ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

リンドスのアクロポリスと群青の海① … わがエーゲ海の旅(8)

2019年07月27日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

リンドスのこと >

 リンドスは、ロードス島の北端の町ロードスから、東海岸を55キロ南へ下がった所にある。

 路線バスで行けば1時間20分だが、船で行くことにした。片道2時間弱の船旅だ。

 リンドスの歴史は古い。古代において、ロードスは新興都市だった。

 リンドスのアクロポリスは、海面からの高さが116m。要塞のようにそびえる岩山の上にある。

 遠い昔、ドーリア人によって建設されたらしい。

 丘の上のアテナ神殿が壮麗な大理石造りになったのは、BC300年ごろである。

 

 その後、ロードス島の中心は、徐々に新興都市ロードスの方に移っていったが、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代にも、リンドスのアクロポリスには相次いで新しい神殿が建設され、発展を続けた。

 たが、東ローマ帝国の時代になると、ロードス島は辺境の地となり、ヨーロッパ世界の支配的な宗教もキリスト教になったから、この丘はすっかり顧みられなくなっていった。

 時は流れて1309年、エルサレムから追い出された聖ヨハネ騎士団がロードス島にやってきた。彼らは本拠をロードスに置き、その出先として、リンドスのアクロポリスも要塞化して、海をわずかに隔てた小アジアに君臨するオスマン帝国と対峙したのだ。

 今、海上からアクロポリスの丘を見上げると、そこが神々のすむ聖なる地であり、また、天然の要害であったことがよくわかる。

 丘の上に立つと、古代ギリシャ時代、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代、さらに聖ヨハネ騎士団の時代の遺跡が重なりあっており、群青のエーゲ海を見下ろすことができる。

 石の廃墟と紺青の海のコントラストは美しい。

 丘の麓には白い家々が集落をつくり、白い壁の間を縫うように石畳の道を上がっていけば、自ずからアクロポリスの丘に到達する。

 白い家々の下の海岸には透明度の高い海があり、海辺には、貸パラソルと寝椅子がぎっしりと並んで、遺跡なんかどうでもいいというふうに、若者や家族連れが人生のひと時を楽しんでいた。

 

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マンドラキ港から船に乗る >

 5月16日(木)。

 ロードス島へ着いたのは昨日。

 着いてすぐに、新市街にあるホテルから、旧市街の一角を経て、南北に連なる2つの港のあたりを散策した。

 随分、よく歩いたと思った。

 ところが、今朝、ホテルを出てからマンドラキ港の北端に建つエヴァンゲリスモス教会まで数分もかからなかった。目と鼻の先なのだ。

 そういえば、昨夜、ホテルの部屋のテラスから、エヴァンゲリスモス教会の塔がすぐ近くに見えていた。 

 初めての道は、遠く感じる。一度歩いてみると、近くなる。

 一人で、犬と散歩する人がいる。

 昨日までいたアテネと比べると、なんという違いだろうと思う。朝の空気は爽やかで、海が広がり、気持ちがのびやかになる。

 昨日の午後、多くの観光客で賑わっていたマンドラキ港沿いのプロムナードも、まだ人影が少ない。

 ヨーロッパの観光客は、日本人のようにあくせくしない。せっかく旅に出たのだからと、宵っ張りの朝寝坊。目が覚めても、ホテルでゆっくりとおそい朝食を楽しむ。

 プロムナードを歩いて、ほどなく、昨日予約したリンドス行の船が繋留されている場所に着いた。名前を確認して乗船。

 乗客は30人余りだろうか。夫婦、アベック、子どもを含めた家族づれ。西欧系、中東系の人ばかりで、日本人はいない。

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リンドスへの船旅 >

 9時、出航。

 船がゆっくりと港を進んでいくと、昨日とは違った角度と高さから、ロードス・タウンを眺めることができた。

 埠頭の端に2頭の鹿のブロンズ像を載せた塔があり、ギリシャ海軍の軍艦も、大型フェリーも、たくさんのヨットも停泊し、セント・ニコラス要塞が朝の光の中に陰影をつくっていた。    

