(古代世界で三大図書館の1つとされたケルスス図書館の遺跡)
5月15日 午後 < バスは走る >
昼食後、トルコ石のショップへ寄った。買うつもりはなかったが、退屈なので「ショーケース・ショップ」をする。これはエレガントだ、と思うトルコ石の指輪の値段を店員に聞いてみたら、日本円で60万円だった。そうでしょう。良い物を見る鑑識眼はある。
それにしても、トルコツアーに入れば土産物店に連れていかれるのは仕方がないと思っていたが、ガイドのDさんが連れて行く店は高級品店ばかりだ。
エフェソスへ、バスで2時間半。
途中、人口360万。トルコ第3の都市イズミールを通った。
日本の都市と違って、なお伸びていこうとする大都市のエネルギーを感じる。
( 車窓風景 : 現在のイズミールの町 )
トルコでは、住んでみたい町のナンバーワンだとか。海に近く、明るく、暮らしやすい。国立大学が2つもあり、若者の街でもある。周辺のエーゲ海岸は古くからリゾートとして開発され、ヨーロッパからも人々が大勢やってくる。ベルガモンやエフェソスの遺跡観光の拠点としても人気がある。
( 車窓風景 : エーゲ海に臨むリゾート )
「イズミールはトルコの経済発展を象徴するような活気ある港湾都市だが、何とこれが古代都市スミルナの現代の姿なのであった」(辻邦生)
古代に栄え、今は廃墟になった都市が多いが、例外もある。
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トルコの高速道路沿いは、花が絶えない。
そうでなければ、豊かな田園地帯だ。
この季節、ピンクの花をつけた灌木をよく見かけた。夾竹桃に似ているが、そばで見ると違う。
( 車窓風景 : 快適な高速道路を走る )
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< 「聖母マリアの家」へ >
見学の都合上、まず、「聖母マリアの家」へ向かった。
「要らん(イラン)」という言葉がある。私的には、今回のトルコツアーは、「要らん」所に、ぎょうさん寄る。しかし、仕方ない。個人旅行では、トルコはちょっと無理なのだから。
「聖母マリアの家」も、本当は私にとっては「要らん所」だ。
イエスの母マリアは、イエスの死後、どこで暮らし、どこで没したのか。古来から、キリスト教会にとって、強い関心事だった。
新約聖書を子細に読めば、1世紀の使徒たちを中心としたキリスト教会の動向はある程度推論でき、伝説上からも、母マリアが余生を送った地はエフェソス、或いはその周辺ではないかと言われてきた。
そして … 、ここからが私が後ろを向きたくなるところなのだが、18世紀末に、一人のドイツ人の尼僧が、自分では全く行ったこともないトルコのエフェソスの近く、サモス島を見下ろす丘の上の小さな石造りの家に、聖母マリアが最後の日々を暮らしている幻を見た、と言ったのだ。
聖母マリアが現れたとか、聖母マリアの顕現した泉の水で病気が癒されたという話は、ヨーロッパのカソリック圏にはあちこちにあり、今も多くの信者が押し寄せている。まあ、それはそれでいい。
ただ、そういう、いかにも素朴で、ある意味、なまなましい宗教上の場に、日本の観光ツアー(日本だけではないが)が名所見物の一環として立ち寄るということに、私には抵抗がある。アンタッチャブル、そっとしておきなさい、と言いたくなる。
さて、ドイツ人の尼僧の話の続きだが、19世紀に彼女の言葉(証言)を頼りに探索が行われた。そして、19世紀末、これから見学する建物の下に、1世紀と4世紀の建物の壁の跡、そして7世紀に聖堂として建て替えられた跡が発見されたのだ。
もちろん、1世紀のものが重要で、そのあと、1度建て直され、さらに言い伝えられて、7世紀に聖母マリアを記念する聖堂になったというのである。
しかし、それだけで、そこが母マリアが暮らした跡であるというには、根拠が薄弱である。まちがいないことは、そこにローマ時代の石壁が残っていた、さらに7世紀の聖堂があったということだけである。
今ある「聖母マリアの家」は、18世紀の尼僧の証言を基に、1951年に再現された小さな石造りの建物である。ローマ教皇も訪れ、教皇の代理が毎年、表敬訪問し、今は信者たちの巡礼の地となっている。
── だが、と思い直す。現代に生きる「聖母マリア信仰」を思うから抵抗がある。
史実として、人間イエスには当然母がいて、その母マリアが多分、使徒ヨハネとともに、つまりこの辺りで、余生を送っただろうということに異を唱えるつもりはない。
