( 憲法広場のテラスから )
旅の3日目。8時半にホテルを出発し、まず、ルクセンブルグの旧市街を散策した。
ルクセンブルグの正式の国名はルクセンブルグ大公国。国の広さは佐賀県ほど。人口は約57万人。深い渓谷と緑の森におおわれた小国である。首都はルクセンブルグ市。
西暦963年、アルデンヌ家のジーゲフロイト伯爵が、2つの小さな川がえぐった断崖の上に砦(小さな城 lucilinburhuc)を築いた。砦は時代とともに、天然の要塞として強固に補強され、難攻不落の城塞となった。
旧市街の南の端にある憲法広場のテラスから眺望すると、目の前にペトリュス川の渓谷の鬱蒼とした森がある。森の間に見える橋は新市街と旧市街とを結ぶアドルフ橋、塔のあるお城はルクセンブルグ国立銀行だ。
かつてこの小国を支える産業は鉄鋼業をはじめとする製造業だった。今も製造業は支えとなっているが、何よりも柱となっているのは金融業である。ルクセンブルグと言えば、ヨーロッパを代表する国際金融センター。なにしろ、あの北朝鮮の金正日の隠し財産のほとんどがルクセンブルグの銀行にあると言われてきた。(今は息子が受け継いでいるのだろうが)。
国民1人当たりの所得は世界1位で、福祉国家でないにもかかわらず、国民の所得格差は北欧並みに小さい。
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憲法広場から5分も歩くとノートルダム寺院。イエズス会の教会だが、建物は20世紀に再建されて新しい。地下には歴代大公の墓がある。
( ノートルダム寺院 )
( ステンドグラスとマリア像 )
大公宮はかつて市庁舎だった建物で、ヨーロッパの他の王や司教の宮殿と比べると質素である。近衛兵が立哨しているが、これもヨーロッパの王宮や大統領府で見られる古式ゆかしい軍装ではなく、東京のどこかの国の大使館あたりと変わらない格好だ。銃もパリの警察官の銃と大差ないように思われる。
( 大公宮の衛兵 )
ルクセンブルグの国家元首は、ナッサウ=ヴァイルブルグ家が世襲する大公。大公は、公爵の上の位階。
立憲君主制だが、日本と違って、儀礼的な職務のみではなく、内閣とともに行政権も執行する。
小国のルクセンブルグは、北から西にかけてはベルギーに接し、南はフランス、東はドイツに隣接する。かつて国際条約により永世中立国とされていたが、第一次世界大戦のときも、第二次世界大戦のときも、突如、ドイツ軍が侵入し、占領した。
戦後は、永世中立国であることを捨て、軍事同盟であるNATOに加盟。
こんな小国では、スイスのように、単独で、自国の独立を維持し続けることは不可能だ … 自国の平和と独立を守るためには、勝てないまでも、相手が侵略をためらうだけの強い「力」をもつことが必要不可欠である。その「力」には、狭義の軍事力とともに、相応の人口と、領土・領海が必要である。そこがスイスとは違うところだ … と考えたルクセンブルグの戦後の選択は賢明であろう。
旧市街を東の方へ歩いて行くと、ルクセンブルグを流れるもう一つの川、アルゼット川を見下ろすボックと呼ばれる断崖がある。今は格好の見晴らし台だが、かつてこの崖の下部には巨大な地下要塞があり、ボックの砲台と呼ばれていた。
北に新市街の高層建築が見える。反対側はアルゼット川の渓谷で、緑の中に美しい建物がある。
1060年ごろ、アルデンヌ家の分家が伯爵位を継ぐとき、改名してLuxemburg家とした。Luxemburgは、lucilinburhuc(城塞)が変化したものだそうだ。
( ボックから新市街 )
( ボックからアルゼット川の渓谷 )
ルクセンブルグ家の歴史の中で一番有名な人物は、1346年に神聖ローマ帝国皇帝となったカール(チェコ語ではカレル)Ⅳ世だろう。ルクセンブルグ伯 (→カレルのとき、ルクセンブルグ公爵になる)であり、チェコ王でもある。チェコの歴史の中では、「祖国の父」と呼ばれている。
カレルは、プラハを神聖ローマ帝国の首都に定めた。アルプス以東に初めて大学、すなわちプラハ大学を創設した。プラハの旧市街に隣接して広大な新市街を造った。旧市街にはカレル橋をはじめ多くの建築物を建て、王宮の丘には聖ヴィート大聖堂を建造した。ヴルタヴァ川が流れるゴシック様式の美しい街は「黄金のプラハ」と呼ばれるようになる。どこか謎めいて、スラブ的な、魅力ある街である。
なぜ、ちっぽけなルクセンブルグ伯が、チェコ王を兼務し、さらに神聖ローマ帝国皇帝になったのか??
