( ゲント : レイエ川のほとり )
< ゲントへ >
4日目の午前中はブルージュを散策した。運河の水面に煉瓦色の建物が映り、白鳥が浮かぶ印象的な町だった。文化とは、文学や音楽や美術であるよりも、まず街並みである。
午後は、観光バスで、かつてブルージュのライバルとして栄えた商都ゲント、さらに、ベルギーの首都ブリュッセルをまわる。午後半日で2都市をまわるのだから、小鳥が餌をチョンチョンとついばんで、すぐに飛び立つような小旅行である。
北海に近いブルージュからは、内陸部へ向かって、東へ40キロでゲント、さらに東へ50キロでブリュッセルである。
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< フランドル伯領として、また、ブルゴーニュ公国の下で栄えたゲント >
ゲント (ヘント、フランス語ではガン) は、ブリュッセル、アントワープに次ぐベルギー第3の都市である。
レイエ川沿いを歩くと、川辺にかつての繁栄を映すかのようにギルドハウスの建物が並び、その先にはフランドル伯の居城もある。(小鳥のついばみ小旅行だから、垣間見ただけだが)。
9世紀ごろ、北海から川を遡行して襲ってくるヴァイキングの襲撃に備えて、ネーデルランド地方にいくつもの城塞が築かれた。フランドル伯も、ルクセンブルグ伯も、このころに砦を築いた領主である。
砦が築かれると、人々は生命の安全を求めて城塞の近辺に住み着き、それが町となり、商工業が興り、自治が行われるようになり、やがて領主や教会などの旧勢力に対抗するほどの経済力を持つようにさえなる。ゲントも、ブルージュも、隣のブラバンド公領のブリュッセルも、そのようにして発展した都市で、12~13世紀に、この地方は西ヨーロッパで屈指の裕福で華やかな地域に発展した。
( 橋を渡ると… )
レイエ川に架かる橋を渡ると、正面に聖ニコラス教会が見え、重なり合うようにしてゲントのシンボルである鐘楼がそびえている。そしてさらにその右奥に、聖バーフ大聖堂の塔がのぞいていた。
午前中に散策したブルージュも、町のシンボルは、商工業者(市民)たちがマルクト広場に建てた鐘楼だった。同じように、ゲントの鐘楼も、13世紀末、ゲントのギルドによって建てられた。鐘を鳴らして時刻を知らせること、時を支配することが、力の象徴だった。
91mの高さをエレベータで上がって、ゲントの街並みを一望することもできるそうだ。ヨーロッパ旅行で、塔のらせん階段を上るしんどさは何度か味わった。エレベータで昇れるなら美しい街並みを眺望したいが、こういうツアーではそういうことはしない。
( ゲントの鐘楼と「繊維ホール」 )
鐘楼の下には、ゲントのもう一つのシンボルである「繊維ホール」が建っている。羊毛産業で栄えたゲントの毛織物商人たちが建設し、会議場として、或いは、取引所として使用した。
この繊維ホールが建てられた15世紀には、フランドル伯は、ヴァロア・ブルゴーニュ公家に代替わりしていた。
それというのも、14世紀末のことだが、フランドル伯であったダンピエール家に男子がなく、ダンピエール家の娘マルグリットが共同統治の形でブルゴーニュ公フィリップⅡ世と結婚したのである。
ブルゴーニュ公国は、当時のフランス王家・ヴァロア家の血を引き(王家とは犬猿の仲だったが)、フランス南東部の町ディジョンを都とする領主だった。今もブルゴーニュワインで有名だが、草深い地方である。
下の2枚の写真は、2015年春の「フランス・ロマネスクの旅」(ブログ参照) のものである。
(※ ヴェズレーの丘から、豊かなブルゴーニュの平野を眺めた。日が傾いて雲が赤みを帯び、交響曲が聞こえてくるような気がした)。
(※ 今はフランスの一地方都市に過ぎないディジョンは、花のパリなどと比べると少々さびれて、壮麗な大公宮殿を訪れる観光客も少なく、往年のブルゴーニュ公国の繁栄も昔日の感があった)。
そののどかな公国が、結婚によってヨーロッパ経済の先進地域のフランドル地方を手に入れ、飛躍的に発展するのである。
