ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

エーゲ海1日クルーズ (サロニコス諸島) … わがエーゲ海の旅 (6)

2019年07月14日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 今日は「エーゲ海1日クルーズ」に参加。アテネに近いエーゲ海のサロニコス諸島の3島を巡る。

 船に乗っていればいいのだから、気楽な一日だ。

   いつも緊張している個人旅行だから (そこが、いいのだが)、こういう1日はありがたい。

 クルーズ船には、いろんな国からの観光客が乗っていて、みんな陽気に楽しんでいた。日本からも旅行会社の異なるツアーが3組も乗船していて、個人旅行の日本人と知り、珍しいものに出会ったかのようにあれこれ聞かれた。

 船旅のつれづれを紛らわすため、音楽バンドが出てきて演奏し、女性の歌手が歌った。リズミカルな明るい音楽で、たぶんギリシャかバルカン半島あたりの民謡調の曲なのだろう。

 しばらくすると、船客のおばさんたちが2人、3人とフロアーに出てきて、たちまち10人くらいになり、曲に合わせ適当な振り付けで踊りだした。年齢に関係なく、リズムに合わせて体を動かすことが身についているのだ。

 すると、さっきまで船内のコーナーで貴金属のアクセサリーを販売していた品のいい長身の美女が踊りに参加した。美女のダンスはプロフェショナルだった。こういう場面でおばさんたちとダンスするのも、彼女の職務のうちなのかもしれない。おばさんたちは、彼女の動きを真似て、手足を動かしている。

 日本からのツアーのおばさんたちも1人、2人が参加して、みなさん楽しそうだ。

 しかし、男性はついに誰も参加しなかった。日本人は内弁慶と言われるが、日本人のおじさんだけでなく、各国の男性たちもまた、ただ見ているだけだった。

 世界の大統領、首相も、国際機関のトップも、今に全員、女性になる日が来るに違いない、と思った。

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早朝のピレウス港へ >

 日本から持ってきたカップヌードルをホテルの部屋で食べ、朝、7時過ぎ、宿泊するホテルから徒歩5分の大型ホテルのロビーに集合した。

 アフリカ系の若い女性が時間どおりに迎えに来て、ロビーに集合していた数名とともにバスに案内された。すでに何人かの先客が乗っていて、途中、さらに3、4カ所のホテルで客を拾いながら港へ向かった。西欧系の人たちだけでなく、中東系の家族や、アフリカ系のアベックもいる。東アジア系はいない。早朝のバスの中は、お互いに、異国の空気である。

 ピレウス港に着くと、バスが十数台も並び、バスから降りた大勢の人並みの向こうに、クルーズ船が何艘か着岸していた。

 迷い子にならないように、バスのグループにくっ付いて、乗船した。

 ここまでは慣れないことゆえ緊張したが、乗船してしまえばもう安心だ。一日、エーゲ海を楽しもう。

         ★

 サロニコス諸島はアテネに最も近いエーゲ海の島々である。ピレウス港から南へ、ペロポネソス半島に沿って、小さな島が連なっている。

 そのうちのエギナ島、ポロス島、イドラ島の3島を巡る日帰りクルーズは、エーゲ海を手軽に楽しめる現地ツアーとして、アテネを訪れた観光客に人気がある。それで、私も日本からネットを通して申し込んだ。

 最初に一番遠いイドラ島まで行き、そこから順に、ポロス島、エギナ島と寄って、ピレウス港に引き返してくるというコースだ。

 イドラ島までは、3時間少々かかる。

 3時間は退屈するかと思ったが、日本からのツアー参加者の中のご夫婦に話しかけられ、ご主人と話がはずんだ。退職後、「弥生時代」に興味があって、一人の考古学の先生の講義を聞きに行くのが楽しみなのだそうだ。私も似たようなものだから、話がはずんだ。

 デッキに出て海を眺めたり、朝からワインを飲んだり、音楽演奏とおばさんたちのダンスを見たりしているうちに、あっという間に時間が過ぎた。

 

海上交易で栄えた豪商の島・イドラ島 > 

 イドラ島の岸壁が近づくと、ロバの列が荷を運んでいた。

 この島は車もバイクも禁止。島内の水のきれいな入り江に遊びに行くにはモーターボートがあるが、内陸部の荷の運搬はロバが頼りだ。 

 桟橋に着いて船を降りた。自由時間は1時間半。

 各自で島内を散策した後、時間厳守で船に帰ってきてください。遅刻すると、明日、再び船がやってくるまで、島で過ごさなければならなくなりますよ、と船の日本語ガイドの注意があった。

 これだけの大人数、点呼などせず、出航するのだろう。

 