これまで20年もヨーロッパの歴史と文化をめぐる旅を続けてきたが、ヨーロッパ文明と、古代、中世のキリスト教世界との対立葛藤、ダイナミズムは、ヨーロッパ文明を理解するうえで避けて通ることはできず、また興趣尽きないものがあった。
特にここエーゲ海沿岸の地は早くにキリスト教が伝えられ、初期のキリスト教会の動向を知るうえで必須の地である。なかんずく古代都市エフェソスは、12弟子の一人である使徒ヨハネが担当した教区と言われる。そこに、おそらく、母マリアもいた。
それなら、その時代の息吹を少しでも感じ取るために、「要らん」は棚上げしよう、と考え直した。
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その場所は、エフェソス遺跡から7キロほど離れた、人家もない山中である。バスは、「聖母マリアの家」を訪れる人々のためにわざわざ造られたと思われる山中の道路を、カーブを繰り返しながら高度を上げていった。
駐車場から徒歩でさらに行くと、開けた明るい空間に小さな小屋があった。近くには、病が治るという聖水が湧いている。小屋には父ヨセフと母マリアと、生まれたばかりのイエス。バチカンが贈呈したそうだ。
その横の石段を上がると、「聖母マリアの家」だ。
( 聖母マリアとイエス )
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< 使徒ヨハネと聖母マリアのことなど >
世界地図帳の中東の地図を開いて見る。
トルコは四角形をしており、東西に長い。
東西に長いその北側は、ヨーロッパ(中欧、東欧)。
東西に長いその南側は、地中海が西側の半分を占め、地中海の東側は、紛争の国、シリアとイラク。
シリアのすぐ南に、イスラエルとヨルダンがある。
現在のトルコ共和国の苦しさは、その地政学上の位置にあると言えるが、それはさておき、イスラエルは、もちろんキリスト教の発祥の地だ。そして、(トルコの)エーゲ海沿岸部には近いのだ。
西暦1世紀のころのトルコ、シリア、イスラエル、ヨルダン、そして地中海の南側へ回ってアフリカ北岸も全て、ローマの支配下にあり、平和で、繁栄していた。人々が信じる宗教については、非人道的な(例えば、人間を生贄にするといった)もの以外は、全て互いに認め合い尊重しあう世界であった。
このようなローマ世界の片隅のイスラエルのベツレヘムにイエスは生まれ、そして、エルサレムで処刑された。
使徒をはじめ、イエスの教えを信じた人々は、以後、ローマ世界の各地に散らばって宣教を始める。
各地と言っても、向かうのは自ずから都市部になる。エルサレムを追われた弟子たちが布教に行くとしたら、まずは繁栄するエーゲ海沿岸部の都市である。
当時、ローマ帝国のアジア州の首府であったエフェソスは、早くにキリスト教が入ってきた。おそらくエフェソスを中心とする一帯の教区を管轄していたのは、新約聖書の記事の断片から推測して、使徒ヨハネである。
もっとも、他者の信じる神を尊重するローマ世界の人々の中で、神は一人、あなた方が信じているのは邪教であり、祈っているのは悪魔であるとするキリスト教のことである。彼らが布教を行えば、おのずから衝突が起きる。自分の妻や子弟や召使が、いつの間にかこの秘密めいた、偏狭な宗教に取り込まれるというのは、許せることではない。ところが、自らの神を絶対とするこのグループは、批判しても妨害しても、布教をやめようとしないのである。市民と元老院の承認によって就任したローマ皇帝も、市民の訴えは無視できない。
キリスト教の側からいえば、それは迫害ということになる。使徒をはじめ、多くのキリスト教徒が殉教した。だが、迫害を力にして、彼らはローマ世界のなかに浸透していったのである。奴隷の中にも、市民の中にも、貴族の中にも。
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さて、使徒ヨハネであるが、新約聖書のヨハネ伝に、イエスが十字架上で命を引き取る直前のこととして、次のような記述がある。
「(十字架上の)イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」。
ガリラヤ湖のそばで、最初にイエスの弟子になった4人のうちの1人がヨハネである。12使徒の中で一番年下で、イエスが最も愛した弟子とされる。
11人の使徒のうち、殉教しなかったのはヨハネだけである。それは、母を託したイエス(神)の意思だったのかもしれない??