ブルゴーニュ公国時代のフランドル地方について、歴史学者はこのように書いている。
「ここには、他国の追随を許さない優秀な毛織物産業が栄えていた。イギリスから安い値で羊毛を輸入し、これを原料として高級衣料や壁掛けや絨毯などを完成し、製品を遠くハンザ都市やアフリカ、オリエントにまで輸出した。ブルージュやアントワープのような積出港は殷賑をきわめ、重厚な商館や倉庫が櫛比(シッピ)していた」(江村洋『ハブスブルグ家』講談社現代新書から)。
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( 聖バーフ大聖堂西正面扉口 )
鐘楼のすぐ東側に聖バーフ大聖堂がある。ここには、15世紀フランドル派絵画の最高傑作と言われる「ゲントの祭壇画」がある。このツアーがゲントに来た第一の「メダマ」は、この祭壇画の鑑賞である。
祭壇画が完成したのは1432年である。初めファン・エイク兄弟の兄が構想を練って描き始め、兄の死のあと弟が引き継いで完成させた。折しも、ブルゴーニュ公国が、フィリップⅢ世(フィリップ善良公)の治世の下、経済的にも文化的にも最盛期を迎えていたころのことである。
残念ながら撮影禁止だったが、大きな衝立形式になっており、12枚のパネルの絵で構成されている。その中心は「神秘の仔羊」。仔羊はイエス・キリストを表す。
中世絵画から一歩踏み出した骨太の写実的手法で描かれており、私のような素人にも、時代を超えようとする絵の偉大さはわかった。だが、そうは言っても、カソリックの教義に基づいた宗教画だから、芸術的感銘というのとは違う。現代人にとって、芸術は、宗教の教義を表現するための手段ではない。
それでも、この大作は、ナポレオンとナチスドイツによって2度も持ち去られた。のちにフランスからは返還されたが、2度目のときは行方が分からず、探しだすのが大変だったようだ。
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< ハブスブルグ家のネーデルランドへ >
ゲントは、高校でならう世界史に必ず登場する神聖ローマ帝国皇帝カールⅤ世 (在位1519年~1556年)、スペイン王としてはカルロスⅠ世 (1516年~1556年) が生まれ育った町である。聖バーフ大聖堂は、カールⅤ世が生まれたときに洗礼を受けた教会としても有名なのだ。
以下の記述は、今回、改めて読みなおした、江村洋『ハブスブルグ家』からの要約である。毎回のこういう歴史ダイジェストに当ブログの読者はゲンナリされるだろうが、私の方は、最近、だんだんと西洋史がわかってきたぞ!!と、喜んでいる次第。どうか読み飛ばしていただきたい。
さて、ブルゴーニュ公国の黄金期をつくりだしたフィリップⅢ世(フィリップ善良公)のあとを継いだのは、賢い父とは逆に猪突猛進型のシャルルⅡ世(シャルル突進公)だった。彼には嫡男がなく、子は愛娘のマリアだけ。上記の本にマリアの横顔の肖像画の写真が載っていたが、気品と優しさが匂うような美少女である。しかも、ヨーロッパ随一の富裕で優雅な公国のお姫様であるから、縁談は降るようにあった。そして、あのハブスブルグ家からも、申し出があったのだ。
この時期の神聖ローマ帝国皇帝は、ハブスブルグ家のフリードリヒⅢ世だった。
ハブスブルグ家は、100年以上前、スイスの小さな一領主に過ぎなかったころ、力なきゆえに思いがけなくも皇帝に選出された。そのとき、皇帝の権威を利用して、たまたま跡取りがなく断絶したオーストリアを手に入れた。(もっとも、我々が知る華やかなウィーンは、そのずっと後に、ハブスブルグ家がつくり上げた都で、この時代のオーストリアはヨーロッパの辺境の地だった)。
