ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

大天使ミカエルの岩山とノルマンディ地方 … 観光バスでフランスをまわる9

2022年07月23日 | 西欧旅行…フランス紀行

  (モン・サン・ミッシェル)

 ロワールのお城めぐりの後、バスでモン・サン・ミッシェルへ向かった。

 ノルマンディ地方に入ると、家々の作りも色合いも違ってきた。バスが通り過ぎる町や村の趣が、地中海側の南仏とも、ロワール渓谷の町や村とも違う。風土が変わると、文化が変わり、町並み、家並みも異なってくる。

 フランス第一の観光地であるモン・サン・ミッシェルは、ノルマンディ地方のコタンタン半島の西側、サン・マロ湾の海上に聳えている。

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<モン・サン・ミッシェルの縁起>

 「モン・サン・ミッシェル (Mont Saint-Michel) 」は、聖ミカエルの山。ミカエルはヘブライ語で、フランス語ではミッシェル。聖書に出てくる大天使の名。

 もともと、島全体が岩山だった。

 今は海岸線を堅固な城壁が囲み、城門を入ると門前町が続く。

 その上、岩山の中腹から上に聳える建造物が、大天使ミカエルに捧げられた修道院である。

 真ん中の尖塔の高さは、海面から150m。その天辺には、悪魔の象徴である竜と剣を抜いて戦う大天使ミカエルの像がある。この尖塔は新しく、19世紀の建造。

  (聖ミカエルの尖塔)

 なぜ、聖ミカエルに捧げる聖堂がこんな場所に建てられたのか それを伝える縁起がある。

 以下、今回と次回、モン・サン・ミッシェルの歴史を、見学の時にもらった日本語のしおり、バチカン学の荒井佑造先生の講義、そして紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』などを参考に書く。

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「モン・トンプ」と呼ばれた巨大な岩山

 伝承では、もともと、そこは、サン・マロ湾の中の「島」ではなかったという 

 陸続きで、森に覆われていて、森の中から突き出した岩山だった。

 以前は陸続きだったのか、もとから島だったのか。いずれにしても、こういう突出した岩山は聖地となり、神域となる。それはわが国でも同じである。

 紀元前のこのあたりのケルト人たちは、そこをモン・トンブ(墓の山)と呼んでいたらしい。

 そして、ケルト人の時代にはベレンという神、その後、ローマ人が入植してケルト人がローマ化した時代にはメリクリウスという神が祀られていたという。

 ローマ時代の末期、この地方にもキリスト教の教えが伝えられ、人々はキリスト教徒になっていったが、この岩山は初期キリスト教の時代にも聖なる地として受け継がれた。

 キリスト教の2人の修道者(ケルト系の隠者)がここにささやかな礼拝堂を建て、庵を構えて修行した。ケルトの「大地の母なる神」への信仰とキリスト教の「聖母マリア」崇拝とが重ね合わされるような、素朴なキリスト教信仰の時代だった。

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 夢に現れた聖ミカエル

 時代は進み、西ローマ帝国滅亡後の混乱の後、ゲルマン民族の中のフランク族がフランス(ガリア)を統治するようになった。彼らはカソリックに改宗して、先住のローマ系やケルト系の人々を安心させ、うまく統治した。

 そのフランク王国のメロビング朝(481~751)の終わり頃のことである。

 アヴランシュはこのあたりの中心となる町で、モン・サン・ミッシェルから10数キロの高台にあり、今でも町からサン・マロ湾を望むことができるそうだ。

 そのアヴランシュの町に司教座が置かれていた。

 ある夜、司教オベールの夢の中に、なんと 大天使ミカエル (仏語で聖ミッシェル) が現れた。聖ミカエルは、オベールの夢の中に3度も現れ、あの森の中に聳える岩山に、自分に捧げる礼拝堂を建てよと命じたのだ。

 それで、オベールは人を遣わして、イタリアにあった聖ミカエルに捧げる礼拝堂を調査させ、その報告を参考にして、この岩山に礼拝堂を建てた。

 これが今に伝わる「モン・サン・ミッシェル」の「縁起」で、西暦708年のこととされる。もちろん、今、見る壮大な聖堂ではないが、それなりの石造りの礼拝堂だったと思われる。

 翌年、さらに、奇跡が起こった 岩山を囲む一帯の森が沈んで、岩山は海の中の岩山になったというのだ。

 もちろん、陸地の森が海になったという話は信じがたい。いかにも中世前期らしい奇跡譚だと思われていた。

 モン・サン・ミッシェルの周囲を流れる潮の干満の差は激しく、干潮のときには陸続きのようになり、巡礼者たちは歩いて島へ渡っていた。そういうことから生まれた伝説ではないかと考えられていた。

 ところが、この湾の底の地質を調査していた学者が、ここが8世紀頃まで森だったという証拠を発見したという。つまり、地盤沈下とか津波とかで沈んだ可能性も考えられるというのだ。

 ありえない話ではない。例えば、北琵琶湖の湖底に、縄文時代の住居や道、丸木舟、石垣、石室、そして大樹の根が発見されている。何らかの地殻変動があったのだ。

 とにかく、こうして、海上に聳える「モン・サン・ミッシェル(聖ミカエルの岩山)」の原型が出来上がった。

 (以下、モン・サン・ミッシェルのその後の歴史は、次回にまわします)。

 (礼拝堂の竜の飾り彫り)

