ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ダータネルス海峡を渡ってトロイ遺跡へ … トルコ紀行(4)

2018年07月08日 | 西欧旅行…トルコ紀行

( ダータネルス海峡を渡るフェリーからエーゲ海を望む )

第2日目 ( 5月14日 )  トロイへ

   昨夜はイスタンブール市内に入らず、空港に近いホテルに泊まった。

 今朝は7時半にバスに乗って出発。

   終日、バスの旅で、エーゲ海に臨むリゾートの町アイワルクまで走る。

 途中の観光はトロイの遺跡だけだ。

 トロイ遺跡は、観光客の目を喜ばすほどのものが残っていないから、イスタンブールから飛行機で一気にイズミールまで飛んでしまうツアーも多い。だが、見るほどのものはなくても、ここがあのトロイの跡だと思って、その場所に立ってみるだけでも興趣がある。

 それに、今日のもう一つの楽しみは、ダータネルス海峡をフェリーで渡ることだ。ダータネルス海峡も、目に映じるのは茫洋とした単なる海かもしれないが、しばしば歴史の舞台に登場する海峡を目にする機会は捨てがたい。

 とは言え、イスタンブールからトロイまで330キロもある。休憩時間や昼食時間は別にして、正味5時間半かかる。さらにトロイからアイワルクまで150キロ。2時間半。8時間もバスの中だ。

 これがトルコ旅行。覚悟がいる。

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マルマラ海の北岸を走る >

 昨夕、イスタンブールの空港に、トルコ人の女性ガイド・Dさんがツアー一行を迎えに来てくれた。これから旅行中ずっと、この人がガイドをしてくれる。トルコの名門大学・アンカラ大学の日本語学科卒。達者な日本語で、トルコ政府の通訳として何度も日本を訪れていて、日本通だ。ガイドとしての説明もしっかりしていて、トルコの歴史と文化を日本人に伝えたいという熱を感じる。今まで経験したツアーの中で、一番中身のあるガイドだ。もちろん、トルコ政府のガイド資格を持っている。

 バスはイスタンブール郊外の市街地を出て、田園地帯に入った。左手にマルマラ海を見ながら、その北岸(ヨーロッパ側)を西へ西へと走る。

 豊かな田園地帯だ。

   ヨーロッパでも、作物を育てるのは不向きだと思われる石ころだらけの土壌の土地や、いかにも荒涼とした土地もあるが、トルコは緑に恵まれた豊かな農業国のようだ。

    ( 車窓風景 : 耕作地が広がる )

[ ガイドの話 ] マルマラ海には2つの島があり、そのうちの1つは古来から有名な大理石の産地だった。大理石のことをギリシャ語でmarmarosという。マルマラ海の名は、これに由来する。大理石の海だ。

 湖のように四面を大地に囲まれた、トルコの内海である。東西に長く、280キロ。その東の端にイスタンブールがあり、そこからさらに東は、ボスポラス海峡によって黒海につながっている。

 マルマラ海の西の端はダータネルス海峡につながり、海峡を抜けるとエーゲ海に入る。そのエーゲ海側に、古代都市のトロイはあった。やはり海上交通の要衝の地である。

 イスタンブールからマルマラ海に沿う280キロはなかなかの距離で、途中、2度トイレ休憩。その一度はトルコの名品であるカシミア製品の店で、ショッピングの時間も入れた長い休憩時間だった。その休憩の間にトルコのお茶、「チャイ」を飲んでみた。見た感じ、紅茶に似ているが、紅茶よりコクがあって、結構イケると思った。

 2度目の休憩の後、バスの車窓にダータネルス海峡が見えてきた。 

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ダータネルス海峡を渡る >

  ( 車窓風景 : ダータネルス海峡 )

 ボスポラス海峡の長さは30キロ。最も幅の狭い箇所は、0.8キロ。

 ダータネルス海峡の長さは60キロ。最も狭い箇所は1.2キロ。

 海峡沿いに、バスは走った。

 やがて、海峡が終わり、トルコの大地も尽きて、エーゲ海が開けるという所に港があり、そこからバスごとフェリーに乗船した。

 

    ( 港で釣りをする人 ) 

 マルマラ海もエーゲ海も、地図上ではごく小さな海に過ぎないが、実際に 船上から望むと、やって来たマルマラ海の方を見ても茫々と海は広がり、反対側のエーゲ海も海峡が大きく開いて、遥かである。(冒頭の写真)。

 1時間足らずで、遠くに見えていた対岸・アジア側の町が近づいてきた。

 

   ( ダータネルス海峡のアジア側 )

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トロイの遺跡 >

 西へ西へと走ってトルコの大地が終わった所から、今度はエーゲ海の東岸に沿って、南へ南へと南下する。

 アジア側と言っても、かつてエーゲ海の沿岸は古代ギリシャ、ローマ文明が花開いた地である。

 トルコ旅行の最初の3日間は、エーゲ海に沿って、ヨーロッパ文明の発祥の地の跡を巡る旅である。

 途中、レストランに寄って昼食をとり、トロイに着いたのはすでに午後3時だった。

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  ( トロイ遺跡の入口に設置された「木馬」 )

 シュリーマンは、19世紀(1822~1890)の人である。実業家として成功し、財を成した後、子どものころに聞いたホメロスの叙事詩『イーリアス』の物語が忘れられず、41歳の時に、伝説のトロイの発掘を志した。

