(モンペリエのトラム)
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<モンペリエの街のトラム>
ガールの水道橋を見学した後、バスはプロヴァンス地方に別れを告げ、モンペリエという町まで走って、昼食をとった。
広場の片側の、木陰にテラス席がある、南欧らしい風情のレストランだった。
この町は大学町で、モンペリエ大学があり、卒業生にフランスを代表する詩人、ポール・ヴァレリーがいる。2つの大戦の時代を生きた文学者だ。生涯、「狭き門」の作者アンドレ・ジイドと親友だった。
古風な街並みの中を、面白いデザインのトラムが走っていた。
ヨーロッパのトラムは車体がスマートで、ステップが地面に近く、乗り心地もなめらかである。
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<世界一高い吊り橋>
昼食後、カルカッソンヌへ向かう途中、バスは中央山塊の方へ迂回し、ミヨー大橋を渡った。
「世界一高い吊り橋」ということで、CMにも取り上げられているそうだ。
(車窓から/ミヨー大橋)
さすがフランス。デザインが美しく、オシャレだ。車窓から仰ぐと、高さに圧倒される。
だが、設計者はイギリス人だ。
橋を渡り終えた所に日本でいう道の駅があり、深い峡谷に架かる橋の全景を眺めることができた。
だが、バスの車窓から見た高度感や視覚的な美しさに及ばない。
朝霧(雲海)の中の大橋は幻想的だという。なるほど、さもありなん。CMに使われているのはその映像らしい。
しかし、フランスの皆さん。十津川村の谷瀬の吊り橋も、渡るときのスリル感、横からの眺望、いずれもなかなかですぞ!! ただし、徒歩でしか渡れませんが。
ミヨー大橋は、自然を超越した、神のごとき人間の手による巨大な人工美。
八瀬の吊り橋は、神々の宿る大自然にとけこみ、その一部と化した橋である。
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<ラングドック地方へ>
フランスの地中海側を、東から西へと3等分すると、第1日目は、一番東側のイタリアとの国境に近い紺碧のコート・ダジュールを観光した。
第2日目と3日目の午前は、ローヌ川の水運によって古代ローマ時代から開けたプロヴァンスの町や遺跡を訪ねた。
そして、第3日目の午後は、3等分した一番西側、スペイン国境に近いラングドックと呼ばれる地方へ。
地図でフランスの全土を俯瞰的に見ると、南西部がくびれて地中海と大西洋が接近している。くびれた部分の南西部にピレネー山脈が横たわり、その向こう側はイベリア半島で、再び大きな広がりとなる。
くびれ部分のピレネー山脈よりこちら側は平地で、大西洋と地中海という2つの海の間を隔てる山脈がない。そのため、古代ローマ街道の時代から、現代の高速道路や新幹線に到るまで、交通の要衝となってきた。
そのくびれの地中海側と少し内陸部に入った地域がラングドックである。
フランスを良く知る人は、パリはフランスではないと言う。
本当のフランスを知りたければ、プロヴァンスや、ラングドックや、オーヴェルニュや、ブルゴーニュ地方を歩けと。
ラングドックは、岩肌の山と、緑の起伏が波打つ豊饒な地である。
すでに先史時代、洞窟から鹿の絵が発見されている。ピレネー一帯には巨石文化やケルトの遺物が残される。
プロヴァンスとともに、フランスで最も早くローマ化された地域であり、また、キリスト教が最も早く伝わってきた地域でもある。
中世には地中海の光に満ちたおおらかで情熱的な文化があり、ロマネスクの土着的なにおいのする教会が建てられた。しかし一方では、禁欲主義のカタリ派の教えが広がって、教皇は異端として十字軍を差し向け、多くの人々が弾圧され殺された。
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<3千㌔の航路を短縮したミディ運河>
カルカッソンヌの町の中のホテルに荷物を置き、カルカッソンヌの城壁の中を見学した後(次回のブログ)、鉄道駅近くのレストランで晩飯を食べた。
レストランの近くにミディ運河があった。世界遺産である。
(ミディ運河)
この運河は、地中海から、カルカッソンヌを経てトゥールーズに到る240キロの大運河である。トゥールーズの先は、ピレネー山脈に端を発すガロンヌ川が、トゥールーズ、ボルドーを経て、大西洋に流れ出る。
この運河がない時代、大西洋側のボルドーを出港した船は、遥々とイベリア半島を回って、ジブラルタル海峡で高い通行税を払い、やっと地中海へ入ってきた。17世紀、ルイ14世の時代に建設されたこの運河のお陰で、ボルドーのワインを運ぶのに3000キロの航路が短縮されたという。
鉄道ができて輸送ルートとしての役目を終え、今は運河クルーズで、人気の観光資源になっているそうだ。
途中、閘門(オウモン)(ロック)で水位を上げ下げし、船を上下させる個所もある。両側には、建設時に4万5千本の樹木が植えられ、林や森となって、水沿いのウォーキングも楽しめるそうだ。森の中を行く船の写真を見ると、絵のように美しい。
(ミディ運河)
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<ポール・ヴァレリーの詩>
ミディ運河の地中海側の出口は、セートという漁村だ。詩人ポール・ヴァレリーの故郷である。
饗庭孝男『フランス四季暦』から
「モンペリエから海沿いに南下すると、セートという漁港がある。海にそそぐ(ミディ)運河の両側から山手にかけて家がならんでいるが、それ自体、何の変哲もない町だ。もっとも、海にのぞんだレストランでとった魚料理は抜群においしかった。
しかし、この小さな町も、詩人ポール・ヴァレリーの名前によって日本や外国にまで知られている。海を見下ろすサン・クレールの丘に、彼の詩『海辺の墓地』で有名になった墓地がある。樹々と墓石のあいだから見える海が詩人に喚起したものは、思考が渦巻き、沈潜してゆく『死』への想念と、その内的な劇の果てに、風が立って生きようとつとめる『生』への強い意志であったことはいうまでもない。
風が立つ、生きようとつとめなければならない
(La vent se leve, il faut tenter de vivre)
という一句には、キリスト教的な『永遠』の生の幻をすて、『自然』の『永遠』のリズムにみずからを同化させようとした詩人の決意がみなぎっている」。
堀辰雄の小説『風たちぬ』の冒頭部に、上記の詩が引用されている。
「そのとき不意に、どこからともなく風が立った。私たちの頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それとほとんど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私たちは耳にした。それは私たちがそこに置きっぱなししてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。……
風立ちぬ、いざ、生きめやも。」
(宮崎駿『風たちぬ』のポスター)
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