オーストリアを手に入れたが、多くの封建諸侯家と異なり、ハブスブルグ家は伝統的に長子相続をせず、子どもたちに分割相続した。当然、世代が進むにつれ、当主の所領・財産は小さくなる。前回、皇帝位に就いてから既に130年がたち、フリードリヒⅢ世のときには、実は尾花打ち枯らす小領主になっていた。(だから、また、皇帝に選ばれたのではあるが)。
ハブスブルグ家にとって、ブルゴーニュ公国はまばゆいほどに豊かな公国である。「公女をぜひ我が息子に」。
ブルゴーニュ公国のシャルルとフリードリヒⅢ世は会見した。シャルルには皇帝位が魅力だった。歴史家・江村洋氏は次のように書いている。「この会見でシャルルは相手を威圧しようとして3000人の胸甲騎兵、5000人の軽騎兵、6000人の随員を従えていた。… なにしろ公の兜の羽飾りに付いたまばゆいダイヤだけでも、フリードリヒの家領から上がる年収の半ばに近いと値踏みされたほどだった」。
このとき、縁談はならなかったが、のち、シャルルは承諾する。尾花打ち枯らしたようなフリードリヒが連れてきた若者マクシミリアンの凛々しい騎士ぶりが忘れられなかったのである。
その半年後、シャルル突進公は、不用意にも戦場で戦死してしまった。突然の当主の死を受け、ブルゴーニュ公女マリアは、急いでハブスブルグのマクシミリアンと結婚した。
このときをチャンスと、フランス王がブルゴーニュ公国領を獲得せんと軍を進めてきた(ローマ帝国滅亡後のヨーロッパは、第二次世界大戦の終わりまで、このようにずっと仁義なき戦いをしてきたのです)が、「中世最後の騎士」とうたわれたマクシミリアンは、勇猛果敢にして、落ちついた指揮ぶりで、フランス軍を撃破した。
マクシミリアンとマリアは、互いに相手を気に入り、仲むつまじかった。2人の間には男子と女子が生まれた。後のフィリップⅣ世(フィリップ美公)と妹のマルガレーテである。
午前中、ブルージュを散策していたとき、添乗員のG氏が、「マリアはブルージュ市民から敬愛されていたが、マリアの死後、マクシミリアンに対して反抗した」と言った。そのときは、事情がよく分からなかったが、こういうことのようだ。
3番目の子を身ごもっていたとき、マリアは不注意にも落馬して死ぬ。気落ちしたマクシミリアンに追い打ちをかけるように、フランドルの市民軍が、嫡男フィリップを人質に取り、マクシミリアンを追い出しにかかったのだ。「公家の血を引くのはフィリップ様。あなたにはもう用はない」。「私がフィリップの後見者だ」。マクシミリアンは、ここは後に引けないと気力をふりしぼって市民軍と粘り強く戦い、勝利した。
嫁(或いは婿)は嫌いだが、孫はかわいいという話はよくある。マクシミリアンは市民たちに対しても気さくで、開放的な人柄だったようだが、それでも、市民たちにとっては「他人」である。かわいい娘の婿だから受入れていたが、娘が亡くなれば、鬱陶しいだけだ。それに、そもそも力をつけてきた市民たちにとって、領主そのものが鬱陶しくなっていたのだろう。マリアや、幼いフィリップなら、どうにでも牛耳れる。
さて、話は一転して、スペインに移る。
数百年かけてイスラム勢力を地中海に追い落としたイベリア半島では、アラゴン連合王国のフェルナント王とカスティリア王国のイサベラ女王が結婚し、1479年に統一スペインが実現した。(今、また、カタルーニャ=バルセロナ地方の分離独立問題が起こっているが、この問題も遡ればこの時代に起源ある)。
そのスペインから、両家の子どもたちの兄と妹で2組の結婚を、という申し出があり、悩んだ末、マクシミリアンもこれを受けた。
ところが、娘マルガレーテが嫁いだスペインの王子は、もともとひ弱な体質で、結婚後半年で夭折した。マルガレーテは不用の人となり、ブルゴーニュに返される。
長男フィリップとスペインからやって来た長女ファナの間には、カール、フェルナンドという2人の男子が生まれ、女子も誕生した。
その間に、スペイン王家のイサベラ女王が、続いてフェルナンド王が、嗣子なく亡くなった。さらに、ブルゴーニュ公国のフィリップ(Ⅳ世・美公)もスペインで客死した。こうしてスペイン王家の血をひくナンバーワンは、ハブスブルグの孫カールになってしまった。