さて、使徒ヨハネはエーゲ海の島・パトモス島に流刑され、そこで「ヨハネの黙示録」を書いたとされる。やがて流刑から解放され、エフェソスで教えを説き、また、そこで「ヨハネによる福音書」を書いたとされる。エフェソスには、伝ヨハネの墓もある。
また、母マリアにも、エフェソスで余生を送ったという伝説がある。エフェソスは、古くから聖母マリアに対する信心が厚かったところでもある。ただし、墓はない。「聖母マリアの被昇天」。カソリックでは、マリアは今は天上のイエスの横にいることになっている。
ともかく、繁栄する古代都市エフェソスから7キロの山の中にひっそりと暮らせば、迫害を避け、安全だったろう。ヨハネの弟子や信者たちが訪ねて、必要なものを運んだに違いない。そして、マリアから生前のイエスの話を聴くことができた。
( 「聖母マリアの家」 )
小さな石造りの建物があった。さすがに、西欧系の見学者或いは信者が多く、少し行列に並んで、中に入った。
今日も30度を超す快晴で、内部に入ると暗かった。
室内は撮影禁止。
バチカンから贈られたという聖母マリアの金色の立像があった。バチカンが造った現代のマリアは、さすがに美しく、気品があった。
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< 世界最大級の古代都市遺跡エフェソスを歩く >
再びバスに乗って山を下り、世界最大級の古代都市遺跡エフェソスへ向かう。
現代のエフェソスは、アヤスルクという小さな村の一部に過ぎない。
アヤスルクの丘は、BC1000年ごろには、聖地として崇められていたという。やがてそこにアルテミス神殿が建てられた。
アルテミスという女神については、調べてみたが、私にはよくわからなかった。ギリシャ系の神々ではなく、元はこの地にいた先住民の女神だった、という説は本当だろうと思う。日本でも、縄文の神が弥生人に引き継がれ、祀られている。とにかく、古代都市エフェソスと言えば、アルテミス信仰だった。
アルテミス神殿は地震などで崩壊するたびに再建されたらしい。最後に再建されたローマ時代の神殿は、あのアテネのパンテノン神殿がすっぽり入るぐらい巨大だったという。
それより前のBC300年ごろ、アレキサンダー大王によって、当地の海岸部に港が築かれる。その港はやがてエーゲ海随一の貿易港として発展した。その過程で、エフェソスの中心もアヤスルクの丘から沿岸部に移動した。
BC133年には共和政ローマの支配下に入ったが、エフェソスは「アジア属州」の首府として発展し続け、ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。
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バスを降り、いよいよ世界最大級と言われる古代遺跡の中に入って行く。
まず目に入ったのは、オデオン(音楽堂)。
収容人数は1400人で、当時は木製の屋根があったそうだ。コンサートだけでなく、市民の代表者による議会も、ここで開催された。座席の下半分が大理石で造られているのも、そのためである。
( オデオン )
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クレテス通りの沿道には、石造りの建物の廃墟が並んでいる。
ガイドのDさんが、所々で、ここは〇〇神殿とか、門の石像彫刻は▽▽神とか、個人邸宅の床のモザイク画が残っているなどと説明してくれるが、これだけ多いと、その一つ一つはどうでもよいと思ってしまう。
( クレテス通り )
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Dさんの話によると、道端に置かれているニケのレリーフは、もともと近くのヘラクレス門のアーチとして飾られていた。ニケは勝利の女神。
( ニケのレリーフ )
スポーツシューズで有名なナイキの創業者はこの像を見て感動した。しかし、この像をそのまま使うわけにはいかないので、そのごく一部をデザイン化して、会社のロゴマークとした。
さて、どの部分でしょう??
