上の写真は、ロードス島の海港に臨む城壁。
ホテルから旧市街へと歩く途中にある。昨日もここから写真を撮った。
今日も写真を撮ろうと思ったら、先客がいた。数秒で終わると思ったが、試行錯誤して終わらない。待ちくたびれて、パチリと1枚。
そのあと撮った風景写真が下。
思いがけず、どちらも気に入っている。
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< アテネへ >
2019年5月12日(日)、乗客全員の搭乗を終え、ルフトハンザ743便は予定の時刻より20分も早く、 午前8時35分に関空を出発した。
今日は、ドイツのミュンヘンで乗り継いで、ギリシャのアテネまで行く。
アテネに3泊し、そのあと移動してエーゲ海のロードス島に4泊、帰りにアテネでもう1泊する。
今回はツアーではない。自力の「わがエーゲ海の旅」である。
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< ロードス・タウン >
旅のテーマは、塩野七生『ロードス島攻防記』の舞台となった歴史の地を逍遥すること。
ロードス島は、塩野さんが、「エーゲ海の東南、小アジアにいまにくっついてしまいそうな近さに位置する」と書いているように、トルコから18キロしか離れていない。天気のいい日には、トルコを望むことができるそうだ。
地図を見ると、島は、右上から左下へ、やや斜めに置かれたさつま芋の形をしている。その北東部から南西部へかけての一番長いところで80キロ。幅は、一番長いところで38キロである。
この島の最北端に良港がある。今もエーゲ海クルーズの巨大なフェリーが大勢の客を乗せて寄港する。
ヨハネ騎士団の時代、港は、北側が軍港(マンドラキ港)、南側は商港(コマーシャルハーバー)だった。
この港に臨む旧市街は、島と同じ名前で、ロードス・タウンと呼ばれる。今もぐるっと城壁に囲われている。
( 港から城壁を抜けるとロードス・タウン )
城壁の中の街は、ヨハネ騎士団が撤退した後、長い年月オスマン帝国の支配下にあったから、イスラム圏のバザールを思わせる。庶民的な食堂や土産を売る店がびっしりと軒を連ね、入り組んだ路地を観光客や避暑客がぞろぞろと歩いている。住民はギリシャ正教系のギリシャ人である。
頑丈そうな石造りの館が並ぶ騎士団通りは街の北端にあり、その先に騎士団長の宮殿が聳えて、このあたりだけヨーロッパの風が吹いている感がある。
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< 聖ヨハネ騎士団 >
16世紀、ロードス島からわずか18キロ先の小アジア(現在のトルコ)を支配していたのは、ビザンチン帝国を滅ぼした(1453年)オスマン帝国だった。帝国の支配は、北は小アジアからバルカン半島全域を越え、南は北アフリカ一帯まで広がって、西欧キリスト教文明に対峙していた。
帝国の都イスタンブールから、北アフリカの政治的・経済的・文化的要衝の都市アレキサンドリアへ向かう航路上に、ロードス島はあった。
ロードス島に陣どったヨハネ騎士団は、この航路上に立ちふさがり、オスマン帝国の商船を襲いまくったのだ。オスマン帝国にとって、ロードス島はキリストの「蛇の巣窟」であった。
1522年、オスマン帝国はついにロードス島の攻略を決意する。
決意したのは、父の死によってオスマン帝国のスルタンを継承したばかりのスレイマンである。この若いスルタンはその後長く帝位にあり、信望厚く、幾度か遠征して、北はハンガリーまでを攻略し、一度はハプスブルグの都ウィーンを包囲した。オスマン帝国の最盛期をつくりあげたスルタンとして、スレイマン大帝と呼ばれる。
他方、ロードスの城壁に籠ってオスマン帝国を迎え撃ったのは、600人足らずのヨハネ騎士団であった。
ヨハネ騎士団の歴史は、AD1099年の第一次十字軍による聖地エルサレム攻略と王国の建設の頃に遡る。
その起源をたどれば、もともとイタリアのアマルフィーの富裕な商人が、聖地エルサレムに巡礼するキリスト教徒のために建てた病院組織であった。それが、第1回十字軍がイスラム勢力と戦ってエルサレムを攻略し、ここに王国を建てる過程で、軍事組織としての一面を強くもつようになり、宗教騎士団となっていったのである。
ローマ教皇から与えられた正式名称は「聖ヨハネ病院騎士団」。教皇に直属し、どこの国からも独立している。なお、騎士団の名称となった「聖ヨハネ」は、人々の病を癒し、福音を伝え、イエスに洗礼を施した「洗礼者ヨハネ」のことで、12使徒のヨハネではない。