 島内には見学しなければならないような名所・旧跡、遺跡があるわけではない。ただぶらぶらと文字どおり散策する。

 島の唯一の「繁華街」は、船の着くイドラ・タウン。

 船を降りると、海岸沿いの小道には土産物店やタベルナが軒を連ねて、船から降りてくる大勢の客に声をかけてくる。

 ただ、この島はアーティスト、職人たちが集まる島だそうで、土産物店といっても、銀や銅の彫金細工のアクセサリー、七宝の絵皿、モダンな工芸品なども並んでいた。 

 そういうショップが軒を連ねているのもしばらくの間で、イドラ・タウンを抜けると、あとは静かな海沿いの石畳の小道である。 

  「18世紀から19世紀にかけて、イドラの商人たちは海上貿易で成功をおさめ、巨万の富を得た。1821年からのギリシャの独立戦争で、彼らは自分たちの持ち船を武装させ、海戦で大活躍する。ギリシャでは有名な話で、現在でもイドラ島はギリシャ人たちの間で英雄的な島として人気が高い。島に並ぶ大邸宅は、ほとんどがこの商人たちによって建てられたもの」(『地球の歩き方』から)。

 ギリシャ人は、(今のギリシャ人とは遺伝的には相当に違うだろうが)、古代から海洋民族だった。紀元前の何百年という、気の遠くなるような時代から地中海に漕ぎ出し、各地に植民都市を建設した。

 イタリアの長靴の先に位置するシチリア島には、シラクサをはじめいくつかのギリシャ系古代都市の遺跡があり、アテネのアクロポリスの丘に負けないくらいの遺跡が遺っている。

 対岸のアフリカ大陸には、当時の地中海の覇者カルタゴがあった。カルタゴはフェニキア人の植民都市で、ギリシャ人の植民都市をつぶしにかかる。民族間の激しい戦いは、この時代から繰り広げられていた。(当ブログ「シチリアへの旅」参照)。

 古代だけではない。ギリシャの産業を支えているのは、今も観光業のほかには海運業である。

 ただ、その海運業は、近年、中国の一帯一路政策によって、乗っ取られようとしている。

 3島の中でも、イドラ島の海の透明度は高いそうだ。

 今、我々クルーズ船の観光客が歩いているのは島のとっかかり部分に過ぎない。もっと奥へ行けば、水の澄んだ美しいビーチがいくつもあり、そこはリゾート客の世界である。

 適当に歩いて、休憩して、もと来た道を引き返した。

 島に置き去りにされてはいけない。 

      ★

時計塔のポロス島とギリシャ国旗 >

 ボロス島へ向かう1時間ほどの航海の間に、船の中でビュッフェ形式の昼食をとった。

 テーブルで隣り合わせた一人旅の日本人男性と、ヨーロッパのことや中国のことなどを話す。

 どこかの会社のヨーロッパの出先で働いていたそうだ。今は退職して日本で暮らしているが、当時知り合ったギリシャ人に、遊びに来ないかと誘われた。だが、今日は休みが取れないので、このクルーズに参加せよと言われたそうだ。

 旅先で、日本人と長話をした経験はない。今日は2度も話してしまった。

 ボロス島は小さな島で、見学するほどのものはない。丘の斜面にびっしりと建つ家の路地を上がって行けば、時計塔がある、と船のガイドが言う。それだけのようだ。

 それで、船を降りた人たちは時計塔を目指した。旅人は誰でも、高い所へ上がりたがる。

 しかし、急坂のうえ、道もよくわからず、行き止まりになっていたりして、途中でやめようかと思ったが、若い人の後についていくうちに、何とかたどり着いた。

 なぜここに時計塔があるのかわからない。おそらく、中世の時代には、海賊対策の物見の塔だったのではなかろうか。

 塔の横に、ギリシャ国旗が風に翻っていた。 

 古代都市国家アテナイの歴史は古いが、ギリシャという国土と国民を持つようになってからの国の歴史はまだ浅い。

 BC146年に、アテネを含むアッティカ地方はローマの属州となり、AD395年のローマ帝国の分裂以後は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に所属した。しかもその一辺境の地にあったから、スラブ民族が多数流入し、ラテン民族に続いて、スラブ民族との混血が進んだ。

 1453年、ビザンチン帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、以後、イスラム教徒の支配下に入る。ただ、オスマン帝国は、ギリシャ正教の信仰を容認した。

 19世紀、ロシアやヨーロッパ列強の攻勢の前にオスマン帝国が弱体化するなか、独立運動が興って、1829年に異教徒の支配を脱し、ギリシャの独立が成った。

 ただし、その後も、クレタ島やキプロス島を巡ってトルコとの戦争は続いたから、今もエーゲ海を隔てた隣国との関係は悪い。

 話はギリシャの国旗に戻るが、青は、空と海の青である。白は純潔を表し、十字はギリシャ正教を表す。また、白と青の9本の縞模様は、トルコとの独立戦争時の合言葉であった「自由か死か」の9音節を表すそうだ。 

