( チュイルリー公園とモンマルトルの丘 )
5月30日(土) 曇りのち晴れ
< ブルゴーニュのタクシードライバー >
ヴェズレーの丘に迎えに来てくれたタクシーの運転手は、昨日の運転手より一回り年上だろうか? アヴァロンの駅まで送ってもらう。
昨日の若い運転手は、国道だか県道だかを120キロのスピードで走って、肝をつぶした。が、今朝のタクシーは、対向1車線ずつとはいえ、野の道、林の道、畑の道を120キロで飛ばす。ひぇー
しかし、アヴァロン駅に着くと、荷物を降ろしてくれ、「良い旅を」と手を差し出した。「ありがとう」と、握手して別れる。落ち着いた、感じのいい好青年である。
ヨーロッパ式の車の運転と、日本の車の運転とは、かなり感覚が違うのだろう。
さて、これで、ブルゴーニュの旅は終わった。
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< アヴァロン駅で >
田舎の駅のせいか、券売機がない。券売機があれば、英語バージョンの画面にして、操作できるのだが…。
窓口には、身体の大きな年配のおじさんがいる。この駅で、たった1人の駅員のようだ。この旅の手製の日程表の、今日の列車の箇所を示して、「この列車の切符を」と英語で言うと、その紙に「 Age + 60 ? 」と書いて示す。「イエス。ウイ、ウイ」。
ヨーロッパでは、アンダー18歳と、60歳以上の汽車賃は、かなり安くなる。特急列車(TGV)ではないし、1等車でもないから、たいした値段ではないのだが、わざわざ確認してチケットを作ってくれるのが、うれしい。
アヴァロン発10時46分、パリには1時54分に到着する。
列車は、一昨日、オーセールで眺めたあのヨンヌ川に沿って北上した。
どこかで、セーヌ川に合流する。そして、パリへ。
( 車窓風景 )
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< パリの空の下、セーヌは流れる >
ルーブル美術館の隣の、小さなホテルの、これ以上小さくならないという部屋に荷物を置いて、ホテルを出たのは午後3時。(こんな部屋でも、この旅で泊まったホテルの中で最高の値段だ)。
朝、ヴェズレーでタクシーに乗ったときは曇り空だったが、パリは青空と、白い雲。
今回のパリは、明朝、帰国の飛行機に乗るためである。
だが、せっかくだからオルセー美術館だけは行こうと、日本でオルセーのHPを開いて予約チケットをゲットしてきた。もう何度もパリに来ているのに、オルセーには一度も入っていない。
ホテルのあるセーヌ川の右岸から、ボン・デザール橋を渡って、左岸沿いにオルセー美術館へ向かう。
セーヌ川沿いの左岸の道も、ぞろぞろと歩く観光客で一杯で、昨日までのブルゴーニュの田舎の風景が嘘のようだ。
( ポン・ヌフ橋とシテ島)
パリの良さは、街の中をセーヌ川が流れ、建物すべてが5、6階建てに統一されているから、空が広く、明るく、開放感があることだ。気分がうきうきする。
それに、どこか哀愁があって、シャンソンが似合う街でもある。しかし、最近は、アコーデオンのおじさんが弾く「パリの空の下、セーヌは流れる」の軽やかな音色を、街角で聞くことがなくなった。
それでも、各国からやって来た観光客たちは、みんなニコニコして、幸せそうに歩いている。そう、テーマパークに入ったときの顔と同じだ。
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< オシャレなオルセー美術館 >
( 旧駅舎を改修したオルセー美術館 )
オルセー美術館の中は人が多く、人いきれで暑苦しかった。中国人が多い。
しかし、駅舎を改修した美術館はなかなかオシャレで、さすがはパリのセンスである。
( 地上階を見下ろす )
写真撮影を許可しているのも、さすがフランス。ただし、フラッシュ撮影は厳禁である。
オルセーで期待していたのは、印象派の絵だけではなく、屋上のテラスからの展望である。パリのど真ん中、セーヌ川を見下ろすビューポイントはあまりない。
遠く、モンマルトルの丘が、印象的だった。
( チュイルリー公園とモンマルトルの丘 )
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< ラテン地区 >
オルセーを出ると、この旅もいよいよ終わり。あとは、付録の付録、オマケのオマケだ。
ホテルに帰るには日はまだ高く、セーヌ左岸の5区、6区 (ラテン地区) を歩いてみる。
ラテン地区は、ラテン語 (ローマ語) を話す人々の地区の意らしい。BC1世紀に、ユリウス・カエサルの部下ラビエヌスがローマ軍を率いてシテ島に入り、やがてセーヌ左岸に街が造られた。今でも、この地域には、小規模ながらローマの遺跡が残っている。
中世になると、ソルボンヌ大学がつくられた。ラテン語は必須で、各国からやって来た学者や若者はラテン語を共通語として会話した。スペインのバスク地方からやってきたソルボンヌの学生フランシスコ・ザビエルも、この辺りで生活し、勉強した。
戦後しばらくまで、長い間、普通科リセ (大学進学コースの中高一貫校) へ入学した生徒は、ラテン語が必修科目だった。今でも、普通科リセに入学する生徒は3~4割に過ぎないから、エリートであった。言い換えれば、ラテン語ができるということは、ヨーロッパ社会において、知的スノッブであることだった。
セーヌ左岸の5区、6区とは、そういう学生、教授、文学者や思想家などの街であった。
今も、このあたりには、パリ大学の中心ソルボンヌ大学や、高等師範学校、フランスで最難関の普通科リセなどがある。サルトルは、高等師範学校の先生をしていた。
