませんか』。私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへて、すぐに聞いた」(太宰治「津軽」から)。
故郷「津軽」をまわる旅の紀行は、最後に、子守として自分を育ててくれた「たけ」という女性を訪ねる旅で終わる。「津軽」を名作にし、今も人々から愛されるのは、「たけ」との再会があるからだ。
「たけ」は、津島家に子守として雇われ、病身の母親代わりになって、「私」をよちよち歩きの頃から育んでくれた娘である。「私」が少し成長すると、無学なはずなのに、読み書きや人の生き方まで諭すように教えてくれた。無学で貧しくても、真に賢い女性は、母のようにやさしく、大きい。
「たけ」は小泊港で暮らし、今は孫娘もいる。作家となった「私」は、そういう「たけ」に再会するのである。
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幕末の吉田松陰のころも、昭和の初めの太宰治のころも、そして、今も、小泊を過ぎると、もうそれ以上、海岸線を進むことはできない。国道339号線は山の中へ入って行く。
ネットの旅の情報コーナーに、180度のヘアピンカーブを切りながら徐々に山頂に近づいた先に、素晴らしい絶景があるとあったが、登るにつれて霧が出て、ついには5m先も見えないような乳白色の濃霧に囲まれた。対向車を恐れてライトを灯し、180度のヘアピンカーブを幾つも越えて、やがて道は峠を越え、下りになって、ついにたった1台の対向車に遇うこともなく、霧もウソのように晴れ、津軽半島のトン先に出た。
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< 「津軽海峡冬景色」を歌う >
広々とした露天駐車場に車を置く。ほとんど人も車もなく、観光バスが1台駐車し、露店が一つ出て、さかんに声をかけてくる。遠く、灯台のある丘の方に、観光バスでやって来たらしい人たちが少し見えた。
その駐車場の端近くに、「津軽海峡冬景色」の歌詞を刻んだ立派な石碑があった。
幸いにも、曇天だった空は青空がかなりの面積を占めるようになり、そして、この石碑あたりは、予想していたとおり烈風が吹きすさんでいた。
赤いボタンを押すと、石川さゆりの歌が、かなりのボリュームで流れたが、あたりに人はなく、しかも、烈風にかき消される。これ幸いと、二度も、石川さゆりとともに、心をこめて歌った。
「ごらんあれが龍飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が指をさす
息でくもる窓のガラス 拭いてみたけど
遥かにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡冬景色」
実は、今回、初めて、歌詞をつくづくと読んだ。
そして、ここ龍飛岬の石碑は、2番の歌詞が刻まれていることに知った。
しかも、歌のヒロインの「私」は、龍飛岬にいるのではない。連絡船に乗っていて、船は今、陸奥湾を出て、津軽海峡へ差し掛かっているのだ。
一人の見知らぬ船客が、自身の寂しさを紛らすためか、独り言のように、「あれが、本州の北のはずれの龍飛岬だよ」と教えてくれる。その言葉に人の温もりを感じ、息でくもる窓ガラスを拭いて、目を凝らして見たが、ぼんやりと陸影らしきものがあるだけで、遥かに霞んで岬は見えない。
歌は、我々の頭に一旦は、本州の北のはずれの龍飛岬のイメージをうかべさせ、しかし、結局、それはよく見えなかったと否定する。「私」の心の中は一層、悲しく烈風が吹くばかり。「あーあ」は、まさに演歌の風のうなりである。
心を込めて歌い、涙がにじんだ。
灯台の方から降りて来た、ツアーの添乗員らしい女性が、笑いながら、「歌っていましたね」と声をかけた。ツアーの一員だとまちがえたのかもしれない。
岬の最高峰らしい高台に、白亜の灯台がある。「灯台のある岬50選」の一つ。階段の坂道を上がる。
灯台は、どこも最果てにあるが、ここは本州の最果てである。本当に、いい灯台だ。
太宰治は、津軽半島の東海岸、外ヶ浜の方から龍飛岬に到達している。以下、「津軽」からの引用。
「ここは、本州の極地である。このを過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。
路が全く絶えてゐるのである。ここは、本州の袋小路だ。
読者も銘記せよ。諸君が北に向かって歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこにおいて諸君の路は全く尽きるのである」 (太宰治「津軽」から)。
太宰の「鶏小屋に似た」という比喩は、全く理解できないが、多分、太宰が見た集落から、今は、さらに観光用の舗装が伸び、海に切れ落ちる崖のそばまで、道路は続く。
断崖の端に、様々な石碑が建てられている。その中に、吉田松陰の詩碑があった。炎の形をしている。
以下は、司馬遼太郎 『街道をゆく 北のまほろば』 からの引用である。
「ペリー来航の前年の寛永五年(1852)、吉田松陰は十歳年長の友人の肥後人宮部鼎造 (テイゾウ) とともにこの地にきた。この旅は国防を憂える動機から出たものだが …… 」。
「かれは、竜飛崎へは日本海側から近づいた。旧暦三月四日、小泊で一泊し、翌朝、海岸を二里北上し、山に入った。むろん、鼎造とともにである」。
「全行程の半ばは沢渉りだった。谷川に沿ってのぼってゆく。川の水は膝に達し、川筋の残雪は脚を陥没させた。尾根にのぼると、また沢をくだる。その上下をくりかえした」。(司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)
