ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ロワールの森 … 観光バスでフランスをまわる8

2022年06月25日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ロワール川)

<ロワールのお城めぐり>

 10月10日。曇りのち晴れ。

 ロワール川はフランス第一の河川である。

   フランス中央山塊から流れ出て、北上し、オルレアンで西へ転じて、ナントの先で大西洋に出る。

 オルレアンから下流のロワール地方は、いく筋もの支流、広々とした丘、深い森が陰をつくる、地味豊かな土地である。

 英仏百年戦争 (1337~1453)のあと、フランス王家や宮廷貴族らが大小の城館を築くフランス王家の文化圏となった。現代フランス語の「標準語」(日本の「標準語」とは違い、文章語にもなる正しいフランス語の意) は、この地方の言葉と宮廷の言葉が融合したものだという。

 南仏のような雛(ヒナ)のにおいのする文化とは違い、より洗練された王侯貴族の土地柄なのだ。

 観光としては「ロワールのお城めぐり」。

篠沢秀夫『フランス三昧』(中公新書)から

 「大砲の発達で戦闘用の城は役に立たなくなって、16世紀から『シャトー』は優雅豪壮な『城館』に変わった」。

 「16世紀から17世紀にかけて、なんでこんなに次々に王家はシャトーを建てたのか。一口で言えば狩りのためである」。

 「飛び道具を使う狩りも、鷹を使う狩りもさることながら、飛び道具なしの古式ゆかしい『ヴェヌリー』(巻狩り)が関心の的だった。騎馬の狩猟隊がその日に1頭の大鹿をこれと定めたなら、それだけを何時間もかけて猟犬隊とともに追いつめる」。

 ── 森の中のちょっと開けた所で、騎士たちが吠えまくる猟犬たちとともに、一頭の大鹿を完全に包囲して円を作っている。前後左右のどの方向にも動けなくなった大鹿が、囲まれて静かにたたずんでいる。そういう絵、或いは写真を見たことがある。

 彼らにとって、狩猟は軍事訓練の場でもあった。

                      ★

<秋色のロワール地方>

 今日の行程は、トゥールのホテルを出発して、まずロワールの「お城めぐり」。

 しおりには「古城めぐり」と書いてある。しかし、私の中で「古城」とは十字軍時代のような中世の城塞のイメージ。今日、見学するのは、そういう「城塞」ではない。16世紀以後に古城を改造し、或いは新築した王や貴族の豪華な城塞風邸宅、すなわち「城館」。「宮殿」に近い。

 しかしそうは言っても、これは私の独断と偏見。「Chateau」と「Palais」の違いも私にはわからぬ。

 昼食後は、270キロ、3時間半のバス旅で、フランスの最北西部・ノルマンジー地方の海に臨む世界遺産「モン・サン・ミッシェル」を見学し、その近くのホテルに泊まる。

 フランスの空気が入れ替わったのか、或いは、私たちが北上してきたせいなのか、気温が変わった。昨日までの蒸し暑さは去り、爽やかな秋。南仏の観光途中、あまりの暑さに半袖シャツを買った。その半袖はもう要らない。

 樹々が色づいている。森には落ち葉があり、秋色のフランスだ。

 フランスの秋は短い。すぐに日照時間の少ない冬になる。

 ロワールのお城めぐりは、この旅行よりも15年も前、フランスとドイツ視察研修旅行の際、日曜日のまる一日をかけて、シャンポール城、アンボワーズ城、シュノンソー城の3城を見学した。

 日本からずっと引率し通訳もしてくれた添乗員氏はたいへん優秀な人で、この日曜日の観光でも、城の歴史やエピソードを興味深く話してくれた。

 今回のツアーの「お城めぐり」は、昼食までのインスタント版だ。 

        ★

<アンボワーズ城を眺望する>

 アンボワーズ城は、バスから降車して眺めた。「下車観光」で、「入場観光」ではない。

 下の写真を撮っている場所は、ロワール川の川中島。川の中に島があるから、島を中継地として橋を架けやすい。橋があれば、そこは要衝となる。

 すでにローマ時代から橋はあり、橋の東南側の高台、即ち今、アンボワーズ城がある所に城塞が築かれていた。

 (ロワール川とアンボワーズ城)

 15世紀末から16世紀の前半にかけて、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世の時代に、このお城は中世的な城塞から近世的な城館へと増改築され、壮大な城館になった。

 だが、その後、大部分は取り壊され、今に残っているのはロワール川に面している部分と聖ユベール礼拝堂だけ。

 この城には、直径が21mの巨大な円筒があり、ラセン状のスロープを乗馬したまま、或いは馬車で上ることができるように造られている。15年前に訪れたときはそこを歩いて上り、屋上からロワール川を眺めたことを覚えている。

