塩野七生『ロードス島攻防記』から
「ロードスの最も輝かしい時代は、アレキサンダー大王の死後からはじまったと言ってよいだろう。エジプトとの間の密接な通商関係が、この東地中海の小さな島に、エジプトのアレキサンドリアやシチリアのシラクサと並ぶほどの繁栄をもたらしたのである。古代世界の七不思議の一つとされる、ロードスの港の入口をまたいだ形の、巨像がつくられたのもこの時代だった。
この銅製の巨像は、西暦227年(ママ)のすさまじい地震で崩壊してしまうが、古代世界の七不思議とは、エジプトのピラミッドをはじめとして、人間技では不可能と驚嘆された巨大な建造物であったから、ロードス島も、当時の最高の技術水準をもっていたにちがいない。
今ではルーブル美術館にある『サモトラケのニケ』は、紀元前2世紀のロードス人の作といわれているし、… 今日でもロードス島の美術館には、古代ギリシャの香りを伝える芸術品がいくつか残っており、2000年の間に各地に散った作品がいかに多かったかを納得させてくれるのだ」。
☆
< 2頭の鹿のブロンズ像 >
日本では「世界の七不思議」と言われるが、これは英語の「Seven Wonder of World」の誤訳らしい。
もともとは、BC2世紀の人フィロンが書いた「世界の7つの景観」のこと。フィロンの言った「世界」とは、古代の地中海世界である。当時、「世界」に存在していた7つの巨大建造物のことだ。
現存するのは、ギザのピラミッドだけで、あとの6つは完全に消滅したか、或いは、遺跡がかろうじて遺っている。
その1つが、ロードス島にあった。「ロードスの巨像」と呼ばれる。
エジプトのプトレマイオス朝の時代、ロードス島は大軍に包囲されたが、エジプトからの援軍が来るまで耐え抜いた。巨像は、戦勝記念として、リンドスのカレスという人が、大軍が残していった青銅の武器・武具を使って、12年の歳月をかけBC284年に完成させた。
太陽神のへーリオスの像(或いはアポロ像)であったという。台座を含めると50m。ニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさだった。
だが、建設から60年もたたないうちに、ロードス島を襲った地震で膝から折れて倒壊した。エジプトが再建の援助を申し出たが、王は断り、像の残骸はそのままにされた。
その800年後のAD654年に、残骸はスクラップにされてすべて売り払われたから、今は痕跡も残っていない。
今、マンドラキ港の入口には、2本の突堤が伸びていて、それぞれの突堤の先端に2頭の鹿のブロンズ像が立っている。鹿はロードス島のシンボルだそうだ。
その2頭の鹿の位置に、巨像の両足があったとされ、長く信じられてきた。当時、入港する船舶は、この巨像の股をくぐらなければロードス港に入ることができなかった。
この伝説は長く信じられてきたのだが、現在の研究では、その姿勢で立つには全長が大きくなりすぎて、到底、建設はできないとされている。
それでも、2頭の鹿は、今もロードス島の人気スポットの1つである。
★ ★ ★
< アテネ空港で >
5月15日(水)。
今朝は少しゆっくりし、アクロポリスの丘を眺めながらホテルの最上階で朝食をとった。
そして、シンタグマ広場を9時50分発の空港バスに乗った。
この旅に出るとき、不安なことが2、3あった。
その1つは空港の往復だったが、安く、安全、かつ、時間もほぼ正確に行き来できた。ただし、これはホテルが空港バスの停留所に近かったことが大きい。
アテネのタクシーも利用しにくかったが、昨日、歩き疲れて、ついに乗った。その経験では、悪評を克服しようとしているように思われた。乗車する前に行き先を聞かれ、運転手の方から値段を提示してくれた。ぼったくりはしませんということだ。その値段がいやなら、乗らなければいい。
一番心配していたのは、アテネ ─ ロードス島間の飛行機。今まで、個人旅行でヨーロッパのローカル線に搭乗したことはない。
関空からアテネへの直行便はないが、ルフトハンザ航空でチケットを買えば、関空 ─ ミュンヘン ─ アテネのチケットが買える。ミュンヘン ─ アテネ間は、ヨーロッパのローカル線との共同運航だが、当方はあくまでルフトハンザの客である。
