< 都市国家アテナイの起源伝説 >
新アクロポリス博物館は、アクロポリスの丘のパルテノン神殿から直線距離で280mの所にある。
ここに、パルテノン神殿を飾っていた彫像やレリーフ(浮彫)、或いは、あのエレクティオンの6体の乙女像のうち5体(1体はイギリスに持ち去られた)、また、ペルシャ戦争のときに破壊されて埋もれていたBC5世紀以前の遺跡も、発掘されて、展示されている。
こうした発掘品のほとんどは、破損され、或いは断片であったりするが、新たに復元され、在りし日の姿がわかるように再現され、展示されているものもある。
充実していて、一日、おにぎりでも持って、ここで過ごしてもよいぐらいだった。
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上の写真 (ケースのガラスが光っているが) は、パルテノン神殿を再現した模型である。神殿の東側(正面)の写真で、西側も同じ構造になっている。
8本の巨大な柱の上、屋根部分との間の横に長い長方形部分、ここをメトーブという。ここには、神話やアテナイの歴史をテーマにしたレリーフが90枚もあった。
メトーブの上に、横長の平べったい三角形部分がある。ここを破風(ハフ)(ペディメント)という。ここには大きな彫像があった。
上の写真が、その破風の彫像群を再現したもの(写真はその中央部)で、都市国家アテナイの守護神アテナが誕生した場面である。
女神アテナは、なんとゼウスの頭から、黄金の鎧をまとって生まれてきたそうだ。横に坐っているのが父のゼウス。ゼウスの頭を斧で殴ったのは、右側にいる火と鍛冶の神ヘファイストスだ。
アテナは手に槍を持つ戦いの神でもある。しかし、戦いを好む神ではなく、知恵と純潔の神でもある。
冒頭の写真は、パルテノン神殿の西側の破風の中央部である。
群像によって描かれているのは、都市国家アテナイの起源神話。
アテナイの守護神の地位を、知恵の女神アテナと海神ポセイドンが争った。
ポセイドンはゼウスの兄弟で、いつも三叉の鉾を持っている。海、河、泉の神で、怒りっぽい。
彼は、アテナイ市民を従わせようと、鉾で地面を突き、海水を湧き出させた。
それに対して、アテナは、地にオリーブの木を生い立たせた。
初代国王以下、人々はオリーブの木を選び、女神アテナの名を、国の名とした。
どこの国、民族も起源伝承をもつが、これがアテナイの起源神話である。
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新アクロポリス博物館を見学した後、地下鉄のアクロポリス駅からシンタグマ駅までの1駅だけ地下鉄に乗り、ガイドのソフィアさんにアテネの地下鉄の券売機の使い方や地下鉄の乗り方を教えてもらった。
さらに、シンタグマ広場から少し歩いた所にあるレストランを紹介してもらって、別れた。
レストラン「ELLA」はリーズナブルで、緑に囲まれた綺麗なテラス席があり、落ち着けた。
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< 国立考古学博物館へ >
昼食後、国立考古学博物館へ向かった。
タクシーに乗ってぼったくられるよりは、スリに気を付けた方が良いかと思い、地下鉄で行った。
シンタグマ駅から1駅行き、乗り換えて2駅目のビクトリア駅で降りた。
外務省の安全情報に、ビクトリア駅の1つ手前のオモニア駅付近は治安が悪いから気を付けるようにと書いてあったが、帰国後、テレビニュースが、アテネのビクトリア駅からオモニア広場周辺でテロ事件・暴動があったと報じた。
国立考古学博物館は、ギリシャ各地で発掘された考古学上の文化財を収納・展示する博物館である。
建物のファーサードも、実に堂々としていた。
左側の垂れ幕を見ると、今、ローマ帝国時代の5賢帝の一人、ハドリアヌス帝の特集をやっているようだ。そういえば、アクロポリスの丘の上から、ハドリアヌスの門だとかハドリアヌスが建てさせたというゼウス神殿が見えた。帰国してから、アテネとハドリアヌスの関係を調べてみよう。
