ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アクロポリスの丘にあがる … わがエーゲ海の旅(4)

2019年07月03日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 アクロポリスの丘から、アテネの街並みの先に海が見えた。エーゲ海だ ……。

 都市国家アテナイは海上交通の要路に位置し、BC8世紀頃にはアクロポリスの丘を中心とする海運都市国家として、ギリシャ世界のなかで先進的な地位を確保していた。

 一般に、アクロポリスは、高い丘の上につくられた町のこと。古代のアクロポリスは、ポリス(都市国家)の守護神を祀る神殿が建てられ、祭祀が営まれる神聖な場所だった。また、戦いの際、市民が最後に立てこもる砦となるよう城壁で囲まれていた。

 アテナイのアクロポリスは、海抜150mの平らな石灰岩の上にあり、三方が断崖絶壁になっている。

 丘の上は、東西が270m、南北が156m。アテナイの守護神である知の女神アテナを祀ったパルテノン神殿が建っていた。

 ホテルから見るアクロポリスの丘は、北東からの眺望である。 

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アクロポリス眺望 >

 今日は5月13日(月)。

 朝、7時。ホテルの最上階の朝食会場に入ったとき、思わず嘆声が口をついて出た。

 広間の整えられたテーブルの向こうは前面ガラス張りで、街並みの上に、何のさえぎるものもなく、アクロポリスの丘があった。

 その丘の真ん中にパルテノン神殿が建ち、折しも朝の光に照らされている。

 早朝の光と空気が似合う丘だ。

    ( アクロポリスの丘 )

   ( 丘の上にはパルテノン神殿 )

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 今日、午前中は、現地の日本語ツアーに参加することにしていた。ガイドに付いて、アクロポリスの丘とアクロポリス美術館を見学する。

 午後は自力でアテネの街を歩く。ガイドと別れる前に、国立考古学博物館への行き方を聞いておかねばならない。

 アテネに着いた翌日の午前から『地球の歩き方』の小さなマップを見ながら悪戦苦闘するのもどうかと考え、出発前、現地ツアーに入ることにした。ガイドに案内されながら、まず、この街の空気に馴染み、土地勘を身につける必要がある。

 それに、事前に読んだブログによると、アクロポリスの丘に入る入場券を買うのに長蛇の列ができる可能性がある。何しろ世界有数の名所旧跡だ。現地ツアーに入れば、ガイドがチケットを事前に確保してくれるから、並ぶ必要はない。

 それに、事細かな知識や専門的な説明は要らないのだが、簡単でも説明はあった方が良い。というのも、『地球の歩き方』その他で一応事前に予習しても、年齢とともに活字がなかなか頭に入らなくなった。では現地で読めば、ということになるが、現地に立つと、その場で本を出して活字を追う気にはなれないものである。それより写真撮影になってしまう。その結果、帰国してから、あれやこれやと見落としたことに気づく。

 そういうわけで、日本でネットをとおして、現地の半日ツアーを予約した。

 ガイドにはソフィアさんという方がやってきた。午後には保育園に子どものお迎えに行かなければいけないそうだ。日本人とのハーフの感じのいい女性だった。

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 三方が断崖絶壁のアクロポリスの丘は、西側にしか登り口がない (ということも、初めて知った)。 

 西側の麓はオリーブの林になっていた。よく手入れされて、樹木がみずみずしい。

 オリーブ油は好きではないが、オリーブの実の漬物は美味しい。白ワインのアテにいい。

 その林の中の小道を登っていくと、やがてチケット売り場に出た。列に並ぶことなく、ソフィアさんからもらったチケットを入口の検札機にかざして、入った。

 古い石段を一歩一歩上がっていく。2500年も前の石の階段だから、足元は危うい。長い歳月、人に踏まれて凹凸ができ、欠け、段差もいろいろで、つるつるに磨かれてうっかり足をのせると滑る石もある。ここは革靴ではムリだ。