 聖ヨハネ騎士団がロードス島にやってきてから200年。この間にオスマン帝国は膨張し、1453年にはビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルが陥落した。その直後、ロードス島は勢いに乗るオスマン帝国軍の攻撃を受けたが、聖ヨハネ騎士団はこれを撃退している。

 今やロードス島は対オスマン帝国の最前線であった。

 2度目のオスマン帝国軍のロードス侵攻は、帝国の最盛期をつくったスレイマンが皇帝になったときである。

 攻防戦は、周到に準備を進め、城塞を包囲した10万のオスマン帝国軍の砲撃から始まった。1522年8月1日であった。

 すさまじい戦闘は6か月に及び、双方、多くの死傷者を出して、ついにヨハネ騎士団はスルタン・スレイマンの「名誉ある撤退」の勧告を受け入れて降伏する。降伏文書の調印は12月25日に行われた。

 年が改まった1月1日、生き残った騎士団と、たとえ難民となってもオスマン帝国の支配下に生きたくないと決めた5千人のロードス住民が、船に乗って、当時ヴェネツィア領であったクレタ島へ向かった。

 「1523年1月1日、大気は肌に厳しかったが、空は蒼く晴れわたっていた」。

 「旗艦につづいて、他の船も1隻ずつ、船着き場を後にする。ロードスの城壁の内からは、誰が鳴らすのか、教会の鐘がいっせいに鳴りはじめた。

  船着場を離れていく各船の帆柱の上には、三角の形をした、赤い白十字の聖ヨハネ騎士団の戦闘旗が風にはためいている。船べりには、これも赤字に白十字の騎士たちの楯がずらりと並ぶ。その背後に、大槍を手にした騎士たちが立つ。

 これも、戦場に向かうときの、騎士団のやり方だった。

 堤防の上に並ぶ風車が、カラカラと乾いた音をたてていた。

 旗艦を先頭にした船の列が、軍港の入口をかためる聖ニコラスの要塞の前を通りすぎようとしたときだった。要塞から、砲音がひびきはじめた。スレイマンが命じた、礼砲だった。

 騎士たちは、無言で、離れていくロードス島を見つめていた。誰もひとこともなく、船上に立ちつくしていた。

 200年の間彼らの棲家であった、バラの花咲く島から、今去って行こうとしている。サンタ・マリア号の船尾に立つラッパ手が、鐘の音と礼砲にこたえて奏しはじめた。ラッパの音は、高々と、海面を伝わって流れていった」。( 塩野七生『ロードス島攻防記』から )

 島を退去していく騎士たちが船上から見た風景は、こういう角度からであったろう。

 聖ニコラス要塞も、風車も、昨日まで自分たちが寝起きした城塞の建物も、そして多くの戦死した仲間たちの遺骸も、無念の思いとともに、そこに残したのだ。

 「ただ、『蛇たち』の中でも、特別に猛毒をもった若い一匹の蛇を、フランス貴族をもしのぐ騎士道精神を発揮したあげく逃してしまったことに、その時はまだ、28歳の勝利者は気づいていなかった」。(同) 

 その後、彼らはシチリア島の先に浮かぶマルタ島に行き、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。

 彼らは、歴史と文明のあるロードス島と違って、未開のマルタ島を一から要塞化していかねばならなかった。

 彼らがロードス島を去ってから、40年あまりの歳月がたった。

 あのとき、「28歳の勝利者」であつたスレイマンは、大帝と呼ばれるようになっていたが、1565年、地中海の覇権を握ろうと再び大軍をマルタ島に差し向けた。

 これを迎え撃った騎士団長は、ロードス島包囲戦を生き残り、無念の思いを持って島を去る船に乗っていた当時28歳のフランス人騎士ラ・ヴァレッタだった。「『蛇たち』の中でも、特別に猛毒をもった若い一匹の蛇」も、スレイマン同様、既に60代後半になっていた。