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館内の展示品は、大きな時代区分で分けて展示されていた。その数は膨大で、日本の考古学の発掘品と比べると遥かに文明度が高く、私の基準では現代美術などよりもずっと美しく、旅人が1~2時間で見て回って終わりにするにはもったいない博物館だった。
それでも、急ぎ足でざっと見て回った。
以下、印象に残ったものを7点だけ紹介する。
もちろん、考古学的観点から選んだものではない。ただ直感的に、わが感性に響いたものを撮影し紹介するに過ぎない。
考古学的、或いは、歴史学的視点に立てば、ここにあるものは全て私の想像を遥かに超えた遠い遠い世界のものである。
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「粘土のフィギアー」
ギリシャ東部のテッサリア地方で発掘された新石器時代の粘土のフィギアー。BC6500~5300の頃のものと説明のプレートに書かれている。日本の縄文時代だ。
見た瞬間、わが縄文時代のフィギアーの土偶と同じだと思った。時代も同じ時期だ。
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「ボクシングをする少年たち」
BC17世紀の火山の大爆発で火山灰に埋もれてしまったサントリーニ島のアクロティリ遺跡から出土した壁画である。
女の子かと思ったら、「少年」となっていた。
「赤絵式の陶器の壺」
黒絵式の陶器を発展させた赤絵式陶器の壺は、BC530年頃のアテナイで生まれた。
絵付けの段階で、画像の部分だけ残して地を塗りつぶす。細部は筆で描くそうだ。絵の多くはギリシャ神話などを題材にしている。
日本の弥生時代に、アテナイではこれほど繊細優美な壺が作られるようになっていた。卑弥呼の7、800年も前のことだ。
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「ポセイドンのブロンズ像」
アテネのすぐ東、エーゲ海のエヴィア島の海底から偶然に発掘された。
BC5世紀のエギナ島の彫刻家オナタの作品とされ、ポセイドン像ともゼウス像とも言われる。海神ポセイドンだとすれば、手に持っていたのは例の三叉の鉾だ。
エギナ島には、明日、現地1日ツアーで行く予定。
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「アンティキセラの青年」
ペロポネソス半島からエーゲ海に出て、エーゲ海の南端の大きな島・クレタ島へ向かう途中に、アンティキセラ島という島がある。その海から発見された。BC4世紀の作品とされる。
気品がある。右手に何を持っていたのかわからない。
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「馬に乗る少年」
の「ポセイドンのブロンズ像」と同じく、エヴィア島の沖で発見されたブロンズ像だが、こちらはヘレニズム期のBC140年頃の作とされる。
疾走する馬と馬上の少年がカッコいい。私の一番のお気に入り。
2枚目の写真(馬のうしろ姿)の左隅の像は、「アタランテのヘルメス」。アタランテは地名。ヘルメスはオリンポス12神の1人で、神々の使者、また、旅人の守り神とされる。左肩からマントを垂らし手に巻き付け、右手には伝令の杖を持っていた。マントの着方が粋である。
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「傷ついたガリア人」
ヘレニズム期のBC100年ごろの作品。ミコノス島のそばのディロス島で見つかった。ディロス島は小さな島で、今、人は住んでいないが、島全体が世界文化遺産だ。
ガリアは今のフランス。この時代、地中海世界の人々にとって、彼らはヴァーバリアン(蛮族)だった。そのガリアの若い戦士だろう。右肩から袈裟懸けに斬られ、重傷を負っている。かわいそうだ。右手は剣か槍を握って体を支えているのだろうか?? 上方に挙げられた左手はどうなっていたのだろう?? それがわかれば、何を叫んでいるかもわかるかもしれない。
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< ミトロポレオス大聖堂の前の広場 >
朝からよく歩いた。博物館を出るとタクシーがあったので、値段交渉してからホテルまで乗った。