 まだ5月だが、汗ばんでくる。

 夏になると、強い日差しと、世界中からやってくる観光客の人いきれで、熱中症の人が続出し、突然に入場ストップして、休憩に入ったりするそうだ。

AD3世紀のブーレの門

 ブーレの門は、ポリス時代の建造物ではない。ローマ帝国時代の3世紀に、防御のために新たに造られた門である。

 3世紀のローマ帝国は、5賢帝の時代も過ぎ、パクスロマーナからの衰退がはじまっていた。突然、異民族の騎馬隊がライン川、ドナウ川の防衛線をくぐり抜け、ローマ帝国の奥深くまで侵入して荒らしまわる、そういう事態が起こるようになっていた。もう安全は保障されていない。

 三方が断崖だから、ここをおさえれば、一応の防御はできる。

 ブーレは、19世紀にこの門を発掘したフランス人の名。  

 ブーレの門が額縁のようになって、石段の先に、ポリス時代の門であるプロビュライアが見えた。

 門をくぐり、プロビュライアへの階段で振り返ると、麓の林の向こうにアテネの街が広がっていた。 

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聖域との結界を示すプロピュライア >

 プロビュライアは、神殿に通じる前門のこと。防御用というより、「ここから先は聖地」という、聖域との「結界」を示す門である。日本では、鳥居とか注連縄がそういう機能をもつ。

 アテナイの黄金期のBC437年に建設が始まり、432年にほぼ完成した。

 6本の柱によって構成された中央楼と、その左に北翼、右に南翼がある。今は柱のみでイメージがわかないが、ベルリンのブランデンブルグ門やミュンヘンのプロビュライア門は、この門を模したそうだ。だから、そちらを見たらイメージがわくだろう。

 えーっ!! 柱がズレている。

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 プロビュライアをくぐれば、もうそこはアクロポリスの丘の上だ。

ローマ時代のイロド・アティコス音楽堂 >

 丘の西側、登ってきた直下に、古代の音楽堂が見下ろせた。

 イロド・アティコス音楽堂という。まだパクスロマーナの5賢帝の時代にそういう名の大富豪がいて、AD161年に建設し、アテネ市に寄贈したそうだ。

 観客席は6000人分。石の席が上へ上へと、かなりの急斜面に造られている。

 最近修復され、夏の間、演劇や、オペラ、古典劇、コンサートなどが開かれるそうだ。星の瞬く夜空の下、古代遺跡で催される音楽や演劇は、なかなかの趣であろう。もちろん、一流のアーチストグループでないと出演できない。彼らも一度はこういう所でやってみたいに違いない。

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パウロがスピーチしたアレオパゴスの丘 >

 ガイドのソフィアさんが、音楽堂の向こうのあの岩山は「パウロの岩」だと言う。えっ? パウロって、あのパウロ?

 イエス亡き後にキリスト教と出会い、ペテロ、ヨハネなどの直弟子たちとともに伝道した。キリスト教神学の土台はこの人によってつくられたと言われる。あの新約聖書に登場するパウロが、この岩山の上で …… 。

   この丘のことは、『地球の歩き方』には、何も書いていない。

 帰国後に調べてみると、ポリス時代から、ここで評議会が開かれたり、裁判が行われたりしたらしい。

 AD1世紀、伝道のためにアテネを訪れたパウロが、「あなたの話をもっと聞きたい」という哲学好きの市民たちによってここに連れてこられ、岩山(丘)の上でスピーチした。そのことが、新約聖書の使徒行伝17章16節から34節に書かれている。

   「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネのみなさん、…… 』」。

 紀元前5世紀のアテナイのスター・ペリクレスと聞いても、私にとっては世界史の教科書の中の人に過ぎない。だが、それから400年ほど時代が下って、新約聖書のパウロと聞くと、あのパウロがこの岩山の上で … と、遠い人が肉体をもって現れるような気がする。

 これは西洋史に対する私の中の知識の偏重によるのかもしれない。

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知の女神アテナを祀るパルテノン神殿 >

 ペルシャ戦争(BC499~449)のとき、この丘の上の建造物はことごとく破壊され、略奪された。

 アテナイやスパルタの連合軍がペルシャの大軍を撃退し、戦争に勝利したあと、アテナイはペリクレスの指導の下、黄金期を迎える(BC460~BC430)。

 この聖なる丘も、かつてあった状態を遥かに超える壮麗さで再建されていった。今、我々が見る遺構はペリクレス以後のものである。

  