ペリー来航で初めて日本人が鎖国の夢から覚めたように言うが、すでに大国・清がアヘン戦争に敗れ、民衆がアヘンを買わされていることを、日本の武士階級のなかの優れた人々は知っていた。当時、日本に武士という使命感をもった階級がいたことは、幸いとしなければならない。彼らは身分の上下を問わず、知る者から学び、情報を交換し、議論し、藩を超えて行動を起こした。
長州藩の兵学者の家を継いだ21歳の松陰も、「日本」の国防という観点から全国を見て回り、遥々と津軽半島までやって来た。今の暦で言えば4月の初め、まだ雪解けには早い季節に、当然のことながら徒歩で、津軽海峡を視察せんとした。ロシア軍艦を意識してのことである。視察の内容はすべて日記に、大言壮語の壮士風にではなく、のちに正岡子規が主張した「写生」の精神に似て、写生風に記録された。
自分を誇大に見せるような烈士・壮士の気分は、松陰にない。「公」のために全力で生きる熱い志をもつ。気質は晴朗で、やさしく、身分にとらわれず、人を人としてリスペクトする精神をもっていた。
幕末に、ここまでやって来た一人の若者のことに思いを馳せ、つい余計なことを書いた。
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< 平館村へ >
日は早くも傾いてきた。
龍飛岬を出発し、一路、平館村の不老不死温泉へと向かう。初めての道、海岸線の難路、日が暮れては、危うい。
途中、義経寺があったので、少し立ち寄ってみる。
以下、司馬遼太郎 『街道をゆく 北のまほろば』 から。
「マイクロバスから、降りた。国道の周辺が公園ふうに整えられて、すぐそばの山ぎわに、『厩石 (マヤイシ) 公園 三厩 (ミンマヤ) 村』と掲示板があげられている。かつて海中にあって浸蝕を受けた大きな岩礁が、公園の主役である」。
「(落ち延びて来た) 義経らは、ここから津軽海峡をわたろうとしたが、海が荒れて術がなく、やむなく念持する観音に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が立ち、竜馬を三頭あたえよう、という。
目がさめて、右の厩石 (マヤイシ) の洞をのぞくと、三頭の竜馬がつながれていた。それに乗って海峡をわたったという」。
「この三厩 (ミンマヤ) 村から渡海したというだけでなく、『目にも見よ』といわんばかりに、この国道わきからせりあがっている小山の上に、竜馬山義経寺という寺まで建てられている。江戸時代のことである」。
「寛文七年、円空がこの地にきて観音像を彫り、一堂を建てたのが、起源だという。のち義経寺という名になった」 (司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)。
太宰治も、友人のNくんとここに来ている。次は「津軽」からの引用である。
「『登ってみようか』。 N君は、義経寺の石の鳥居の前で立ちどまった。…… 私たちはその石の鳥居をくぐって、石の段々を登った。頂上まで、かなりあった。…… 石段を登り切った小山の頂上には、古ぼけた堂屋が立ってゐる。堂の扉には、笹リンドウの源家の紋が付いてゐる。私はなぜだか、ひどくにがにがしい気持ちで、『これか』 と、また言った。 『これだ』。 N君は間抜けた声で答へた」。
「 『これは、きっと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠そう それがしは九郎判官、してまたこれなる髭男は武蔵坊弁慶、一夜の宿を頼むぞ、なんて言って、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違ひない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけぢゃなく、江戸時代になっても、そんな義経と弁慶が、うろうろしてゐたのかも知れない』。
『 しかし、弁慶の役は、つまらなかったらうね 』。N君は私よりもさらに髭が濃いので、或ひは弁慶の役を押しつけられるのではなからうかといふ不安を感じたらしかった。 『七つ道具といふ重いものを背負って歩かなくちゃいけないのだから、やっかいだ 』。
話してゐるうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかったもののやうに空想せられ、うらやましくなってきた。『この辺には、美人が多いね』 と私は小声で言った」。 (以上、太宰治「津軽」から)。
息の詰まるような生家と故郷から逃れ、東京に出て、今は東京人になった太宰は、こんなバカげた伝説を伝える故郷を恥じ、それよりもそれを食い物にしながら自由に放浪する不良青年に、戯作者としての自分を重ねてみるのである。
司馬遼太郎は、「津軽」のこの部分を一部、引用しながら、さりげなく反論し、みちのくの伝説の数々は、その厳しい自然が作りださせたのだと書く。
「だからこそ、東北は、柳田国男の民俗学の宝庫だったにちがいない。…… おそらく、雪が伝承をつくるのに相違ない」。
「もし冬、私が雪のなかにいて、この三厩村で降る雪に耐えているとすれば、義経についての口碑は半ば信じたにちがいない。雪の下では、伝承のほうが美しいのである」。(司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)。
故郷を嫌悪する太宰は、自己をも嫌悪する。
司馬遼太郎は共感をもって津軽の人と風土を見る。その共感には、知性が感じられる。
高台の義経寺からの眺望は、予想したとおり、なかなかのものであった。夕暮れの陸奥湾の先に、明日、行く下北半島が、そう遠くない距離で見えた。
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平館の不老不死の湯に着く。
村里の素朴な旅館と思っていたが、旅館というより民宿だった。
明日は、フェリーで下北半島に渡り、龍飛岬よりもより最北端の大間崎を巡ったあと、一気に青森市まで下る予定である。「上る」という感覚には、なじめない。「下る」のである。