ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

古代都市ベルガモン遺跡を見学する … トルコ紀行(5)

2018年07月19日 | 西欧旅行…トルコ紀行

     ( アクロポリスの青い空 )

   エーゲ海の青い空を背景に建つトラヤヌス神殿の廃墟は、この旅の中でも最も印象に残った風景の一つであった。

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第3日目 5月15日 午前 

 朝、アイワルクのホテルを出発し、バスで1時間のベルガモン遺跡へ向かう。

 午後は、ベルガモンからバスで2時間半のエフェソスの遺跡を見学する予定だ。

< 古代都市ベルガモンのこと

   ベルガモン王国は、アレキサンダー大王(BC356~BC323)の死後に生まれたギリシャ系ヘレニズム諸国の一つ。王国となったのは紀元前の241年。古代都市ベルガモンを都とし、エフェソスがその外港だった。

 BC129年、王国は共和政時代のローマに吸収合併され、ローマの属州の一つとなった。「アジア属州」である。ただし、その中心都市として、古代都市ベルガモンもエフェソスも繁栄を続けた。

 古代都市ベルガモンの繁栄はAD3世紀ごろまで続くが、ローマ帝国の弱体化とともに衰退し、やがて異民族の侵略にさらされて、歴史の中に消えていった。

   19世紀にドイツ人によってその遺跡が発見され、本格的に発掘されるまで、この古代都市は眠り続けた。

 古代都市ベルガモンの遺跡はエーゲ海から内陸部へ25キロほど入ったところにあり、広々とした野の中に散在している。

 今回、バスやロープウエイで移動し、そのうちの2か所を見学した。一つは古代の総合医療センターの跡とされるアスクレピオン、もう一つは古代都市ベルガモンの中心・アクロポリスの丘の遺跡である。

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< 古代の総合医療センター・アスクレピオン

 アスクレピオンは、医術の神「アスクレピオス」を祀る神殿を中心にした古代の総合医療センターのことである。BC4世紀からAD4世紀に渡ってこの地で活動した。古代のことであるから呪術的な要素を多分に含んでいるのはやむをえないが、当時しとしては最先端の病院施設の跡である。

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 バスを降り、アスクレピオンへの入口までやって来ると、突然、野っ原の中に、崩れた大理石の列柱が現れた。

 この通りは、古代、「聖なる道」と呼ばれ、アスクレピオンに通じる道路であった。馬車の通る石畳の車道と、列柱をはさんでその横に石畳の歩道がある。我々ツアーの一行は、何故ということもなく、或いは、日本人らしくと言うべきか、全員が古代の歩道の方を歩いた。

 朝まだ早いせいか、若者グループや家族づれの西欧系の観光客はまばらだった。

   ( 石畳の車道の横に歩道もある )

 「聖なる道」の先には、大理石で造られた長い地下道(トンネル)があった。

 古代には、足元を細いせせらぎが流れ、古代人はその水音に耳を澄ませながら、暗い地下道の中を神殿の方へと誘われていった。一種の心理療法的効果をねらったのかも知れない。

   ( 地下道の跡 )

 地下道を抜けると、広場に出た。

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 広場の入口にヘビの彫刻を施した円柱があった。脱皮するヘビは、再生のシンボルと考えられていたという。

   ( ヘビのレリーフの円柱 )

 広場の中央付近に聖なる泉の跡があったが、今は涸れている。当時はここで身を浄めた。

 広場の周辺には、神殿、医療施設、宿泊施設のほか、医学書を集めた図書館などもあったそうだが、今は礎石と列柱が残るのみ。宿泊施設に泊まって、その夜見た夢を参考に治療法が決められたという。

   ( アスクレピオンの広場周辺 )

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 遺跡の石の間に、赤い野の花が咲いていた。

 

     ( 廃墟の野の花 )

辻邦生遥かなる旅への追想』から

 「私がより強く心をときめかしたのは、ベルガモの遺跡で、野生の、一重の赤いアネモネの花を見つけたときである」。

若山牧水の歌 

 「かたはらに 秋草の花 語るらく

   滅びしものは なつかしきかな」

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 広場の横には劇場があった。古代ギリシャ・ローマ時代の円形劇場としては小ぶりだか、ここでは音楽療法も試みられていたそうだ。