だが、アテネ ─ ロードス島間は、その間を運航するローカル線の航空チケットを自分で買って、搭乗しなければならない。
それで、ネットの旅のブログを頼りに、アテネ ─ ロードス島間を運航する航空会社は、ギリシャ系の「Aegean Airline」であると知った。それで、航空券はそのホームページに入って購入した。席の番号まで確保したから、まず間違いないだろう。搭乗するとき飛行機に預けるパッケージの料金も取られた。
Aegean Airlineは LCC (Low Cost Carrier) ではないが、競争の激しいヨーロッパの航空会社は低コストに抑えるために、効率化を徹底している。それで、人間だけでなく、機内預けの荷物にもお金がかかるのだ。逆に言えば、手荷物だけの人は、その分安くなる。
ただし、無料で機内持ち込みできる手荷物の大きさや重量も、搭乗のときに厳しくチェックされ、少しでも基準を超えれば機内預けに回される。当然、その料金のほかに手数料も取られる。
さらに、アテネ空港は狭く、チェックイン・フロアが混雑し、大行列ができるそうだ。その原因の一つは、エーゲ海の島々に飛ぶ飛行機がしばしば遅れるかららしい。異国の空港の人ごみの中で、電光掲示板を見ながらあてもなく緊張を強いられるのは、かなりイヤだ。
さらに、自分でチェック・イン機を操作し、チェック・イン機から搭乗券とともに印刷されて出てくる荷札のタグも、自分でパッケージに貼って、窓口まで持って行かねばならない。とにかく、余裕をもって、2時間前には空港に行け、と書いてある。
── かなり気が重かったが、チェック・イン機の操作は何とかうまくいき、搭乗券も印刷されて出てきた。だが、 …… たぶん、パッケージへの荷札タグの貼り方を間違えたのだろう。荷物預けカウンターではねられた。
それから右往左往して、結局、チェックイン・カウンターでやり直してもらって、何とかチェック・インできた。
ただ、正確に言えば、右往左往したのではなく、させられた。
空港のチェックイン・カウンターや、列車の窓口、ホテルのカウンターなどには、比較的若い女性が働いていることが多い。我々のような旅人が、訪問した国で触れ合うとしたら、まずこういう人たちだ。本人たちは意識していないだろうが、旅行者にとって、その国の看板のような存在である。
実際、花のように美しい笑顔で、優しく、親切に応対してくれる人もいる。こういう人に、最後に「ボンボヤージュ」などと言って送り出されると、ほっこりして、心楽しい旅になる。
ビジネスウーマン、という感じの人もいる。アフリカ系の女子などに多いタイプだ。たぶん、しっかり勉強して、このポストに就いたのだろう。ダークスーツをパリッと着こなし、てきぱきぱきと処理する。お愛想はなく、ビジネスライクだが、自分の仕事に誇りを持っている。
そして、時々、いるタイプ。最初からふくれっ面して、不機嫌で、ぶっきらぼう。面倒くさそうで、質問しても無視される。どうしてこんな女子を、客の応対をするカウンターに置いているのかと思う。日本なら、「店長を呼べ!!」と怒鳴りつけられるだろう。まあ、日本の窓口にはいない。だが、異邦人の旅人としては、そんないやな「お嬢様」でも、仕事をしていただかなければならない。
Aegean Airlineのチェックイン・カウンターで出会った1人も、このタイプに近かった。面倒くさそうに適当にあしらう。言われたようにしても、うまくいかない。「適当に」言っているだけだから。
とにかくカウンターの人を変えて、やっとチェックインできた。
あとは「薔薇の花咲く島」と呼ばれたロードス島へ。小さな飛行機で、1時間の空の旅だ。
★
< エーゲ海を飛ぶ >
遥か上空を行く飛行機と海との間に薄く雲がかかっていた。すかっと晴れ渡った青い空と、その下の青い海と、島々の景観を期待していたが、ちょっと残念である。
だが、瀬戸内海と違うことはわかった。
群青の海の色は、瀬戸内海のものではない。灌木がまだらに生えるだけの乾燥した島々は、潤い多い日本の島々とは異質の世界だ。
ウィキペディアによると、エーゲ海は、地中海を8つの海域に分けたなかの1つである。
北と西はバルカン半島(ギリシャ)、東をアナトリア半島(トルコ)に囲まれた入り江状の海域。南には、その入り江に蓋をするように、クレタ島が横に(東西に)伸びている。