 すでに、専門家によるトロイ探しは行われていたようだが、彼が偉かったのは、『イーリアス』を徹底的に読み込み、現地を実地に歩いて、ヒサルルックの丘こそその場所だと見当をつけたことにある。それからあとは、豊富な財力を使って発掘調査を進め、ついに「トロイの財宝」を発見するに至る。

 彼は、これこそホメロスが描いた「トロイ戦争」のトロイに違いないと確信した。だが、その後も専門家による本格的な発掘調査は継続され、その結果、トロイ遺跡には9層に渡る都市遺跡が重なっていること、シュリーマンが発掘したのはその第2層で、BC2500年~BC2200年ごろの「トロイ」であること、彼が目ざした「ホメロスのトロイ」はBC1200年代のもので、9層のうちの第7層であったことが、彼の死後に確認された。

 しかも、シュリーマンの乱暴な発掘作業によって、第7層は壊されていた。このことを非難する専門家もいるが、当時の考古学の発掘作業そのものが今のレベルから言うとかなり未熟だったから、仕方がなかったという意見もある。

 では、シュリーマンの発掘した「BC2500年~BC2200年ごろのトロイ」は、全く見当違いの0点だったのかというと、そうとも言い切れない。

 ホメロスはBC800年ごろの人で、トロイ戦争からすでに400年の歳月が過ぎていた。ホメロスは、シュリーマンが少年時代に『イーリアス』に感動したように、伝えられていたトロイの伝説を聞いて、胸をときめかしたのだ。そして、成人して、自分の文学的才能を大いに発揮し、少年時代に聞いた伝説を素材にして、それに生き生きと肉付けをし、一編の優れた叙事詩として完成させたのである。

 では、少年時代にホメロスが聞き、後に『イーリアス』になった「伝説」の中身はどういうものだったのだろう??

 そもそも伝説・伝承というものは、長い歳月をかけ、幾世代の人々の口伝えで、雪だるまのように膨らんできたものだ。元の核となる話に、それぞれの時代の話が混同して膨らみ、さらに、こうあってほしいという人々の願いも加えられる。ホメロスが少年時代に聞いた伝承も、そのようにして形成されたものであろう。

 とすれば、『イーリアス』の原型となった伝承は、BC1200年代の「トロイ戦争」の伝承が核となっているのだろうが、より古い時代、例えばBC2500年~BC2200年ごろの「トロイ」のことを伝える伝承も、BC1200年より後のBC800年ごろまでに起こった事実も付け加えられ、雪だるまのようにふくらんだ伝承であったと考えるべきである。

 3女神が「誰が一番美しいか」と争った話は、BC2500年~BC2200年ごろにはすでに生まれていた話かもしれないし、知恵の将軍オデッセウスの木馬は、BC1000年ごろに形成された伝承かもしれない。

 そのように考えれば、シュリーマンが発掘した「トロイ」は、BC1200年代の「トロイ戦争のときのトロイ」ではないかもしれないが、「『イーリアス』のトロイ」でないとは、一概には言えないということである。

 とにかく、ヒサルルックの丘に「トロイ伝説」の遺構があると考え、事実、「トロイの伝説」を発見したのはシュリーマンなのだから。

 いずれにしろ、遥かな歴史の彼方のことである。

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 発掘され、我々が今、目にすることができるのは、城塞の城壁の一部だけ。古びた石の間から赤い野の花が咲いていた。

 この城塞の周辺部に都市があったかどうかも、まだわかっていない。そこまで発掘の手がまわっていない。今、残っている城壁は、第6層のものである。

    ( 城壁の跡 )

      ( エーゲ海を望む )

 遺跡の端に立つと、畑の広がりの先に、エーゲ海が見えた。

 トロイを攻めるギリシャの軍船が帆を連ねた当時の海は、この城塞にもっと近かったとされる。それはそうだろう。

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 さて、シュリーマンの発掘した「トロイの財宝」は、今、どこにあるのか??

   松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々 ── エピソードで綴る激動のトルコ』(中公新書)によると、シュリーマンは、発掘した「トロイの財宝」を、トルコ政府との協定を破って秘かに持ち出し、アテネの自邸に展示した。

 当然、トルコ政府をはじめ各方面から批判を浴びた。

 その後、彼はそれをすべて、ドイツに寄贈した。「財宝」はベルリンの博物館に展示された。

 第二次世界大戦のとき、ベルリンは激しい空爆と、さらにソヴィエト軍の侵攻によって破壊され、その混乱の中で、「トロイの財宝」は行方不明になった。焼失してしまったとも考えられた。

 ソヴィエトの崩壊後、モスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に「トロイの財宝」が眠っていることが判明した。

 今、「トロイの財宝」は、プーシキン美術館で公開展示されている。

 そして、トルコ、ドイツ、ロシアが、それぞれ自国に所有権があると主張し、決着はついていない。

 シュリーマンは、伝記上の人物として、世界の人々に尊敬されているが、「トルコでは最も人気のない外国人の一人である」(同書)。

 もちろん、われらのガイドのDさんは、トルコに返還すべきだと、強い口調で主張した。

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 1時間ほど、トロイ遺跡を見て、またバスに乗り2時間30分。午後7時過ぎに、海岸のそばのリゾート風のホテルに着いた。

 朝、7時半に出て、12時間。そのほとんどがバスの中だった。

 

 

 

 

 

 

 

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