      ( 劇場 )

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 こればかりの遺跡であるが、興趣があった。

 最初の、列柱の連なる「聖なる道」の入口に戻り、バスで野の道をアクロポリスへと移動する。

     ( バスで移動する )

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< アクロポリスの丘の遺跡 >

 アクロポリスの丘に上がるロープウエイ乗り場まで、直線距離にすると2キロ少々だが、バスは15分ほどかけて、野や丘の道を通って移動した。5月とはいえ炎天下の下、遺跡の中をかなり歩く上に、この距離を徒歩で行くのは大変である。だから、個人、グループで訪れる場合は、タクシーをチャーターするようだ。

   アクロポリスの遺跡は標高335mの丘に上にある。

     ( アクロポリスの丘からの眺望 )

 アクロポリスとは、その都市のシンボルとなる神殿が建てられた丘のことである。有事の際には市民こぞってここにたて籠もる。当然、城壁もあり、防備の用意もある丘である。

 かつてシチリア旅行したとき、海を見下ろすアクロポリスの丘の廃墟を幾つか見学して感動した。( ブログ「シチリアへの旅」の7、8、11 )

 だが、ベルガモンはエーゲ海から25キロほど内陸に入った所に栄えた都市で、眼下に海を見下ろすことはない。

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 アクロポリスの丘には、図書館の跡、トラヤヌス神殿、劇場、ゼウスの大神殿の跡などがある。

 ペルガモン王国が当時の地中海世界で屈指の文化水準に到達していたことを示すのは、かつてこの丘に存在した図書館である。エジプトのアレクサンドリアの図書館に次ぐ20万巻の蔵書を誇っていた。

 書物を編むためにはパピルスが必要であったが、エジプトのプトレマイオス朝が品不足を理由に輸出を禁止した。そこで、ベルガモン王国は羊皮紙を発明した。以後、良質の羊皮紙の産地としても有名になった。

 ただし、図書館があった場所も、今は何もない廃墟である。

 

   ( 図書館の跡 )

辻邦生遥かなる旅への追想』から

 「この春、訪ねたトルコの地中海側のベルガモ、スミルナ、エフェソスなど古代都市の名は『ヨハネ黙示録』の中にアジアにある7つの教会の所在地として出てくる。古代都市スミルナは現在は広大な港湾都市イズミールとして発展しているが、ほかの都市はほとんど昔日の面影はなく、小さな村落のそばに打ち棄てられた廃墟の石だけが青草のなかに散在している。

 たとえばベルガモのアクロポリスの丘には見事なディオニュソス劇場と並んで図書館跡があるが、かつて20万冊の本を集めた図書館を偲ばせるものはどこにもない」。

        ★

 トラヤヌス神殿は、ローマ皇帝で5賢帝の一人であったハドリアノスが、同じく5賢帝と称せられる前帝トラヤヌスのために建てた神殿である。

 だが、すでに2千年近い時間を経て、今は石積みの土台部分と石柱の一部を遺すのみ。

 5月とはいえ30度を超えるエーゲ海地方の真っ青な空をバックに、大理石の柱と台座の白がコントラストを成して、この旅の中でも最も印象に残った光景の一つであった(冒頭の写真)。

 

 ( トラヤヌス神殿の遺跡 )

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 アクロポリスの遺跡に残る劇場はかなりの急斜面に造られていた。これほどの急斜面の古代劇場は珍しいという。眺望が良いのは言うまでもないが、ここき音響効果もまた非常に良いそうだ。

 観覧席は82段あり、約1万人が座ることができたという。

  ( 劇場の遺構 )

 劇場の東にはアテナ神殿があった。有名な「瀕死のガリア人」などの彫刻群で飾られていたというが、今は、何もない。

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   劇場の南には、BC180~170年ごろに建てられたゼウスの大神殿があった。ヘレニズム美術を代表する建造物である。だが、今はわずかに基礎壇が残っているだけで、その壮麗さを想像することもできない。

