ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

本州最北端の波打ち際から大間崎灯台を見る …… 本州最北端への旅(5)

2016年08月25日 | 国内旅行…本州最北端への旅

  (大間崎の海岸から灯台を見る)

 早朝、平館村の不老不死温泉を発ち、国道280号を陸奥湾沿いに走って、蟹田港へ向かった。    

 蟹田港からは9時20分発の 「むつ湾フェリー」 に乗り、津軽半島に別れて下北半島へ渡る。フェリー会社に予約の電話を入れた時、余裕をもって、30分前までには港に来るように言われた。

 充分に、早く到着した。フェリーの名は、体型に似合わず、なぜか、「かもしか」。フェリーの前に、横向きに車を駐車させて、海を見ながら待つ。

 

 生まれて初めて車をフェリーに乗せた。初めての経験は、何事によらず、勝手がわからず、緊張する。

 下北半島の脇野沢港まで、約1時間だ。

 船の船室にいると、列車の座席では感じないのに、閉所恐怖症のように、息苦しさを感じる。1時間ぐらいなら、甲板に出て、潮風に吹かれながら、海を見ている方が楽しい。

 津軽半島が、遠く霞んで見えた。龍飛岬はここからは山蔭に隠れて、晴れていても見えないはずだ。

 

 甲板に人が増え、ざわめきが起こり、盛んに写真を写しだす。何事かと見ると、海にイルカの群れが泳いでいる。

 フェリーに並んで、「駆けっこしよう」、というように、どこまでもついてくる。

 みんなが甲板でシャッターを切る。周りのおじさん、おばさんたちに負けずに、写真を撮った。最近はスマホの方が綺麗に撮れることも多いが、さすがに、こういう動きのあるやや遠い被写体は、一眼レフが威力を発揮する。

 イルカたちはどこまでもついてきて、本当に人なつっこい。競争相手として不足はない、と楽しそうである。

 やがて、ふっとイルカたちがいなくなったと思ったら、船はだんだんと奇妙な岩礁に近づき、そばを通った。室内放送が聞こえたが、どうせ何かに似ていると言っているのだろう。灯台らしきものも立っている。

                       ★

 フェリーは下北半島の脇野沢港に着いた。

 「奥羽山脈は北にむかって勢いが尽きている。尽きた形が下北半島になって、柄を持つ斧のように海中に突き出ている。三方が海で、東が太平洋である。北は津軽海峡、西は内海をなし ……」  (司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』 から)。

 「内海」 とは、今、渡ってきた陸奥湾である。

 さらに、文章は続く。

 「荒蕪の地である。…… なにしろ夏には、オホーツクおろしともいうべき冷たい 『やませ』 が吹き、稲は育ちにくい」 (同上)。

 下北半島の最北端は、龍飛岬よりも北である。大間崎と言う。

 大間崎へ行く途中、佐井町に寄ることにしている。

 佐井港で遊覧船に乗り、「仏が浦」 と名づけられた浦に上陸して、奇岩奇勝を見る。

 私は、実は奇岩奇勝に興味がない。奇岩奇勝を求めるなら、西ヨーロッパに何度も繰り返して行くことはなく、ライオンの寝そべるアフリカの草原だとか、北米のナイアガラの夏でも涼しい滝壺だとか、グランドキャニオンだとか、南米のマチュピチュ遺跡だとかに行って、「目」を楽しませればよい。実際、おカネと時間があれば、いくらでもそういうツアーに参加できる。だが、私は生来出不精で、そういう所にわざわざ行きたいとは思わないのである。