ドイツでは、神聖ローマ帝国皇帝が空位になり、大空位時代を経て、諸侯が集まって皇帝を決めるようになる。とはいえ、諸侯にとって、皇帝の権力は小さいほうがありがたい。諸侯はみんな自分・自領ファーストだから、できるだけ弱小の領主を皇帝に選ぶ。例えば、スイスの小豪族だったハブスブルグ家である。ただし、ハブスブルグ家は、オーストリアの侯爵家が断絶したとき、皇帝の地位を利用してさっさとオーストリアに引っ越して、跡を継ぎ、一躍、帝国内の有力領主になった。
小さな領主・ルクセンブルグ伯も、カレルの祖父の時代に皇帝に選出されている。ただし、この祖父は優秀な人だったらしい。しかも、弟がトーリアの大司教 (前回のブログ参照。7選帝侯) だったから、当然、ここぞとばかり優秀な兄を推薦したことだろう。
そのころ、チェコを治めていたプシェミシュル家の公が殺され、跡継ぎがいなくなった。そこで、チェコの貴族たちは、公の妹の夫として、時の皇帝の息子であるルクセンブルグ家のヤンを迎えたのである。
この2人の間に生まれたのがカレルだ。卓越した人物で、ラテン語を含む5か国語に通暁し、美術や文学を愛し、政治的能力にも秀でていた。チェコ人からも慕われ、自身も母の国チェコと首都プラハの発展のために生涯をささげた。
だが、3代続いて優秀な人物が出ても、なかなかあとは続かないもので、孫の代でルクセンブルグ家は断絶する。そして、カレルの競争相手であったオーストリア・ハブスブルグ家の全盛時代になっていく。
現在のルクセンブルグの大公は、ナッサウ=ヴァイルブルグ家である。オランダ王室のナッサウ=オラニエ家と同じ流れである。
以上、カールⅣ世の記述に当たっては、神戸大学教授であった石川達夫氏の『プラハ歴史散策』(講談社+α新書)を参考にした。この本は、かつてプラハに旅したとき、「黄金のプラハ」を築いたというカールⅣ世に興味をもち、しかもその後は、あのベルリン壁の崩壊まで他国に支配され続けたチェコの苦難の歴史を知りたくて読んだのだが、そのときはよく理解できなかった。今回、ほんの1時間少々ルクセンブルグの旧市街を散策し、帰国してからその歴史を調べているうちに、すでに断絶しているルクセンブルグ家が、遥かにチェコのカールⅣ世につながっていることを知ったわけである。
素人には、ヨーロッパの歴史は、まことにややこしい。
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10時半、ルクセンブルグの旧市街を出発し、すぐに国境を越えて、ベルギーに入った。今日は、ベルギーの西の果て、北海まであと15キロというブルージュへ行く。以前から行ってみたいと思っていた中世の面影がそっくり残ると言われる街である。
EU圏の国境越えは、日本で県境を越えるのと同じで、道路の標識で知るだけだ。標識を見落とせば、いつの間にか違う国に入っている。
バスで走ること約140キロ、90分。デュルビュイという小さな田舎の町に着いた。ここで昼食をとり、町の中を散策した。
( デュルビュイの街 )
小さな町だが、ウルト川の渓流が流れ、小さな城や教会があり、ベルギーとしては標高が高い(400mの所にある)から、リゾート客もやってくる。結構、賑わっていた。
午後3時にデュルビュイを出発して、ブルージュへ向かう。ここから約250キロの道のり。
バスは、午後5時を過ぎたころから、(日本でもそうだが)、大渋滞に巻き込まれた。
太陽が沈み日も暮れかかって、ブルージュのホテルに到着した。ここで2泊するから、ちょっと気分が落ち着く。
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今夜の夕食はブルージュの町の中心のマルクト広場にあるレストランで食べる。
広場はホテルから近かった。
細い道から、ヨーロッパでも5指に入ると言われる立派な広場にいきなり出て、圧倒された。
暮れなずむ濃紺の空に映えて、ライトアップされた州庁舎と鐘楼が、非現実的なもののようにそびえていた。
( 暮れなずむマルクト広場 )
13~15世紀に建てられた鐘楼は、この町の象徴で高さ83m。
時を告げるカリヨンの響き。
時計のない中世の時代、時を告げる鐘楼は王や教会が建てた。ブルージュの鐘楼は、この町がヨーロッパの金融・貿易の拠点の一つとして発展して豊かになったとき、市民たちが建てたものである。市場の開始を告げる鐘楼を市民が建てるということは、王侯貴族や教会勢力からの市民たちの自立を表している。
先ほどの美しい濃紺の空はたちまち暗くなり、鐘楼の横に月が出た。満月だろうか。
( ブルージュの鐘楼と月 )
( 客を待つ馬車 )
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