   ( 神殿の正面 )

   ( 神殿の側面 )

 丘の中心をなすパルテノン神殿は、15年の歳月をかけて築かれ、BC432年に完成した。

 神殿の正面側は幅31m、側面側は70m。基礎部分(土台)の上に立つ柱自体の高さは10m。その上に屋根の構造物がのっていた。

   建設当時、神殿は彩色され、全体が彫像やレリーフ(浮彫)で飾られていたそうだ。

 神殿の内部には、アテネの守護神である知の女神アテナの像が安置されていた。

 高さが12mの巨像だったという。(… とはいえ、東大寺大仏殿の大仏様は、坐っておられても15mだ ── ついでに調べてみました)。

 パルテノン神殿の「パルテノス」は、若い娘、処女の意で、女神アテナを指す。ゆえに、アテナの神殿の意になる。聖母マリアに捧げられた大聖堂が、ノートル・ダム(われらの貴婦人)大聖堂と呼ばれるのに似ている。

 似た名前に、ローマの「パンテオン」がある。アグリッパによって造られ、ハドリアヌス帝によって再建された。巨大な円錐形(ドーム型)建造物だ。

 「パン」は「汎」。パンテオンは、すべての神々のための神殿である。円形をしているのは、上座や下座がないということ。ローマ帝国は信仰の自由を認め、すべての民族の神をリスペクトした。他者の神を尊重するのは、高貴な精神である。ローマでは「寛容」と言った。

 一神教のキリスト教がヨーロッパ世界をおおったとき、他の宗教はもちろん、キリスト教の中でさえ異端のレッテルを貼られると迫害された。本来、一神教と信仰の自由は両立しない。

 パリの5区にもパンテオンがある。18世紀創建のパリのパンテオンは、フランス革命を経て、神々ではなく、フランスが誇る偉人たちを祀る霊廟になっていった。例えば、キューリ夫妻、ヴィクトル・ユーゴー、ヴォルテール、ゾラといった人たちである。 

 話は戻って、パルテノン神殿のそばに公衆トイレがあり、そのあたりに腰を下ろして一休みした。バッグを置いてパルテノン神殿の写真を撮り、休憩が終わってエレクティオンの方へ歩きかけたとき、バッグを忘れたことに気づいた。あわてて取りに行ったら、休んだ石の上にバックはぽつんとあった。(水とか、ガイドブックとか、ちょっとした衣類だけで、貴重品は入っていない)。

 ガイドのソフィアさんから、「よくありましたね。ちょっとでも目を離すと、もう絶対に戻らないから、気を付けてください。この丘もスリがいます」と言われた。(もしかしたら、スリも、中身を素早くのぞき、置いていったのかもしれない)。

 ソフィアさんは、さらに、自分のスマホを開いて、20歳ぐらいの2人組の女子の写真を示し、「ガイド仲間で情報を交換し合っています。この2人はスリのチームです。午後からアテネの街を歩かれるときも、十分に注意してください」と言われた。

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 < 6人の乙女像が人気のエレクティオン >

 アクロポリスの丘の遺跡の中で、パルテノン神殿に次いで観光客に人気があるのはエレクティオンである。

 パルテノン神殿と同様、ペルシャ戦争のあと、BC408年に再建された。

 エレクティオンという名の由来については、アテナイの伝説上の王・エリクトニオス王に捧げられた神殿だからではないかという。

  観光客の撮影ポイントは、建物の南側に張り出した柱廊の柱である。柱が6人の乙女像によってできている。(ただし、ここにあるのはレプリカ。本物はアクロポリス美術館にある)。

 このセンスは、確かに素晴らしい。

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 アテナイの町は、アクロポリスの丘を中心にして発展した。

 丘の上からは、眼下に、いくつもの遺跡を見下ろすことができる。先に挙げたイロド・アティコス音楽堂やアレオパゴスの丘もその例である。

 <古代アゴラ >

 その中でも、丘の北東に位置する古代アグラは、アテナイ市民にとって、特別に大切な場所であった。

 80年ほど前には、ここに300軒あまりの民家があったそうだ。それを全部、移転させた。その跡地の、今は林になった中に、古代アゴラの礎石や石柱が遺っていて、発掘調査が今も続いている。