 大神殿の祭壇は、コの字型の列柱式回廊と、大階段と、台座で構成され、台座を囲む大理石の壁は、神々と巨人との戦いを描いたレリーフで飾られていた。そのレリーフは、高さ2.3m、延長すると何と113mになるそうだ。

 19世紀にドイツ人考古学者によって発掘され、レリーフで飾られた大理石群などすべてが船でベルリンに運び出された。

 今はベルリンのベルガモ博物館の中に、2200年前の巨大な神殿が復元され、展示されている。ベルリンに行って見学するものと言えば、「ベルリンの壁」と、日本人なら森鴎外の「舞姫」に登場するウンター・デン・リンデン通り、あとはこのベルガモ博物館である。

 これら古代ギリシャ・ローマ系の遺跡や出土した美術品が誰のものか、或いは、どこの国の所属とすべきかということについて、私には明快な答えはない。

 トルコは当然、ドイツを非難する。

 ドイツに言わせれば、西欧諸国の中でも遅れて出発した我々は、大英博物館やルーブル美術館の真似をしただけだと言うかもしれない。

 それに、19世紀当時のオスマン帝国に、古代ギリシャ・ローマの遺跡を人類の遺産として大切にしようという意思があったとは到底思えない、と言うだろう。我々は「人類の貴重な宝」だと知っていたから、破壊されないようにドイツに持ちかえり、しかもそれを当時のままに蘇らせたのだと。

 そもそも、これらの遺跡は、確かにオスマン帝国領にあったが、オスマン帝国が当地に侵略してくる以前は、そこは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)であり、民族で言えば古代からギリシャ系の人々が暮らし、文明を築いてきた歴史がある。

 だがしかし、と、今のトルコ共和国は言うであろう。トルコ国民は多くのギリシャ系の人々を含む多様性をもった共和国であり、歴史も文化も、ギリシャ的要素を含んでいるのだと。

          ★

 参考までに、前掲の松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』から要約・引用する。

 「トルコ人の多くは伝統的にドイツに親近感を抱いている。今日のトルコにとって政治・経済・文化などあらゆる分野でもっとも緊密な関係にあるのはドイツである。ドイツには多くのトルコ人出稼ぎ労働者とその家族が住んでおり、その数は200万人とも300万人ともいわれる。ドイツも国際社会において、他のいずれの諸国よりも、トルコに対しては好意的な態度を示してきている」。(注: ただし、ごく最近のトルコについて言えば、エルドアン大統領はかつての敵対国ロシアに接近し、一方で、非EU・非NATO=非ドイツ的態度をとりはじめている)。 

 「しかしながら、オスマン帝国末期にトルコ各地の古代遺跡から発掘された財宝や古美術品などを国外に持ち出したドイツには手厳しい批判がある」。

 「ベルガマの遺跡を見たければ、トルコではなくベルリンのベルガマ 美術館に行くべきだという人さえいる」。

 「ベルガマから発掘された彫刻や古美術品などのめぼしい出土品はすべてドイツへ運び出されたのだ」。

 「ベルガマだけでなく、トロイの出土品も不法に国外に持ち出された」。

 「トルコは過去の苦い経験から『怨念』ともいえるほど、古美術品の流失を防ぐことに躍起になっている」。

 同書によれば、かつて日本人女性の旅行者が、トルコの空港のセキュリティ・チェックのとき逮捕された。地方都市の土産物店で買った青銅製品を持っていたためである。警察は地元の博物館の研究員に鑑定を依頼した。その結果、青銅製品は骨董美術品とされた。こうして彼女は起訴され、無罪の判決を勝ち取るまでいやというほどの苦渋を味わった。

  「この事件から十数年過ぎた現在でも、在トルコ日本国大使館は『犯意の有無やその値段など問うところではないので、どんなことがあっても古美術品とおぼしき物品には手を出してはいけない』と注意を呼びかけているぐらいである」。

 (この日の午後は次回へ)

 

 

 

 

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