 しかし、青森方面への観光ツアーの日程表を見ると、必ず「仏が浦」 に寄っている。よほどの奇勝なのであろう。それに、ふつう、善男善女は奇岩奇勝が好きなのである。

 で、考えた。せっかく最果ての地を訪ねるのだから、みちのくの奇岩奇勝も見て、「目」の保養としよう。

 ただし、下北半島にやって来た観光ツアーなら必ず寄る恐山だけは、敬遠する。

 私は日本の自然を愛し、古い神社の杜を吹くそよ風や、小鳥のさえずりや、樹木の小枝から漏れる日の光の中に、ふと神々を感じる。それが日本人というものだ。

 だが、異界のものが人にのり移るというシャーマニズムの世界は、いかにもおどろおどろしい。おどろおどろしいものには、近づかない。

 ついでに、奇岩奇勝に関する弁明をしておきたい。

 私が龍飛岬や大間崎に心惹かれるのは、そこが奇岩奇勝絶景だからではない。そこが「北の岬」であり、本州の最果てだから、行ってみたいと思うのである。わが「目」を楽しませるのではない。ロマンを求める「心」が旅立たせるのである。そこに奇岩奇勝絶景はないかもしれないし、また、仮にそこが絶景であったとしても、それはロマンの心の行き着いた「結果」に過ぎないのである。

 佐井港で昼食をとって、遊覧船に乗る。小さな船は満席である。その船が荒波をかき分け、飛沫をあげて高速で疾走する。約20分。

 私は泳ぎには多少の自信があるから、何かあっても海岸までたどり着けそうだが、まわりの乗客を見て、心配になった。船が出るのは天候次第とは、こういうことか。

 ともかく「仏が浦」の荒磯に無事到着。

 2キロに渡って、100mの高さの巨岩が連なる。

 パンフレットには、凝灰岩が風雨と荒波によって削り取られたものと説明があり、さらに「神のわざ 鬼の手づくり 仏宇陀 (ホトケウタ) 人の世ならぬ 処なりけり」 という大町桂月の歌が紹介されていた。「仏宇陀」の 「ウタ」 はアイヌ語で、浜という意だとも書いてある。

   それにしても、大町桂月という人は、どこにでも行っている人だ。

 

 ( 歩いている人と比べてください )

 

        ★  

 午後2時半。再びレンタカーに乗り、本州最北端の地を目指す。

 大間崎のあとは、下北半島を一気に下って、青森市郊外の浅虫温泉まで走らねばならない。津軽も下北も、最果ての地である。適当な宿を都合よく見つけて予約するということが、なかなかに難しかった。

 やがて、本州のゆきどまりに近づいていることが肌で感じられるようになり、小さな港町に入った。最果ての町、マグロで有名な大間町である。

 町を突っ切り、海に出ると、港の向こうに白と黒の大間崎灯台が見えた。岬まで、あと少しだ。           

 大間崎のトン先は、断崖の上ではない。

 目の前の、足元に、遠浅になった津軽海峡の波がひたひたと寄せている。

 「ここ本州最北端の地」と書かれた碑が立つ。  

  

 岬のトン先の波打ち際に座って、しばらく時を過ごした。

 本州が海に向かって切れ落ちた、人里離れた龍飛岬の上と違って、ここは人の生活のにおいがする岬である。

 「そこ (大間港) から津軽海峡20キロをまたげば、北海道である。函館へは30キロほどしかない。大間の人達は、冗談ながら、『函館市大間』などという。子供たちは函館のテレビの地方ニュースを聞いて育つ」(司馬遼太郎『街道をゆく 北のまほろば』から)。

 大間崎灯台は、「灯台のある岬50選」の一つであるが、岬の沖合600mの島に立っている。

 晴れていれば、その後ろに北海道の山並みがあり、函館山まで見えるそうだが、今日も曇天である。

 漁をしているのか、灯台の島のあたりにカモメが無数に群がり、また、この付近を飛び交っている。

 岬のすぐ背後の地には、土産物屋が並ぶ。木造りの公衆トイレは、ウォッシュレットだった。

 最果ての地を巡るこの旅で、公衆トイレはどこもウォッシュレットだった。むろん、清掃は行き届き、清潔だった。大阪や奈良の、多くのリピーターによって支えられている近代的な高層ビルの中のスーパーや駅のトイレは、(さすがに最近は綺麗になったが)、 その多くはまだウォッシュレットではない。