 ただ、お城の中は、日本のお城でも、西欧のお城でも、どこか殺風景な感じがして、味わいはない。

 城は外から眺めているのが良い。或いは、いっそのこと、荒城とか城跡。

 夏草や/兵(ツハモノ)どもが/夢の跡 (芭蕉)

 不来方(コズカタ)の/お城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五の心 (石川啄木)

 かたはらに/秋草の花/語るらく/滅びしものは/なつかしきかな (若山牧水)

 スロープ状のラセン通路は、すでにローマ時代にあった。ローマのサンタンジェロ城。バチカンが攻撃された時、教皇様はここに籠城した。

 しかし、この円形状の建造物はもともと城ではない。ローマ時代に、皇帝ハドリアヌスが歴代皇帝の墓所として造ったものだ。ほのかな明るさの中、徒歩でスロープを上っていくとき、古代の静けさと安らぎを感じることができた。あれは、城にしてはいけない。墓所である。 (当ブログ「イタリア紀行」参照)。

 (ローマのサンタンジェロ城)

 話は変わって、フランソワ1世は大軍を率いてイタリアに遠征し、イタリアの都市国家を震え上がらせた。しかし、フランソワ1世の方も、今を盛りのイタリア・ルネッサンスの建築や庭園、絵画や彫刻、学術、さらには料理に到るまで、文化のレベルの高さに圧倒された。自分を大軍を率いた単なる田舎者だと思った。

 そこで、多くのイタリアの文化人をスカウトし、招聘して、そこからフランス・ルネッサンスを興した。招いた代表的な人がレオナルド・ダ・ヴィンチ。

 ダ・ヴィンチは、このアンボワーズ城から300mほどの所の館で人生の最後の3年間を過ごした。墓はアンボワーズ城の聖ユベール礼拝堂にあるそうだ。

 フランソワ1世は、ダ・ヴィンチに対して、父に対するように敬意を払い、ダ・ヴィンチとの語らいを好んだという。   

       ★ 

<シュノンソー城の女主人たち> 

 ロワールのお城めぐりで一番人気は、エレガンスなシュノンソー城。ここは「入場観光」した。

 ロワール川の支流のシェール川の流れの上に、ルネッサンス様式の端正な城館がたたずんでいる。

 水に姿を映す白鳥のような城館も、瀟洒な部屋部屋の調度類や美術品も、周囲のフランス式庭園も、美しく気品があった。

  (シュノンソー城)

 この城の持ち主は、16世紀の創建以来19世紀まで次々と代替わりしたが、6代のすべてが女性だったそうだ。

 その6代の女主人の中でも、フランス王アンリ2世の「寵姫」であったとされる2代目のディアーヌ・ド・ポアティエと、政略結婚でメディチ家から輿入れしアンリ2世の正妻となった3代目のカトリーヌ・ド・メディシスとの三角関係について、どのガイドも熱心に説明する。洋の東西を問わず「大奥もの」或いは週刊誌のゴシップ記事的な話は好まれるのだ。

 以下は、そういうガイドの話にはあまり出てこない話。 

 15年前、シュノンソー城を訪ねたときの添乗員氏の説明が興味深くて覚えていた。

 その後、同じ話を、紅山雪夫さんが『フランスものしり紀行』に書いているのを見つけた。

 この城の初代の女主人の話である。以下、紅山さんの著書から、その要点。

 初代のシュノンソー城は、上掲の写真の建物の右側の部分 ── お城らしく屋上にごてごてと塔が並び立つ部分 ── であった。ここが、城館である。

 それに接続する川を渡る建物はギャラリー(回廊)。3代目のカトリーヌ・ド・メディシスが橋の上に建てさせた。全長600m、幅は6mしかない。川や庭園を眺望する18の窓がある。舞踏会場として使われたという。

 話は、右側の城館の部分である。

 16世紀の初め、国王の財務官だったトーマ・ボイエという人がこの地を買い取った。

 彼はそれまであった中世の城塞とシェール川にかかる大きな水車台を取り壊し、水車のあった所にルネッサンス様式の城館を建てた。川の上に城館を建てたのは、独創的なアイディアである。

 しかし、彼は仕事が忙しい。城館の設計や工事の指揮をとったのは、妻のカトリーヌ・ブイソネさん。「彼女は貴族の出ではなく、富裕な銀行家の娘だったから、それまでの城館建築の伝統にこだわらないで、2つの新機軸を生み出した」。