 そういうことはともかくとして、青と白の旗は、いかにもギリシャらしくていい。なかなか秀逸の国旗だと思う。

 時計塔から眺めた港の景色である。

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古代にはアテナイと張り合ったエギナ島 >

 エギナ島はピレウス港から30キロ。サロニコス諸島の主な島の中では、アテネに最も近い。

 人口はサロニコス諸島で最も多く、1万3千人少々。

 古代には独立したポリスとして栄え、アテナイと張り合っていた。

 国立考古学博物館で見た「ポセイドンのブロンズ像」は、この島出身の彫刻家オナタの作とされる。

 船を降りて、エギナ・タウンから、ガイドとともにバスに乗った。

 島の畑や野の道を上へ上へと上がること30分ほど。

 丘の上に、アフェア神殿の遺跡があった。

 ここもまた、エーゲ海を見下ろす高台である。

 アフェア神殿はアテナイのパルテノン神殿より50年ほど古く、BC6世紀後半からBC5世紀初めに、この島で採れる石灰岩で建造された。

 2階建ての神殿で、周囲に祭壇の跡や神官の家の敷石の跡も残っている。 

 遺跡としての風韻のようなものが感じられて、なかなかいいと思った。

 アフェアとは、「目にみえない」「姿を消す」という意味があるそうで、エギナ島の女神だそうだ。 

        ★

 バスに戻って、しばらく山を下っていき、途中、聖ネクタリオス修道院に寄った。

 まだ新しい、大きな、美しい修道院である。

 聖ネクタリオスは、19世紀の半ばから20世紀の初めに生きた人で、死後、ギリシャ正教の聖人に列せられた。晩年、この島で過ごし、遺骸がここに葬られている。

 回廊も美しく、祭壇はイコンで飾られていた。

 バスが平地を走るようになると、ピスタチオの畑があった。この島の特産らしい。 

        ★

 帰りのクルーズ船の中では、舞台のある船室で民族舞踊が披露された。

 クルーズ船がピレウス港に帰り、行きと同じバスに乗ってアテネの中心部に向かう頃には、日もすっかり暮れた。

 バスを降りたその足で、ホテル近くのレストランへ。午後8時を回っていた。

 早朝から日が暮れるまで、今日も1日、よく活動した。船に乗っている時が多かったが、それでも今日の歩数は9500歩だ。

 明日は、いよいよロードス島へ向かう。

     ★   ★   ★

閑話 : 一帯一路政策とピレウス港 

 ピレウス港は、古代ギリシャの時代から、アテナイの軍船や商船が出入りした天然の要衝であった。ピレウス港あっての都市国家アテナイの繁栄であった。

 近代に入っても、ヨーロッパ世界への入口・ピレウス港は、ヨーロッパを代表する港湾として、ギリシャ産業の根幹である海運業を支えてきた。

 ギリシャはEUに加盟して急成長を遂げ、ユーロバブルに酔ったが、政府と国民による放漫財政の結果として、2009年に政府の財政赤字の隠蔽が明らかになった。

 EUとIMFはギリシャに対して超緊縮財政を強いた。

 その結果、国内総生産は落ち込み、失業率は23%となり、アテネだけでもホームレスは2万人を超え、さらに難民がやってきた。

 疲弊するギリシャに甘い手を差し伸べたのが中国である。

 中国の国有企業であるコスコ(中国遠洋海運集団)が、ピレウス港の管理、整備、開発の権利を買い取った。習近平の肝いりで、スペインのバレンシア港とともに、中国と西欧を結ぶ一帯一路政策の一環である。

 国有企業がなぜ他国の企業を買収し、支配するのか?? こういう中国に「おかしい!!」とはっきり言うのはトランプだけである。オバマもメルケルも、国内の人権問題では声が大きいが、中国には口ごもる。

 ピレウス港を手に入れた中国資本はたちまち大幅な利益を上げ、さらにクルーズ船の新ターミナル、4つのホテル、ショッピングモールなどの大開発計画を打ち上げている。また、ピレウス港とハンガリーとを結ぶ鉄道の建設も始めている。

 ピレウス港が中国海軍の欧州進出のための軍港になるのではないかという懸念もあった。その懸念はあっさり現実化した。

 2015年、中国海軍の大型揚陸艦がピレウス港に寄港し、地中海で、何とロシアと、初めて海上合同演習を実施した。

 こういう中国の侵出については、今更、驚くことはない。

 それよりも、EUとはそもそも何だったのだろう … と思う。

 経済はドイツの一人勝ちだが、ギリシャも、スペインも、ハンガリーも、最近のニュースではイタリアも、やすやすと中国に切り崩されていく。イギリスは離脱。

 長年、ヨーロッパに目を注いできた私には、メルケルとEU官僚の失政は明瞭であるように思われる。とっくに時代についていけなくなっている。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

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