 「遅れた都会と進んだ僻地」という、カスタマーに対するこの奇妙な逆転現象は、多分、生きていくことに対する一生懸命さの差だと感じる。その健気さに敬意を表して、ガンバレ、下北、そして津軽。

  

 これから浅虫温泉まで、恐山の麓を通り、むつ市を越えて、そのあとは、陸奥湾を右手に見ながら延々と、もうどこにも寄らず、ひた走らねばならない。

 

         ★ 

 以前、このブログで、会津城の落城のことを書いた。 (大河ドラマ「八重の桜 ── 鶴ヶ城開城を」 を見て……エッセイ)。

 下北半島は、会津戦争の後、矢尽き刀折れて開城した会津の生き残りの士族たちが、移住させられ、寒冷と不毛の地で艱難辛苦した、あの歴史の舞台でもある。

 以下は、司馬遼太郎 『街道をゆく 北のまほろば』 と 『街道をゆく 白河・会津のみち』 からの拾い書きである ……。

 「会津藩の石高は最終期には役料をふくめて45万石とされたが、戦後没収され、下北半島(斗南)に移された。石高はわずか3万石だった。もっとも下北半島では米がほとんど穫れないために、その3万石も名目にすぎなかった。いわば、会津藩は全藩が流罪になったことになる」。

 「会津人たちはこの地を、『斗南』というあたらしい名でよび、以後、『斗南藩』と称することになった」。

 「斗南に移ったのは、そのうちの (会津藩士の戸数4000戸のうちの) 約2800戸、約14000人といい、べつに4300戸、17000人という説もあって、正確なことはよくわからない」。

 下北半島の中央部の田名部、現在のむつ市の付近が、その中心地であった。

 「藩では、かれらに支給する旅費さえ事欠いた。途中、新政府はその窮状を見かね、アメリカの汽船を雇って輸送したりもした。新政府の側に、内々、会津藩への処置が酷でありすぎたという反省がうまれていたのかもしれない。そのせいか、援助もした。明治3年7月、賜米という名目で、米4万5千石をあたえた。

 あらたに隣藩になった津軽藩も、親切だった。明治4年3月、1500両を賜り、うち500両は現金ではなく鋤・鍬など千挺という現物でもって支援した。

 斗南藩のみごとさは、食ってゆけるあてもないこの窮状のなかで、まっさきに田名部の地に藩校を設けたことだった。旧会津藩の藩校日新館の蔵書をこの田名部に移し、さらにあらたに購入した洋書を加えて、会津時代と同名の日新館を興したのである。

 おもしろいのは、かつての日新館が藩士だけの教育の場だったのに対し、田名部での日新館は、土地の平民の子弟にひろく開放されたことだ。この教育を通じて、この地方に会津の士風がのこされたといわれる」。

 だが、「農地の開拓は、大半失敗した。北海道に屯田兵として移住したり、遠くアメリカ合衆国のカリフォルニアへ移住した人達もいる」。

 最後に残ったのは、300戸程度だったらしい。

 「下北は …… 人材も生む。その理由は青森県人ならたれでも知っている。明治後、会津藩が藩ぐるみひっこしてきたからである」。

 「 明治34年東京帝大総長になった山川健次郎や、陸軍大将柴五郎、… 大正2年、大阪市長になった池上四郎もそうだった。池上は、助役としてまねいた関一 (セキ ハジメ。 のち市長) とともに、近代都市としての大阪の祖型をことごとくつくった人で、いまなお感謝されている。

 陸軍大将まで進んだ柴五郎は、「 晩年、少年期を送った斗南の地での飢餓と貧窮、さらには屈辱について書いている。……

 『 いくたびか筆をとれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして齢すでに八十路を越えたり 』。

 『 落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まことに乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり 』。