こうして、ハブスブルグ家の、まだ10代のカールがスペイン王になり、さらには神聖ローマ帝国皇帝になるのである。
( ※ スペインの古都トレド。10代でネーデルランドからスペインに移り住んだカールは、最初、その風土の違いの大きさにとまどったに違いない。 )
さらに後のことだが、同じことがカールの弟で、オーストリアを統治していたフェルナンド(とその妹)にも起こった。ハンガリー王家と婚姻関係を結ぶのだが、妹が嫁いだハンガリー王が、オスマン帝国との戦いで、若干20歳にして、戦死してしまったのである。その結果、ハンガリー王と、ハンガリー王が兼務していたボヘミア(チェコ)王のポストがフェルナンドに転がり込んできた。
もっとも、以後、オーストリアは、オスマン帝国と直接に対峙しなければならなくなる。スレイマンⅠ世率いるオスマン帝国による第一次ウィーン包囲は、その3年後の1529年のことである。以後、皇帝となったカールⅤ世の生涯の課題の一つは、膨張する超大国オスマン帝国からキリスト教世界をいかに防衛するかということであった。
ともかく、こうして、ハブスブルグ家の兄カールは、ブルゴーニュ公、ブラバンド公、フランドル伯、ルクセンブルグ公に加え、スペイン、そしてスペイン王に帰属するナポリ王国、シチリア、サルディニア島、さらに新大陸のスペイン領を支配した。また、弟フェルディナントはオーストリア、ハンガリー、ボヘミアの君主となった。
ハブスブルグは「太陽の沈まない国」となったのである。
ただ、カールⅤ世は、栄耀栄華を極め、わが世の春を謳歌して生涯を送ったわけではない。もともとハブスブルグ家もスペイン王家も厳格なカソリックで、生活は質素であり、使命感が強かった。その上、カールはなかなかの出来の人であったから、皇帝として休む暇もなく東奔西走した。そして、40年も働き続けて、最後は力尽きたように全てを息子に引き継いで、引退した。
彼を悩ませたことの一つが、新教(プロテスタント)の問題である。
ハブスブルグ家は信仰心が篤く、カソリックの守護者であろうとしてきたが、カールにはバランス感覚もあった。そのカールが皇帝になったのが1519年で、その直前の1517年には教皇を糾弾するあの95か条がルターによって発表されていたのだ。
自らを普遍とするカソリックと、これに抗議し続けるプロテスタントの戦いは非妥協的である。一神教の世界は、神か悪魔か、正義か悪かの二元論である。自分が信奉するものが「神」であるなら、相手は「悪魔」の信奉者になる。両者の戦いはヨーロッパ中に広がり、虐殺も、何十年に渡る戦争もあった。
その新教は、早くにネーデルランドの商工業者・市民たちに受け容れられ、ひろがっていった。
カールは、ゲントで生まれ、ブルゴーニュ公国の空気を吸って育ったが、次の世代、フェリペⅡ世の時代になると、ネーデルランドの土地と人々に対する愛着はなくなる。
カソリックの守護者を任じるスペイン・ハプスブルグによる激しい弾圧が起こり、ネーデルランドは80年(1568~1648年)に及ぶ独立戦争へと突入していくのである。
この戦争の中で、ゲントやアントワープは力を失っていき、経済の中心はアムステルダムなど現在のオランダへと移行していく。
江村洋『ハブスブルグ家』から
「叛乱の狼煙はまずネーデルランドで上がった。ネーデルランドとはほぼ今日のオランダとベルギーを合わせた領域のことだが、このうち北部のオランダは、もともとマクシミリアンⅠ世が初めて統治にあたったときから、君主に対して不平を鳴らし続けてきた。そこへカルヴィンの改革派宗教が伝道されるにおよび、宗教の自由と民族の独立を求める気運が一気に高揚し、血みどろの抗争を経た後に、結局はスペインの羈絆(キハン)を脱することになった。しかし、南部のベルギー地方は旧教に忠実で、ハブスブルグ内にとどまった」。
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