ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

水車とフェルメール…ネーデルランドへの旅(10)

2017年12月22日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

     ( キンデルダイクの風車 )

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小雨のなかの風車群 >

 朝から小雨模様のお天気だ。アントワープでは一時、本降りになった。

 ルーベンスを鑑賞したあと昼食。午後は、バスでオランダとの国境を越え、キンデルダイクへ。

 バスから眺めるオランダの風景の印象は、司馬遼太郎の『オランダ紀行』にゆだねた方がよさそうだ。

 「… オランダは、大げさにいえば陸とも海ともつかない」。

 「世界は神がつくり給うたが、オランダだけはオランダ人がつくったということが、よくわかる。

 ベルギーの田園もうつくしいが、とてもオランダにはかなわない。牧草地には舐めてとったように雑草がなく、点在する林も、名画として描かれることを待っているようによく整っている。」。

    ( 上空から見たオランダ )

 「ゼーランド(州)は、日本史とむすびついている。幕末、幕府がオランダに注文した咸臨丸の誕生地なのである。この幕府の軍艦は、ライン川のほとりのキンデルダイクの造船所でつくられ、川をくだって河口の軍港(当時)で艤装された」。

 ということで、当然、このあと、司馬さんの一行はキンデルダイクの造船所と昔の軍港に向かい、咸臨丸を追う旅になるが、われわれのツアーは小雨のなか、世界遺産であるキンデルダイクの風車群の見学へ向かう。

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 葦の茂る運河沿いに、18世紀に造られた19基の風車が点在する。

 「風車で有名なオランダといえども、これだけ並んでいるのは、キンデルダイクのほかにはない」(『地球の歩き方』) そうだ。あいにくの小雨模様であるが、雨もまた風情がある。(と思うのは日本人だけかな?)。

   (キンデルダイクの風車群)

 この運河沿いにとっとと歩いて行けば、「博物館」として公開されている風車があり、内部を見学できると言われたが、雨が降って寒々としているし、遠そうなのでやめた。

 傘をさしてぶらぶらしていると、勢いよくさっさと歩いて帰ってきた一行の中の二人づれのお嬢さんたちに声をかけられた。「行かれましたか??」「いえ。望遠レンズで撮りました」。── 返事がおかしかったのか、笑っていた。

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< マウリッツハイス美術館とオランダ絵画 >

 また、🚌に乗って1時間。ハーグ(デン・ハーグ)に到着した。どんよりと曇っているが、雨はあがっている。

 ハーグはオランダの第3の都市で、国会議事堂をはじめとする政府機関や各国の大使館もあるが、首都ではない。首都はアムステルダム。

 町の中心は、ビネンホフと呼ばれる一角である。ここに国会議事堂、総理府、首相の執務室などがあり、マウリッツハイス美術館もある。

 国会議事堂は、「騎士の館」と呼ばれ、元伯爵邸だった建物で、深いレンガ色がオランダらしい。

 マウリッツハイス美術館は、国会議事堂の敷地に入る門の脇にあった。王立美術館で、その名はかつてこの館の主だった王家の血を引く貴族の名からくる。こじんまりした瀟洒な美術館である。 

     ( 国会議事堂の門 )

         ( マウリッツハイス美術館 )

   このツアーがハーグに来た目的はただ一つ、マウリッツハイス美術館にあるレンブランドの「テュルプ博士の解剖学講義」、フェルメールの「デルフトの風景」、そして「真珠の耳飾りの少女」を鑑賞するためである。

 午前、ベルギーのアントワープで、ルーベンスの「キリストの昇架」「キリストの降架」など、バロックの劇的でかつ生々しい宗教画を見た。

 同じ時期、オランダももちろんバロックの時代にあったが、オランダのプロテスタントの画家たちは宗教画をほとんど描かなかった。プロテスタントは、偶像礼拝になるとして、基本的に宗教画を否定した。

 確かに、ヨーロッパの中世美術は、教会の召使であったと言っていい。おびただしい数のキリストの磔刑や聖母子像が、教皇や司教の依頼で描かれた。

 14、15世紀になり、古代ギリシャ・ローマ文明が再発見されて、ルネッサンスの運動が起こると、ものの見方や考え方も変わり、絵画技術も進化して、同じ宗教画でも劇的な場面をより劇的に、人体の筋肉の動きも含めて「劇画」調に表現するようになった。絵の題材も、キリスト教の話ばかりでなく、ギリシャ神話にも広がる。

 バロックの時代になると、画家のパトロンは王や貴族に広がり、王の肖像画や馬上の雄姿や著名な戦闘の場面や王の家族の姿なども描かれるようになる。

 ところが、オランダでは、… スペインの王権から自立し、人々が市場経済のなかを生きるようになっていったから、町の旦那衆が仲間を組んでの割り勘払いで、自分たちの姿を描くよう画家に依頼するようになった。そして、やがては、今まで宗教画の「背景」でしかなかった風景や、名もない市井の人々の日常の姿を題材にして描く優れた画家も現れてきた。

 思えば、同じころ、わが国ではもっと進んで、芭蕉や西鶴が登場し、卑俗な自然(例えばセミやカワズやシラミ)や市井の人々の生活(大晦日の借金取り)に題材を取りながら、それを見事な文芸へと高めていった。

 レンブラント(1606~1669)、フェルメール(1632~1675)

 ややおくれて、西鶴(1642~1693)、芭蕉(1644~1694)

 ユーラシア大陸の西の果てと東の果てと、相互に影響しあうほどの文化的交流があったわけではない。

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レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」