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<閑話1ー1 --- ノルマンディ地方のこと>  

 フランスのノルマンディ地方は、9~10世紀に、ノルマン(北の人)、即ちスカンディナヴィアからやって来たヴァイキングが攻め入り、支配・定着した地方のことである。

 ヴァイキングは、古ノルド語でビーイング。「vik」は入り江のことらしい。ビーイング(ヴァイキング)は「入り江の人」の意。もとはフィヨルドの民で、その後勢力圏を広げて「ノルマン」となる。

 彼らはもと、深い入り江の奥で、農業や牧畜によって生計を立てていた。

 だが、もう一つの顔があった。

 吃水の浅い船で船団をつくり、北の海の島々や半島 ── アイスランド、グリーンランド、アイルランド、デンマーク、イングランド ── さらに大陸へ渡ってフランス北部へ、交易・略奪に出かけ、植民もした。ヨーロッパ大陸の河川は流れが緩やかだから、吃水の浅い彼らの船は内陸部へどんどん遡っていくことができた。町や村を守るべき領主や修道院も襲われ、襲われた町や村は廃墟になったという。

 彼らは、既にAD847年には、サン・マロ湾の海上の聖地、司教オベールが礼拝堂を建てた「聖ミカエルの岩山」を占領している。

 AD882年には、セーヌ川河口から遡って、西フランク王国(カロリング朝)のパリを包囲した。この時は、パリ伯ウードが撃退した。(ウードの子孫はやがてカロリング朝に代わってフランス王になる)。

 パリの占領はならなかったが、彼らはセーヌ川の河口地域からその西一帯の広大な地を占領し、冬を越して居ついた。

   ついに911年、西フランク王はノルマンの首領のロロと交渉し、彼をノルマンディ公にする代わりに、キリスト教に改宗し、王に臣従することを誓わせた(封建関係)。

 こうして、セーヌ川下流からコタンタン半島を含む一帯を領するノルマンディ公国が生まれた。

 ノルマンディ公国は、18世紀の終焉まで、モン・サン・ミッシェルに手厚い保護を与え続けた。

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<閑話1-2 その後のノルマンの活躍>

 NHKテレビで放送されたアニメ『ヴィンランド・サガ』は、AD1000年頃のヴァイキングの物語。

 私は主人公の若者が父の仇と何度も決闘を挑むアシェラッドが好きで、彼が死んだときは「ロス・アシェラッド」になった。ちなみに、アシェラッドのキャラクターは典型的なハードボイルドだと私は思っている。クールでニヒルなリアリストだが、その魂の奥底には熱いものを秘めている。彼の出自はノルマンではなく、ウェールズ。アングロ・サクソン、そして、ノルマンに抵抗し続けた、誇り高いローマ系のウェールズ人だった。

 「サガ」とは伝承、或いは物語。北欧の口承伝承で、12世紀頃に文章化されたようだ。日本で言えば、「古事記」や「日本書紀」の原型となった帝紀・旧辞のようなものだろう。

 「ヴィンランド」は、この物語の主人公がやがて到達するアメリカ大陸のどこかの地名。カナダのニュー・ファウンドランド島ではないかと言われている。ヨーロッパ人の「アメリカ大陸発見」は、16世紀のコロンブスではなく、11世紀のノルマン人だった

 ノルマンの活動はさまざまで、フランスの北部にできたのがノルマンディ公国。ロロ(ロベール)の子や孫や曾孫はフランス語を話し、フランス流の礼儀作法を身に付け、立派なフランス貴族になっていった。

 ところが、初代のロロ(ロベール)から110年ほど。ヴァイキングの血が再び騒いだのか、7代目のノルマンディ公ギョーㇺ2世(英語ではウイリアム)は、1066年、王家の相続問題で揺れるイギリスに遠征し、あざやかにイングランドを征服してしまった。

 ギョーム(ウイリアム)は、イギリスでは国王、フランスではフランス王の臣下という奇妙な立場となり、世代交代が進み、婚姻関係も絡んで、後の英仏百年戦争の遠因となった。

 いずれにしろ、今の英国女王も、貴族も、その先祖を遥かに遡れば、ギョームと、彼の部下だったノルマンディ公国の騎士たちにたどり着くことになる。

 英語は今や国際語だが、実は1066年以後に大量のフランス語が入ったから、英語の3分の1はフランス語起源だそうだ。つまり、英語はまだ千年しかたっていない若い言語だということ。英語が論理的で優秀な言語だと思い込んでいる日本人が多いが、それはコンプレックスですよ、と、フランス文学者の篠沢秀夫教授は仰っている。

 イギリスに遠征したギョームと同じ時代に、ノルマンディ公国の一部の騎士の子弟たちは船団を組んで南下した。ジブラルタル海峡を通過し、地中海へ深く侵入して、やがてシチリア・南イタリアに王国を打ち立てる。

 第6次十字軍を率い、スルタンとの交渉によって条約を結び、平和裏にエルサレムを開放した皇帝フリードリッヒ2世。彼はシチリアで生まれ育ち、アラビア語の読み書きもできた。母親はシチリア王家で、ノルマン系である。

 (車窓のモン・サン・ミッシェル)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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