トルコの沿岸まで、エーゲ海は、ギリシャの海である。
古くは「多島海」とも呼ばれたそうだが、大小2500の島々が浮かんでいる。
火山島が多く、クレタ島のような面積の大きな島には肥沃な耕地が広がるが、多くの島は農業に適さない。
地中海性気候で、まばゆい太陽が輝く夏には、ヨーロッパの太陽に恵まれない地方から多くの観光客やリゾーツ客が訪れる。
★
塩野七生『ロードス島攻防記』から
「エーゲ海の東南、小アジア(注 : トルコ) にいまにもくっついてしまいそうな近さに位置するロードス島は、南西から北東に向けて、まるでラグビーのボールを置いたような感じで浮かぶ島である。
全島の面積は、1500㎢に及ばず、島の最も長いところを計っても80キロ、幅は、これもまた最も長いところで38キロしかない。島には背骨のように山脈が走っているが、高い山でも1200mが一つあるだけだ。
耕地には、あまり恵まれていない」。
「古代から、理想的な気候の地として有名だった。街中では、最も寒い2月でも、気温は10度を切ることはなく、最も暑い8月に入っても、陰であれば25度を越すことはまれだ」。
「薔薇の花咲く島、という意味からロードス島と呼ばれるようになった」。
「良港は、島の北から東にかけて集中していた。その中でもとくに、島の最北端にあるロードスと、島の東側の中頃に位置するリンドスが、古代の主要港とされてきた。首都はロードスである」。
☆
ホテルを予約したとき、タクシーも予約した。空港バスは本数が少ない。タクシーは空港に常駐していない。田舎の空港なのだ。
ドライバーが私のローマ字名を書いた画用紙を持って、待ってくれていた。
ドイツやオランダやフランスは、地方もまた美しい。ある地方は小麦畑や牧場が広がり、別の地域ではブドウ畑が広がって、森や林があり、湖や川がある。
空港からロードス・タウンへ向かう途中に見るロードス島の印象は、首都のアテネがそうであるように、どこかうらぶれて、荒れた感じで、景色に豊かさや潤いがない。耕地が少ないせいかもしれない。道路沿いには、小屋掛け風の食べ物屋や土産物店が点々とある。海沿いには、リゾート風のホテルも見える。
「薔薇の花咲く島」は、ローズとロードスの語感の近さから、ヨーロッパ人が勝手に言い出した呼称のようで、バラが咲いているわけではないようだ。
ただ、太陽の光や、心地よい風や、遥か古代から繰り広げられた数々の歴史は、ブナやモミやカラマツが鬱蒼とした寒い地方の森の民にとって、あこがれ以外の何ものでもなかったのだろう。
★
< ロードス・タウン(新市街、旧市街)と2つの港周辺を歩く >
旧市街に車は(タクシーも)入れないので、変哲のないショップが並ぶ新市街の通りに面したホテルを予約した。ホテルから旧市街まで徒歩で10分ほどかかる。
夕方までの時間、明日と明後日の行動のために確認したいこともあり、街の散策を兼ねて出かけた。自分で歩いてみなければ、異国の街の方向感覚や距離感はつかめない。
まず旧市街入口近くにある観光案内所を探した。それらしい建物の入口は見つかったが、予想したとおり、まだ夏のシーズン前で、オープンしていない。
次に、明日のリンドス行きのために、バスの発着場を探し、時刻表をもらった。
本当は船で行きたいのだが、どこから船が出ているのか、或いはまだシーズンオフなのか、そういう情報も観光案内所で得たかったのだが、仕方ない。
続いて、明後日のコス島へ行く船の乗船場とオフィスを確認するためにコマーシャルハーバー(商港)へ向かった。
ロードス・タウンの東側に、2つの港が南北に並んである。
旧市街の東にあるのがコマーシャルハーバー(元商港)。その北、新市街の東にあるのがマンドラキ港(元軍港)である。
コマーシャルハーバーへ行くため、一旦、城壁の中、旧市街に入った。
突然、アラブ風の街が現れた。これが旧市街だ。20世紀の初めまでオスマン帝国の統治下にあったのだから、パリやウィーンとは全く違う。
小さな土産店やタベルナがぎっしりと軒を連ね、各国からの観光客が歩き、黒い衣をまとったギリシャ正教の神官もいる。この中世風の街並みが世界遺産である。
旧市街から港の方へ出る城門を2つくぐった。城壁が二重になっているのだ。