やや年配のドライバーは、教会の横を通るとき、丁寧に十字をきった。今まで何度もヨーロッパの旅でタクシーに乗ったが、教会のそばを通るとき、このような態度をとった人は初めてだ。ギリシャ正教の世界では、今もこのように敬虔な人が多いのだろうか。
ホテルで一休みした後、もう一度街に出て晩御飯を食べ、そのあと街を散策してミトロポレオス大聖堂の前の広場に出た。
アテネの街の中心はシンタグマ広場だが、交通の要衝でもあるから落ち着かない。
ミトロポレオス大聖堂の広場は、日本でガイドブックを読んだ時から私のお気に入りの広場になると思っていたが、そのとおりだった。樹木が多く、緑が濃い。ベンチもあって、気持ちが落ち着く。
大聖堂の中も、のぞいてみた。ギリシャ正教の大聖堂だから、中にイコンがあった。
大聖堂に隣り合わせて、アギオス・エレフテリオス教会がある。
大聖堂よりずっと古い教会だが、大きな大聖堂の横にこじんまりとして、野の花の趣がある。
教会の前で、少女がボール遊びしていた。
饗庭孝男の『石と光の思想』に、「神はなくとも信仰は美しい」というボードレールの言葉が引用されていた。「神はなくても」は、私はキリスト教徒ではないが、という意味だろう。
かつてステンドグラスの美しさにひかれてゴシック大聖堂をめぐる旅をした。また、ロマネスクの素朴な大聖堂をめぐる旅もした。巡礼の到着地である冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラにも行ってみた。
そういう旅ではなくても、ヨーロッパの旅で、行く先々、教会があれば中をのぞいた。
日曜日の朝のミサにも、聖夜の礼拝にも、片隅で参加させてもらったことがある。
「原罪」や「裁きの日」はおどろおどろしいが、人々の喜びや哀しみ、憤りや希望が祈りとなるとき、それは人の生そのものである。だから、美しい。
広場には、「カフェ・メトロポール」がある。老舗のカフェだ。
写真の右に立つおじさんは、たぶん、この名カフェを背負っている人だ。
そばを歩いていると、メニュを持った若い女性に、食事はどう?? と勧められた。残念ながらもう食べた、… お茶だけでもいい?? と聞くと、どうぞと言う。それで、樹木に囲まれたテラス席に座って、ギリシャコーヒーを頼んだ。旅に出る前から、飲んでみたいと思っていた。
エスプレッソやメランジュとは全く違う。トルココーヒーに似ている。こってりしていて、私にはとても美味しかった。病みつきになりそうだが、日本にはない。
時は宵。アテネの街をショッピングする観光客たち。道端の屋台ではおばさんが何か売っている。
今日は、17000歩も歩いた。
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< 閑話 : アテネと皇帝ハドリアヌスのこと >
第14代皇帝ハドリアヌス(在位AD117~138)は、偉大な前皇帝トラヤヌスに従ってバルチア国に遠征中、前皇帝が発病して死去。トラヤヌスの養子であったハドリアヌスは直ちに帝位を継いだ。41歳だった。
すぐに遠征軍を率いてローマに帰還し、帝国の統治に携わった。ローマ帝国は、トラヤヌス帝のとき、ローマ帝国史上、最大の版図になっていた。
4年後、彼は帝国内の大視察旅行に出る。
人にはそれぞれの流儀がある。たぶん、広大な帝国の各地からもたらされる報告や、皇帝の判断・指示を求める声にこたえるには、ローマで元老院議員たちの修飾の多い美文調の演説を聞いていたのではだめだと考えたのだろう。
以後、帝位にあった足掛け22年間のうち、実に14年間を費やして、彼は広大な帝国内を騎馬で歩き続けたのだ。
少数の供をつれ (当時のローマ帝国内の治安がいかに良かったかがわかる)、気候の良い春も、酷暑の夏も、日の落ちるのが早い秋も、州都から地方の町へ、軍団基地からその出先へと、ひたすら広大な帝国領内を視察して回った。そして、ライン川やドナウ川の防衛上の不備を発見してメンテナンスし、政治、経済にかかる諸問題を自分の眼で見て、現地の役人や人々の声も聴きつつ、解決して歩いたのである。