鋼鉄の甲冑の上に、赤地に白十字の胸当てとマント、手に楯と長槍を持つ。もう一つ、同時期に設立された宗教騎士団として、「テンプル(聖堂)騎士団」があるが、その違いは、ヨハネ騎士団は病院を経営したこと、そして、貴族の子弟しか入団できなかったことであった。しかし、ともに、人数は少なかったが、キリスト教軍の最強・最精鋭の軍事組織であった。
フランスの貴族出身者が比較的多かったらしい。もちろん、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツなどの出身者もいて、それぞれの国ごとに部隊を構成する多国籍軍であった。
騎士団長は、騎士による選挙で選ばれた。若い頃からいかなるときにも沈着冷静で、かつ、勇猛果敢。さらに多くの戦いを経て経験を積み、年齢とともに知恵と人望を増した人物が選ばれた。選んだあとは、全員がその指揮下に入る。
彼らは、修道僧と同じで、妻帯は許されない。週1回は僧服を着て、看護師として病院で勤務した。戦死しても、それはキリストのしもべとしての死であり、名はどこにも残らない。使っていた遺品、例えば、高価な金銀宝石類は騎士団の財政に、衣服や食器類は病院に寄付された。
この時代、優秀な医師のほとんどはユダヤ人だったそうだ。騎士団の病院の医師もそうであったろうという。
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< ロードス島の攻防 >
ヨハネ騎士団600人足らずは、その配下の1500人ばかりの兵と、ロードス島の住民兵3000人ばかりを率いて、スレイマンの10万を超す大軍と対峙した。戦いは1522年の8月1日に始まり、12月の末までの5か月間に渡った。
塩野七生が『コンスタンティノープルの陥落』に描いた戦いから70年後のことである。コンスタンティノープルの戦いの経験から、攻城戦は大砲の時代に入っていた。
この時代の砲弾は丸い石。直径20センチぐらいだろうか。この砲弾を、戦いが厳しくなると昼夜を問わず何千発も撃ち込んで、城壁を破壊していく。昼夜を問わないのは、心理戦の効果もねらったからである。
( 石の砲弾 )
もう一つの方法は、地下道を掘り進めて、城壁の下に爆薬を仕掛け、城壁を破壊するという攻撃法である。
守る側の城塞建築も対大砲用に進化していた。コンスタンティノープルの城壁のように高く聳える城壁ではなく、高さの代わりに壁の厚みが大幅に増した。その最たるものが、対イスラムの最前線に築かれたヨハネ騎士団のロードス島の城壁で、壁の幅は10mもあった。
騎士団側の武器は、火薬を使って、今の鉄砲に似たもの、或いは、今の手榴弾に似たものであったらしい。
だが、最後は結局、物量と、時間が決する。
ヨーロッパのキリスト教国の王が互いに牽制し合って誰も救援軍を送らなければ、物量に任せた攻撃の前に、守る側は消耗していくだけだ。どんなに分厚い壁も次第に破壊されていく。日々、修繕するが、追い付かない。壊れて防備の弱くなった壁を大軍がよじ登り、10mの壁の上で、剣や槍を振るっての白兵戦となる。
スレイマンの計画では、大砲と地雷で外壁を破壊した後、9月の総攻撃で決着がつくはずだった。だが、10万の兵を動かし、数時間に及んで、3波に渡った総攻撃にも、騎士団側は耐え抜いた。
10月、11月と砲弾が撃ち込まれ、壁の下に仕掛けられた地雷が爆発し、何度も総攻撃が繰り返されても、ヨハネ騎士団は頑強に守り続けた。
雨の降る冬の季節に入って、ついにスレイマンは、騎士団長とロードス住民に条件を提示し、名誉ある撤退を呼びかけた。騎士団もすでに多くの犠牲者を出していたが、オスマン帝国側の死傷者もすでに数万人になっていたという。
( ヨハネ騎士団長の宮殿 )
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── そこへ行ってみたい。塩野さんの本が、私の旅心を誘い続けた。
だが、なかなか踏ん切れなかった。旅は未知に向かって一歩踏み出すまでは、大きな冒険でなる。
行ってみようと思ってあれやこれやと調べていくと、日本ではあまり知られていないエーゲ海の島への旅は、もう若くはない私にとって、不安を覚える事柄が次々と出てくる。ツアーに入らなければ、全て自力でやり、何事が起こっても自力で処理するしかないのだから。
長い月日を経ての逡巡の後、こういう旅ももうこれが最後かもしれないという思いが、私をつき動かした。
そうして、思い切って出かけてみると、のどかで、心楽しく、行ってよかったと心から思える旅になった。
以下は、その旅の記録と、写真である。
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