広々とした港(海)側に出ると、旧市街を囲む城壁がよく見える。
城壁の内側には、深い空堀もある。
コマーシャルハーバーの埠頭に、「Dodekanisos Seaways」のオフィスを見つけた。
コス島へ行く船は、オフィスの前の岸壁に着岸するので、それに乗ったらよいということも確認。
これで、明後日の行動もOKだ。ホテルから船のオフィスまで、徒歩で15分はかかりそうだ。余裕をもって、ホテルを出る必要がある。
ホテルの方へ、海岸沿いの道を歩いて帰った。賑やかなプロムナードになっている。
歩いていると、停泊している一艘の船の前で、若者が、明日、リンドスへ行く船のチケットの予約販売をしていた。
こんな所に、あった 早速、説明を聞き、予約した。
ロードス島の旅の記録を綴ったいろんな人のブログを読んだが、みんなリンドスへバスで行っている。そんななか、一人の女性のブログに、船で行ったという記事があった。
ブログの中身も愉快だった。
お母さんとのふたり旅なのだが、そのお母さんがなかなか活動的な人で、リンドス行の船もお母さんが見つけてきた。
翌日、船に乗っていて、お母さんがいないと探していると、なんと操舵室の窓の中、船長さんといつの間にか意気投合して、横に坐って操舵の舵を握っていた!! まことにたくましいお母上で、読みながら笑ってしまった。ギリシャ語はわからなくても、意思疎通はできるのだ。
予約した船は、明朝の9時に出航する。リンドスには2時間で到着。自由に3時間過ごして、船に戻る。帰りは風光明媚な2カ所の海岸で停泊する。わずかな時間だが、泳いでもらってもいい。午後5時30分に、ここに帰ってくる。
OK!! これで、明日、1日の行動も決定だ。
マンドラキ港の景観は、なかなか印象的だった。
突堤に、赤い屋根の3つの風車が並んで、景観に彩りを添えている。石造りの立派な風車だ。
その先の海上には、不沈戦艦のように浮かぶセント・ニコラス要塞がある。オスマン軍は、この要塞の内側に入ってこられなかった。
そして、2つの突堤の端と端の塔の上に、2頭の鹿のブロンズ像。
突堤の陸側の付け根は、マンドラキ港の一番北端で、ギリシャ正教の教会と塔があった。
エヴァンゲリスモス教会。エヴァンゲリスモスは、受胎告知のことらしい。
教会の祭壇の位置までは入れなかったが、壁に描かれた幾枚かのフレスコ画の色合いが美しい。
その夜は、ホテルのレストランで夕食をとった。ビュッフェ形式だから、楽だ。宿泊者には値引きもあった。
部屋のテラスから見ると、エヴァンゲリスモス教会の塔と、海が見えた。手前の建物も、国旗が掲げられているから、史跡なのだろう。
今日の歩数は6000歩。
とにかく、今日は、ローカルな航空会社の小さな飛行機に乗って、無事、エーゲ海の東の端の島までやってきた。
★ ★ ★
< 閑話 : ウィキペディアについて >
「ウィキペディア」を、自分の百科事典として使っている。インターネットの良さの1つはウィキペディアですぐに調べられることにある。
このブログを書くときも、家のパソコンを使いながら、横にスマホを置き、疑問に思ったことはすぐにスマホで調べる。その際、最も多用するのはウィキペディア。ウィキペディアがなければ、ものは書けない。
以前は、ウィキペディアを簡単に信用してはいけないと言われたが、今はそんなことはない。
各項目の記述者によって、記述の根拠となる参考文献・出典も明示されている。資料・出典が不十分な場合は、その旨、ウィキペディア側が明記して、誰か書き直してほしいと要請文が掲載される。何よりも、内容が不偏不党、穏当で、事典にふさわしい。
ただし、外国人が書いたものを日本語に翻訳した中には、日本語として十分にこなれていない文章もある。
もちろん、100%の信用を置くわけではないが、高いお金を払って買った百科事典も、今の時代、すぐ古くなる。100%の信用ができないのは、どんな学者の書いた本でも同じだ。その間合いを計るのが、使い手の力量というもの。
一切、広告収入を得ずに運営している。だから、メールで寄付の依頼があると、1年~2年に1回くらいだが、2000円寄付する。百科事典をそろえることを思えば、安い使用料である。
ウィキペディアを運営しているスタッフのみなさんには、頑張ってほしい。