 1つ目は、まっすぐな階段を付けたこと

 「それまで、城の階段は『上りが時計回りになるラセン階段』と決まっていた。その理由は敵の急襲を防ぐためである。まっすぐな階段だと一気に駆け上がられてしまう」。

 それに、「上りが時計回りになるラセン階段」だと、防ぐ方は上から右手で自由に刀槍がふるえるが、攻め上がる方は右手が上手く使えないし、左半身が敵の攻撃にさらされる。

 だが、もう戦いを意識した城塞づくりの時代ではない。カトリーヌさんは、ラセン階段をやめた

 お城でも、大聖堂でも、何度か長いラセン階段を上り下りしたことがあるが、怖い。特に狭い階段で上下、すれ違う時は怖かった。つま先に壁のない、空洞の階段だと、さらに恐怖心が増幅する。欧米人は体格が良く、その上太った人も多いから、ふうふうと息を切らした上に足元が不安定なおばさまにもよく出会う。そういう人とすれ違う時は、足を止め、ぴったり端に寄ってやり過ごす。

 このツアーでは行かなかったが、15年前にシャンボール城を見学したときも、ラセン階段を昇った。シャンボール城のラセン階段は、同じ軸を中心とした2つのラセン階段なのだ。「ここを上り下りする人たちはお互いに相手の姿は見えるけれども、途中ですれ違うことはない」。ダ・ヴィンチが知恵を貸したのではないかと言われている。これなら、攻め上がってくる敵と戦わずに、外へ逃げ出すことができるかもしれない、などと思った

 カトリーヌさんはそういうラセン階段を、自分のお城から追放したのだ。

 2つ目は、各階に廊下(ホール)を設けたこと。各部屋は、真ん中を通る廊下(ホール)の両サイドに並ぶように設計した。

 「中世の城には廊下がなく、部屋から部屋へと次々に通り抜けて、いちばん奥の部屋に達する方式だった。奇襲を防ぐにはこういう構造の方が良い。そしてどの城でも、入ってすぐの部屋には衛兵が詰めていた」。

 カトリーヌさんがお城に廊下を設け、どの部屋にも別個に出入りできるようにしたのは、彼女が貴族の奥方でなく、「主婦感覚」で発想したからかもしれない

 この2つのエピソードは、イノベーションがどのように起きるのかを考えさせ、面白かった。

 この新たな発想の城館を造った初代のご夫婦は、不幸にも次々他界し、「Chateau de Chenonceau」は王家の所有になる。

 このツアーでは、上記のような説明はなかった。紅山雪夫さんに感謝。

        ★

<森の中の道> 

 (シュノンソーの森)

 シュノンソー城とバスの駐車場との間は、森の中の道をたどる。

 シュノンソー城で一番心に残った所は?? と聞かれたら、この森の中の道と答える。

 水に映るシュノンソー城も、瀟洒な各部屋の作りも、フランス式庭園も、美しくエレガンスだとは思うが、もう一度、わざわざ訪ねて行きたいとは思わない。

 王や貴族の城館とか宮殿は、豪華で壮大、時に気品があって端正だが、「人間」を感じない。「博物館」化している。それなら、いっそ、廃墟の城跡の方が、「人間」や「歴史」を感じることができる。歴史とは、日々を生きる人間の生の積み重なりである。

 今もミサが行われている生きたキリスト教の聖堂には、人間と歴史を感じることができて、キリスト教徒でなくても心を動かされる。

 しかし、歴史のある壮大な大聖堂でも、今は「博物館」になってしまって、学芸員が管理しているところもある。そういう伽藍洞を見ても感動はない。

 (森の樹木)

饗庭孝男『フランス四季暦』から

 「…… ショーモンの城館もさることながら、その森のなかの散策のほうに私は惹かれた。木洩れ陽のなかを歩く時、どこの地方の森もそうだが、より深く、より遠く、森の奥を辿って行きたいという思いにかられる。野鳥の啼く声に惹かれ、走り去る兎のあとを追って行く時、クールベの絵にあるように、思いがけなく清冽な泉やせせらぎに出会うのである」。

 「森から出て河辺に出てみる。シェール河のほとりは何度佇んで眺めていてもあきない。トゥールから行けばシュノンソーをとおり、サン・テニヤンを抜け、ブールジュにいたる。…… ゆるやかな河辺に佇んで、夏の白い雲を追っていると、何故か私の好きな詩人、伊藤静雄の詩句がうかんでくる」。

 もう一度、ロワール地方を訪ねることができるなら、このような旅をしたいものだ。ただし、その場合は、自分で自由な旅を企画しなければならない。

  時々、引用させていただく饗庭孝男さん

 ウィキペディアによると、1930年~2017年。青山学院大学名誉教授など。仏文学者。「西洋の文化や風土と、その精神や思想を、時に日本と対比しつつ考察論述した」とある。

 私には心惹かれる人である。

 

 

 

 

 

 

 


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