 アクロポリスの丘がアテナイ市民の精神的、宗教的、そして防衛上の心の拠り所だとすれば、アテナイ市民の政治的・経済的・文化的諸活動の中心が「アゴラ」だった。

 紀元前5世紀ごろ、この広場では、アテナイの評議会が開かれた。120mの柱廊があり、毎日、そこで市が立った。神殿も音楽堂もあった。別の柱廊の下では、ソフィストたちが盛んに議論を交わしていた。

 アテナイ市民が集う街の中心がアゴラであった。

 林の中に、1つだけかなり原型をとどめた神殿が見える。パルテノン神殿とほぼ同時期のBC450~440年ごろに建てられ、ヘファイストスに捧げられた神殿とされる。

 ヘファイストスはオリンポス12神の一人で、火と鍛冶の神。背が低く、醜男で、足も悪いが、愛と美の女神アフロディテ(古代ローマではビーナス)を妻とした。創意工夫に富み、武具も装飾品も宮殿もつくった。勤勉でまじめな性格だったそうだ。

 愛と美とエロスの女神アフロディテが結婚した相手として、意外の感はあるが、なかなか堅実な選択でもある。

 このヘファイストス神殿のすぐ北隣(写真では上)にも柱廊があった。そこはソクラテスが友人たちと集い、哲学論議をした場所だそうだ。

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リカヴィトスの丘 >

 アクロポリスの丘から北西の方向にリカヴィトスの丘がある。アクロポリスの丘の上は平らだが、この丘は、おそろしく尖がっている。海抜273m。アクロポリスの丘の2倍近い高さだ。麓からケーブルカーも出ている。

 頂上には高級レストランがあって、アクロポリスの丘やアテネの夜景を見ながら食事ができるそうだ。しかし、私のヨーロッパの旅には、食文化の探究はない。  

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アドリアノス門とゼウス神殿 >

 アクロポリスの丘をはさんで、古代アゴラの反対側(東南側)に、アドリアノス門、そして、ゼウス神殿の柱が見える。

  アドリアノス門は、写真の左下に小さく見えるが、高さは18m。AD131年に完成した。当時、旧市街と新市街を分ける門だった。

 ゼウス神殿は、オリンポス12神の最高神ゼウス(古代ローマではジュピター)に捧げられた神殿で、128年に完成した。

 104本の柱が並ぶ堂々たる神殿だったが、今は15本しか残っていない。それでも、そばで見ると、その威容に圧倒されると書いてあった。ローマ帝国内で最大級の神殿だったそうだ。

 いずれも、ローマ帝国の5賢帝の一人であるハドリアヌス帝が、アテネを訪れたときに建てさせたものである。近くにアドリアノス図書館も遺っている。彼は、ローマのリーダー層には珍しく、ギリシャ文化のファンだった。

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 ディオニソス劇場 >

 アクロポリスの丘の上をほぼ一巡すると、最初に眼下に見たイロド・アティコス音楽堂のすぐ東側に、ディオニソス劇場があった。

 ディオニソスはオリンポス12神の一人で、古代ローマではバッカス。葡萄酒と演劇の神である。

 この劇場はローマ時代に大改修されたそうだが、古代ギリシャ最古の劇場とされる。最前列は貴賓席で、15000人の観客を収容できたそうだ。         

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 ざっとだが、アクロポリスの丘を見て回ることができた。

 もと来た道を引き返し、プロビュライアの門、ブーレの門をくぐって、天上の世界から下界に降りた。

 来たときと比べて、観光客が増え、まだぞくぞくと上がってきており、チケット売り場は長蛇の列ができていた。

 現在のパルテノン神殿について私の感想を言えば、そばで見るより、遠くから、丘の上の雄姿を眺めていた方が美しい。その方が、品格があるように思えた。

 しかし、プロビュライアの門やエレクティオンの6人の乙女を間近に見、また、アクロポリスの丘を囲むアテナイの数々の建造物の姿を眺めることができたのはとても良かった。

 続けて、新アクロポリス博物館へ行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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