Dさんの話も、創業者がこの像に感動した云々は、本当かどうか?? ただ、ナイキという社名がニケ(Nike)の英語読みであること、ロゴマークがこのレリーフからきていることは間違いない。
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正面玄関の遺構が最もよく残っているのは、AD2世紀の皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿。奥の方のアーチに彫られているレリーフはメドゥーサの像。
( ハドリアヌス神殿 )
ハドリアヌス神殿の近くには、娼館ではないかと言われる建物があり、また、細い道を入ると古代の公衆トイレもあった。下を流れが通って水洗式になっているが、個室にはなっていない。友人同士、おしゃべりしながら用を足したそうだ。
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数ある遺跡の中でも最も印象的だったのは、クレテス通りからマーブル通り(大理石造りの通り)への曲がり角にあるケルスス図書館の遺跡である。
「廃墟の美」という言葉がある。廃墟となった壮大な古代建築の、古びた大理石の色合いと、その陰影が、圧倒的に迫ってきた。
( ケルスス図書館 )
1塔は古び、1塔は遥かな昔に倒壊して、今は礎石が残るのみ。その礎石の柱の穴に雨水がたまり、もう1塔の姿を映して趣深い、と何かに書かれていた。それを読んだことのある人々は、寺を訪れると、柱穴の水に映る塔をさがしたものだ。近年、多くの尽力によって、目も鮮やかな朱塗りの塔が再建され、元のように2塔になった。それはそれで良かったが … 失われたものにも味わいはあった。日本の大和路の話である。
さて、この大図書館は、ローマ帝国アジア州の執政官だったケルススの死後、その息子が父の墓室の上に記念に築いたものだという。12000冊の蔵書があり、当時、アレキサンドリア、ベルガモンと並ぶ3大図書館の1つとされた。
正面の大理石の柱の間に、知恵、運命、学問、美徳を象徴する女性像が置かれて、美しい。
( どこの国の女性でしょう?? )
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もう一つ、心に残る遺跡があった。
古代の大劇場である。
演劇の上演のほか、全市民集会にも利用されたらしい。直径154m、高さ38mで、2万4千人を収容できた。
青空の下、しばらく石の席に座り、古代の夢でも見ていたい気分だった。
( 大劇場 )
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< アルテミス神殿と聖ヨハネ教会のこと >
「エフェソス見学の最後に、とてもいい撮影スポットに案内します。夕方になり、光線の加減もちょうど良いと思います」と、ガイドのDさん。バスで少し移動した。
バスを降りると、1本の円柱が建つ湿地で、ガチョウ??の群れが餌をさがしているばかりだ。
( アルテミス神殿の跡 )
ここはかつてエフェソスのシンボルであったアルテミスの大神殿があった跡である。7回破壊され、7回再建されたというが、今は柱が1本残るのみ。
世界初の総大理石造りで、アテネのパルテノン神殿がすっぽり入るぐらいの壮大なものであったと聞いても、想像することもできない。
大神殿は、AD3世紀に、大地震とゴード族の侵略によって破壊され、それ以後は修理もままならなかったそうだ。
やがてキリスト教がローマ帝国内に勢力を拡大して、国教化していく。これまでのギリシャ・ローマの神殿は異教のシンボルとして破壊され、或いはキリスト教教会に変えられ、アルテミス大神殿の遺構も他の建築の石材として奪われて、荒れるに任された。
だが、と、ガイドのDさんが言う。
手前に古代のアルテミス神殿の名残をとどめる円柱があります。
その向こうの右手には、かつて使徒ヨハネが晩年を過ごし、6世紀に、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスが教会に代えた聖ヨハネ教会の遺構が見えます。そこにはヨハネの墓もあります。
また、その左手には、14世紀に建てられたイスラム教のイーサーベイ・ジヤーミィ(モスク)があります。当時を代表する美しいモスクです。
3つの歴史的な遺産が一つの絵として納められる。これがトルコです。(なお、奥にある大きな建造物は要塞の跡)。
( 3つの遺跡が共存している )
キリスト教を国教化したテオドシウス大帝の死後、ローマ帝国は2つに分けられたが、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国の下でも、エフェソスはなお健在であった。依然としてアジア属州の首府であり、また、国教化したキリスト教の主教座も置かれて、東方教会の中心の1つであった。AD431年のエフェソス公会議は有名である。
だが、7世紀になると、2世紀ごろから進んでいたエフェソスの港の沈降が顕著になり、経済活動はすっかり衰える。そして、エフェソスの中心はもとのアヤソルクの丘の方に戻った。
7世紀初めにアラビア半島で起こったイスラム教は燎原の火のごとくに勢力を拡張し、東ローマ帝国に侵攻した。8世紀に至り、東ローマ帝国はエフェソスを放棄する。港が完全に埋まったのも、そのころだったという。
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今夜の宿のあるクシャダスは、トルコのエーゲ海有数のリゾート地。
もちろん、泊まったのは高級リゾートホテルではない。それでもなかなかオシャレなホテルだった。食事はもうひとつであったが。
( ホテルは海に臨む )