    (「テュルプ博士の解剖学講義」)

 レンブランドは、ルーベンスに30年ほど遅れて活躍した。

 「テュルプ博士の解剖学講義」が描かれたいきさつを、司馬遼太郎はこのように描いている。

 なお、「テュルプ」は医者の名だが、普通名詞ではチューリップのことらしい。それで、司馬さんはユーモアをこめて「チューリップ先生」と言い換えている。

 「『わしが解剖しているところを、画家に描いてもらいたいんだがね』と、チューリップ先生はたれかに相談したはずである。チューリップ先生の目的は、医師としての宣伝にあった。

 『金は十分にはずむ。だから第一等の画家がいい。いまたれが腕達者だろう』

 『まだ26歳ですが、レンブラントがいいでしょう』とすすめた人がいたに相違ない。そういうわけで、かつて市長も務めたこともあるこの有名な医師から、若いレンブラントが注文を受けたのである。これが、レンブラントの声望を決定的にした大作『テュルプ博士の解剖学講義』になる」。

 絵の描かれたいきさつから言えば、広い意味での肖像画ということになろうか。群像が描かれているが、絵の主人公はテュルプ博士である。直接的な目的は宣伝(コマーシャル)のためらしい。現代のテレビ・コマーシャルの代わりに、どこかに掛けられたのであろう。

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フェルメールの「 「デルフトの風景」>

 しかし、マウリッツハイス美術館の至宝はフェルメールである。

 フェルメールは、レンブラントよりさらに30年近く遅れて生まれた。

 生前、画家としてそれなりに認められていたらしい。だが、寡作すぎて、レンブラントのように絵で食べていくことはできなかったろうと言われる。あまりにも寡作であったため、死後、長い間、世間から忘れ去られた。

 「デルフトの風景」のデルフトという町は、ハーグに近く、フェルメールが生まれ、暮らした町である。

 もし、ツアーではなく個人で行く旅であったら、私はデルフトには必ず行き、しかも、1泊しただろう。

 フェルメールの町であるだけでなく、オランダの対スペイン独立戦争(1568~1648)において、最も早くに立ち上がり、暗殺される(1584年)まで節を屈することなく戦い続け、今では「オランダ建国の祖」と言われるようになったオラニエ公ウィレムⅠ世ゆかりの町だからである。

 オランダの独立は、ネーデルランドの北部7州の都市が立ち上がり、多くの血を流すことによって勝ち取られたのであるが、市民たちに先立って果敢に戦いを始め、あらゆる手立てを講じて戦い続け、市民たちの先駆けとなった下級貴族の戦いを忘れるわけにはいかない。

 鎌倉幕府と10万の関東武士を相手に、わずかな手兵を率いて立ち上がった河内の土豪・楠木正成のようなものである。

 長い戦いを経てスペインからの独立を勝ち取ったオランダの市民たちは、自分たちの共和国を建国したが、その後、一度、ナポレオンによって国土を征服された。そして、1813年に再独立するに際し、オランダにも王を立てようということになって、建国に貢献したオラニエ家の当主が推戴され、王として迎えられた。ウィレムⅠ世の死から230年の後である。現在の国名は、ネーデルランド王国。

 ついでにデルフトについてもう一つ付け加えれば、日本に初めてやって来たオランダ人は、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステンであるが、そのヤン・ヨーステンの故郷がデルフトである。ヤン・ヨーステンの名は、八重洲(ヤエス)という地名で今も残っている。

 さて、フェルメールの「デルフトの風景」については、饗庭孝男氏の『ヨーロッパの四季』から引用したい。

  ( 「デルフトの風景」 )

 「17世紀のデルフトの静かな町の風景を描いたものだが、それでいて何か、『永遠の風景』というような趣があり、変わらずに遥か中空に鳴り響いている弦楽四重奏曲の、たとえば第二楽章の美しい世界のようにも思われる。これは日常のなかにあって『時の外』に立ち、しかも見入る人々の魂の安らぎをもたらす絵画なのだ」。

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フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」 >

  ( 「真珠の耳飾りの少女」 )

 この絵は、世界のフェルメールファンの恋人である。

 この絵を見ると、西洋絵画はフェルメールによって「芸術」になった、と言ってよいのかもしれないと思う。

 宗教に隷属した芸術ではない。お金を得るための芸術でもない。何よりも芸術のための芸術である。

 教会のためではなく、王侯貴族のためでもなく、金持ちの旦那衆の依頼によるのでもなく、画家ギルドの職人としてでもなく、「自分の心の世界」を描くために描く。あえて、誰かのためと言うのであれば、自分の絵を美しいと思ってくれる人のために描く。

 「デルフトの風景」も事実の再現ではないらしい。そこにあるのは、「永遠の風景」である。

 この少女も、モデルのとおりに描かれているとは思えない。ここに描かれているのは「永遠の少女」の像である。

 この少女や、この少女の親が、フェルメールの暮らしの足しになるほどの金を払ってくれたとは到底思えない。

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 美術館を出て、裏手にまわると、池を手前にして、美しいビネンホフの景観があった。

      ( ビネンホフ )

 ハーグから1時間。アムステルダムへ。

 夕食のレストランでグラスワインを注文したら、あまり美味しくない。飛行機の機内と同じように小瓶のボトルで出された。ボトルを見ると、何とアフリカ産のワインだった。

  ベルギーもオランダもビールの国だ。それにしても、同じEU圏、ドイツもフランスもすぐそこだというのに…。

 

  ( アムステルダムのレストラン )

 

      


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