 40年後の戦いでは、10万の大軍をもってしても、この一戦のために完全に要塞化されたマルタ島を落とすことはできず、マルタ騎士団の完勝となった。

 その後の歴史の変遷の中で、騎士団はマルタ島から去り、今、マルタはマルタ共和国という小国として、世界から観光客が集まる島国として生きている。その首都の名は、ヴァレッタである。

       ★ 

海上からアクロポリスを見る >

 船中で、「エーゲ海1日クルーズ」のような余興はなく、乗客は船室やデッキで思い思いに過ごしていたが、群青色の海と、次々現れる小さな島々を眺めているだけで十分に楽しかった。

 島々は上空から見たように、灌木がまだらに生えているだけで乾燥していた。小さな無人の島が多いが、中にはリゾート用の施設のある島もあった。 

 

 退屈することもなく2時間が経ち、遠くにリンドスのアクロポリスの丘と白い家々が見えてきた。

 船はどんどん近づき、やがて奇怪と言っていいような岩山の上に、城壁や神殿の趾らしいものも見えてきた。

 神々の降臨する丘である。

 そして、古代や中世の時代であれば、ここを要塞化されたら、攻めようという気になれない天然の要害である。

 埠頭に船が着けられた。海岸に大きな石を落とし込んで固めただけの素朴な埠頭桟橋に上陸した。

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アクロポリスの丘へ >

 貸しパラソルと寝椅子がぎっしりと並ぶ海岸の横を通り、白い家々の方へと上がっていった。

 

 ロバ・タクシーがあった。

 実は旅行前、5月とはいえ暑いアクロポリスの丘を登っていくのは自分の年齢では大変かと思い、ロバに乗ることも考えた。だが、読んだブログの1つに、不安定なロバの背からふり落とされて大ケガをしても、馬子のおじさんには何の保証をする力もないだろうと書かれていた。確かに!! 旅行保険にはもちろん入っているが、ロバタクシーから落ちて、打ちどころ悪く大けがをしたとき、保険会社はどう判断するのだろうなどと考えて、やはり自分の足で歩くことに決めた。

 子どもが2人、2頭のロバに乗って、先に行った。お母さんは、子どもだけ、と思っていたのだろうが、当然のことのようにロバのおじさんによって乗せられた。相撲取りに負けないぐらいの体重がありそうなお母さんだった。

 ロバは重過ぎてその場を動けないように見えた。もしかしたら、重さに反抗して動かなかったのかもしれない。(先に行った子どもと比べたら、こちらはひどすぎるよ)。動かないロバの背で、お母さんは、降りる、降りると1オクターブ高い声を出したが、ロバのおじさんはせっかくの6ユーロを失うわけにはいかないから完全無視。ただただロバを叱りつける。だが、重いお母さんを乗せた華奢なロバが、この狭い石畳のかなりきつい坂道を上がるのは、素人目にも容易でないと思われた。

 賢いお母さんは、そこを通りかかる各国の観光客の非難の眼が、痩せたロバでも、ロバのおじさんでもなく、すべて自分に向けられていることを察知し、降りる、降りると叫ぶが、ロバのおじさんはその訴えを全く無視し、ロバを叱りつけて動かそうとしていた。

 これはお母さんがかわいそうだと思ったが、そのあと、どうなったかは知らない。

 集落の中に入ると、狭い石畳の道にお土産屋さんやタベルナが並び、小道は曲がりながら高度を上げていく

 そして、いつしか土産屋やタベルナもなくなり、白い壁の道を、汗を拭きながら上がっていった。  

 

 相当に汗をかいて、見晴らしがよくなった。 

 

< 次回の②へ つづく >     

 

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