 …… 柴五郎の家は、280石という標準的な会津藩士だった。

 籠城中は、父や兄は城内にいた。幼かった五郎は本二ノ町の屋敷にいたが、ある日、郊外の山荘へひとり出された。

 そのあとに、祖母、母、姉妹がことごとく自刃した。末の妹は、わずか7歳だった。木村という家に嫁した姉も一家9人が自刃し、伯母中沢家も家族みな自刃した。かれらは、自発的に死をえらんだ。藩は婦女子も城内に入るようにといったのだが、彼女らは兵糧の費えになるということで、城内に入ることを遠慮したのである。

 歴史のなかで、都市一つがこんな目にあったのは、会津若松市しかない」。

 のち、東京帝大総長になった山川健次郎は、「戊辰戦争のとき、白虎隊にいったんは編入され、年齢が一つ不足していたために外された。このことが、生涯溶けることのない心中の病理になった。…… 日常、白虎隊の話になると涙のために言葉が出なかったといわれる」。

 その兄、山川浩は、藩の家老格の家柄であり、1866年、20台の初めに渡欧し、見聞を広めた。戊辰戦争のとき、日光口 (会津西街道) で土佐の谷干城が率いる政府軍と戦い、これを見事に防いだ。

 谷干城は、以後、終生、山川浩を尊敬し、戊辰戦争のあと、浩は谷の推挙で政府の軍人になる。元会津藩士が官途に着くのは難しかったころで、斗南藩の窮状の助けにならんとしたのである。

 明治10年の西南戦争のとき、熊本城にあって司令官を務めていた谷干城は、薩摩から破竹の勢いで攻め上ってきた西郷軍に包囲され、長期の籠城を強いられた。このとき、敵の包囲を打ち抜いて、最初に熊本城に援軍として入城したのは、中佐・山川浩であった。山川ら会津人にとって、自分たちが「朝敵」であったことなどは一度もなく、薩摩は、多くの死んでいった会津藩士たちの仇敵であった。

 のち、少将まで進み、貴族院議員にもなったのも、苦境にある元会津人を援助するためであった。

 「その晩年、旧藩のことを雪辱すべく」、史録 (『京都守護職始末』) を書いた。「堂々たる修史事業で、一人でできるようなものではなかった。幸い、9歳下の弟 (健次郎) がいて、これに協力した」。

 修史事業は、兄の死後、弟の健次郎が引き受けた。「ようやく明治44年、ひろく世間に売るということではなく、(政府に遠慮して) 旧藩の者にだけくばるという形で、刊行された。むろん、非売品だった。ひょっとすると、山川家の金はこのために尽きたのではあるまいか。わずか2年のあいだに3版まで版をかさねた。刊行と同時に、早くも古典のような評価をうけたのである」。

  なお、山川浩は、私の母校である東京教育大の前身、東京高等師範学校の初代の校長でもあった。文部大臣・森有礼に任じられた。今回、『街道をゆく』を再読するまで、知らなかった。

 私が在学したころ、東京教育大の中に、小さな森と池があった。占春園と呼ばれた。しばしば授業をサボって (そのため、卒業が危うくなった)、池のほとりで本を読んだ。その池のほとりに柔道の創始者・嘉納治五郎の銅像があった。そのため、長年、嘉納治五郎が初代校長だと思ってきた。今回、嘉納先生は、三代目の校長だったことを知った。同窓の方々には知られたくない、不肖の卒業生の話である。

        ★

 下北半島の歴史のひとこまを、少し引用した。引用しながら、涙がにじんだ。

 司馬遼太郎は、その数々の作品をとおして、西郷隆盛、大久保利通、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、村田蔵六といった、日本を新しい時代へと導いた人々を、骨太く描いてきた。しかし、敗者の側に立った人々についても、万感の思いを寄せて、描いている。

 歴史を語るとは、そういうことであろう。善悪二元論で歴史を裁いても、意味がない。

 皇国史観も、反権力闘争人民史観も、連合国史観も、まして空疎なナショナリズムの一種である中国共産党史観も、韓国反日史観も、歴史を語る、とは言えないシロモノである。

        ★

 暗くなって、浅虫温泉に着いた。棟方志功のゆかりの宿だった。 

 

 

 

 

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