塩野七生は、『ローマ人の物語Ⅵ 賢帝の世紀』の中で、この14年間の旅によってハドリアヌスは心身ともに疲れ果てたのだろうと、書いている。62歳で死去するまでの最後の4年間はローマに帰り、ローマ郊外に建てた豪壮なヴィラに閉じこもって、極めて不機嫌な老人として過ごしたようだ。
ヤマザキマリの『テルマエ・ロマエ』に登場するハドリアヌス帝は、このころの彼である。
養子には、後に哲人皇帝と言われるマルクス・アウレリウスを迎えていた。
さて、そのハドリアヌスが視察旅行中のある冬、アテネに滞在した。寒く、日没の早い冬は、ローマ人に限らず、例えば戦争をしていても休戦に入るのが当時のならわしである。
AD121年から123年にかけての彼の足取りをたどれば、
ガリア(現フランス) → ライン川の防衛線 → スペイン<ここで冬越し> → シリア → 小アジア(現トルコ) → ドナウ川防衛線 → アテネ<ここで冬越し> となる。
以下、塩野七生からの引用。
「ハドリアヌスは、ローマ軍の最高司令官でもある皇帝として、ライン河とドナウ河という、帝国の2大防衛線の視察をすべて成しとげたわけであった。
冬も迫る季節になってようやく、皇帝は南に足を向けたようである。アカイヤ州の州都でもあるアテネで、冬を越すつもりでいた」。
「48歳になってはじめて、憧れの地を自分の眼で見た人の想いはどうであったろう」。
── ローマ人、特にそのリーダー層の家では、都市国家時代のギリシャの文化に対して敬意をもち、子弟の多くは若い頃にギリシャに留学して勉学した。彼らはみな、ラテン語とギリシャ語のバイリンガルだった。しかし、一方で、ローマ人は、古代ギリシャの音楽や演劇などの文化を軟弱として嫌った。このような軟弱な文化が、繁栄するギリシャの国力を弱めたと考えたのだ。
遺っている彫像に見るように、ギリシャの神々や英雄・哲人たちは、みんな豊かな髭をたくわえている。ところが、ローマの皇帝たちやリーダーの像は、ある時期までみんな髭を剃っている。こざっぱりする。無用なオシャレはしないのが、ローマの男たちなのだ。
第5代皇帝ネロ(在位AD54~68)は、在位中から極めて評判の悪い人だったが、その悪評の一つは、彼がギリシャ文化を愛し、市民たちを招待して自ら音楽堂に出演し音楽を演奏したり、劇場で役者を演じたりしたことにある。それは、ローマの一般市民にとっても奇妙な姿だった。ローマで、皇帝とは、オリエントの皇帝のような絶対専制君主を言う言葉ではない。兵士たちが総司令官をリスペクトして言うときに「エンペラー」と叫んだのだ。つまり、一旦、国家緊急の時には、全軍を率いる総司令官なのだ。だから、ネロのやっていることは、江戸時代に徳川将軍が歌舞伎の舞台に立って町人の前で役者を演じるようなものである。「真面目に自分の仕事をやれっ、バカ殿め!!」ということになる。
ネロの時代とハドリアヌスの時代では、価値観も少しは変わってきた。それでも、将来は皇帝になる身である。養父トラヤヌスは、少年のハドリアヌスのギリシャ好きを心配し、スペインに留学させたりした。彼は少年の頃からギリシャにあこがれていたのである。
成人して、偉大なトラヤヌスの下で様々な職務を経験させられるが、彼はストイックによく働き、一つ一つ職務をこなして、周囲からも認められていった。養父が死に、42歳で皇帝位に就いて以後も、任務に対してきわめてストイックで、都ローマにも還らず、良き統治のために帝国内を14年間も歩き続けたのである。
「このときのハドリアヌスのアテネ滞在は、冬越しどころか6カ月にもおよぶことになる」。
そのハドリアヌスが、このとき初めて、半年間をアテネで過ごしたのである。アテネは全盛期から既に6世紀が経ち、今や帝国内のローカルな一地方都市に過ぎなかった。かつての栄光の跡は、今、名所旧跡となって遺っているだけである。彼は、現在の我々と同じように、それらの遺跡を見て回ったのである。
そして、たった6カ月間だが、彼はあくまで皇帝として、アテネの復興のために尽くした。今は名所旧跡になった建造物を修理復元させ、アテネの経済復興のために壮麗な市場を建てた。また、新たにゼウス神殿や図書館を建てさせ、旧市街と新市街の境界にアーチ門を建設させたのである。
だから、…… アテネ市民は今でもハドリアヌスが好きなのだ。メルケルやマクロンとは違うのである。
なお、ハドリアヌスは、豊かな髭をたくわえた最初のローマ皇帝であった。