しかし、この街も、この20~30年の間に変容し、今ではすっかり「オシャレな街」に様変わりしてしまった。ただ、どこか知的な雰囲気を感じさせる「オシャレな街」である。どんなに商業主義化しても、元の文化の香りを残すという繊細なセンスにおいて、ヨーロッパ人、なかんずくフランス人やイタリア人は優れている。ブルドーザーとセメントで、スクラップ&ビルドするばかりが、文明ではない。
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< リュクサンブール公園からサン・シュルビス教会へ >
RER(地下高速鉄道)でリュクサンブール公園へ行き、散策した。
この公園は、17世紀に、アンリⅣ世の妃、マリー・ド・メディシスが造らせたイタリア式庭園である。左岸 (ラテン地区) の中心であるソルボンヌ大学の西に位置する。
( リュクサンブール公園 )
以前、来たときは、秋が深く、ベンチで日向ぼっこする人がわずかにいるだけだった。木々は黄葉し、枯れ葉が舞って、ここにもパリがあると感じた。
しかし、今日は、陽春の土曜日の午後。たいへんな人出で、その落差に驚く。
本を読む孤独な初老の男。子どもを遊ばせる若いパパ、或いは、ママ。職場の同僚、或いは、男女。いろんな人が、ただ日差しを浴びている。日本人は、この紫外線を浴びるだけの日光浴に耐えられないが、これもまたパリだ。
正面のリュクサンブール宮殿は、今は上院となっており、建物の周辺は、そちらにもこちらにも自動小銃を持った警官が配置されて、そばを通るだけでも、緊張する。
公園を出ると、北の方、セーヌ川へ向かって歩く。街の中も、どこもかしこも、人であふれていた。
サン・シュルビス教会へ入る。西正面扉口から入った右手の壁に、19世紀にドラクロワが描いたフレスコ画「ジャコブと天使の戦い」を見つけた。以前、来たときはわからなかった。
さらに北へ歩いて、サン・ジェルマン大通りの手前の路地にある日本料理店「築地」へ。刺身、サラダ、寿司、味噌汁、それに茶碗蒸し、熱燗。ちょっと贅沢した。
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< サン・ジェルマン・デ・プレ教会からセーヌ川へ >
サン・ジェルマン大通りを渡ったところに、「カフェ・ド・マゴ」。そのテラス席で、サン・ジェルマン・デ・プレ教会のロマネスク風の塔を眺めながら、コーヒーを飲んだ。
( サン・ジェルマン・デ・プレ教会 )
※ このカフェについては、以前にもブログに書いた。2012年10月21日号「セーヌ川の畔で」。カテゴリーは「西欧旅行…旅の若者たち(3)」である。
5月下旬のパリの日没は9時半。おそい黄昏れが、やっと訪れる。
カフェ・ド・マゴから歩いてすぐ、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の北に、ドラクロワがサン・シュルビス教会の壁画を描くために住んだという小さな家 (アトリエ) が残されている。今は、ドラクロワ記念館だ。
その記念館のあるごくごく小さな広場、フュルスタンベール広場を過ぎて、振り返ると、広場の中心の4本の樹木の向こうに、元サン・ジェルマン・デ・プレ修道院の、修道院長の館が見える。
カフェ・ド・マゴからのサン・ジェルマン・デ・プレ教会の眺めとともに、私の心ひかれる「パリの小さな風景」の一つである。
( フュルスタンベール広場 )
ここからは、どの道を通っても骨董店や画廊のあるパリらしい路地裏の通りを歩いて、ひとりでにセーヌ川に出る。
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< 夜のセーヌ河畔と満月 >
疲れていたが、足腰の最後の力をふりしぼって、もう一度、夜のセーヌ河畔を散策する。今日の万歩計は、2万歩を超えるだろう。
昼と同じくらいに人が歩いていて、若者も多く、陽気で、楽しそうである。
セーヌ川の向こうにエッフェル塔が見える。
パリゼロ番地のノートル・ダム大聖堂もライトアップされ、その姿は気品がある。
( ライトアップのノートル・ダム大聖堂 )
今夜は満月なのだろうか?
( 大聖堂の上の月 )
明日は、帰国の飛行機に乗る。日本の月を見たくなった。
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< 旅の終わりに >
「ブルゴーニュ・ロマネスクの旅」の紀行は、これで終わりとします。
随分と、微に入り、細をうがつ内容となってしまいました。真面目に読んでいたら大変で、読み飛ばしていただいたと思います。
自分の頭の整理のために書きました。もし、ブログに書き留めるという作業をしなければ、せっかく本で読んで得た知識もあいまいなままに四散霧消し、旅の記憶もたちまち忘れていったことでしょう。
それにしても、われながら、毎回、力仕事でした。
勉強し、計画を立て、あれこれと準備するのも結構な力仕事、旅の10日間も年とともに力仕事となり、帰ってからブログにまとめるのも、私にとってかなりの力仕事です。
しかし、こういうことができている間は、まだ生きているということの証しだと思いましょう。
次に、また行くとしたら、古代ギリシャやローマ時代の遺跡の残るトルコ、或いは、ユーラシア大陸の果て、ロカ岬のあるポルトガル…。
いずれにしろ、もう少し楽な旅を工夫しなければ、ちょっと無理です。
それはともかく、このブログは、ちょっと休憩とします。なにしろ、毎回、A4用紙に印刷して、10枚前後。疲れました。
また
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